見出し画像

「『長すぎた黄金時代』あとがきに代えて」【掌編小説】

 私がこの作品を書き進めるにあたり、自分以外の読者を獲得するため、きりのいいところまで書き上げるたびに、いくつかの形で姉に原稿を送っていた。原稿用紙やメールや印刷した状態で。忌憚のない意見を貰える相手として、身内は適切ではないと思われる方もいるだろう。しかし私としては、自身の少年時代を大幅に拡張したこの物語の細部を、修正、もしくは再拡張するために、姉の助けを必要としていたのだ。

 姉と私の記憶違いは数多くあった。そのどちらかが正確であるかを証明出来る父母は既にいない為、最終的には私の書く小説に書かれたことこそが、我々共通の認識と変貌する羽目にもなった。そのことを姉も「曖昧な私の記憶が小説によって塗り替えられていく」と表現していた。

 黄金時代は短い。そのことを私は鮎川信夫の詩によって教えられた。


Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・・・
(鮎川信夫『死んだ男』より)


 戦死した詩友に向けて書かれたこの詩の言葉の一部を、私は自身のものとして受け止めてきた。「短かった黄金時代」は時に「短すぎた黄金時代」という言葉にも置き換えられた。一人の子どもが物心のつく三~四歳から、思春期あたりまでの頃を、少年期における黄金時代と定義するのなら、我が家にとってのそれは父の死により唐突に終わりを告げた。姉が十五歳の時に父は錯乱と狂気を携えて亡くなった。姉にとっての黄金時代は十年間は保証されていたわけだ。引き換え、姉の七つ年下だった私にとっての黄金時代は、四、五年に過ぎなかった。父の錯乱の萌芽が実際の発症よりずっと以前からあったものと考えれば、姉が享受出来た父母からの愛情を、私はその半分も受け取れはしなかった。身体だけ大きくなった、幼いままの私の精神は、終わることのない黄金時代を求め続けていた。
 私はこの話を結局は姉に向けて以外に公開するつもりはない。私と姉の記憶を、都合のいい方向へと改竄する目的が主になり、小説的な面白さは存在せず、平穏で幸せな日々が続くだけの話に、盛り上がりも悲劇もない。日々発信されている、そこら中に溢れる幸福な一家の日常を読んでいただければ、それで十分である。

 書いているうちに私は「黄金時代はどうして短く感じられるのか?」という疑問に取り憑かれた。執筆中、私は恋人の子どもと遊ぶ機会を得た。三歳の彼は執拗に私を遊び相手として利用し続けた。私よりも遥かに幼い頃に父と別れた彼は、遊ぶことをこの世の最高の幸福とし、その終わりは世界の終わりであるかのように泣き叫んだ。
 遊びの終わりは「ご飯だから」「もう遅いから」といった時間的問題もあれば、はしゃぎ過ぎた末に転んだりどこかに手足をぶつけてしまったり、時にはじゃんけんに二回連続で負けた、ということをきっかけとしたりした。それまで満面の笑みで遊んでいた彼が、自分はどうしてここまで不幸のどん底に落ちなければいけないのか、という不条理に抵抗し切れずに泣いている。その様子を見て、「どのような幸せも、終わる瞬間に悲しみが訪れる。つまりは幸せの数だけ不幸がある」といった結論に達した。最後に覚えた感情の印象が最も強く残るものだから、多くの人が自分は不幸だと感じてしまう。
 幸福な「黄金時代」はこうして、実際よりも短く感じられてしまう。

 私が恋人と一緒になることによって、幼い彼は新しい父親と共に黄金時代を手に入れられるのか? それとも私は遊び相手としてはそこそこ有用ではあっても、父親となれば失格の烙印を押されてしまうのか? 恋人が私を見る眼は常に私を品定めしているようにも見える。少なくとも私は彼らを裕福にすることは出来そうにない。けれども少しばかりの「黄金時代」の夢を与えるくらいは出来るのでは?

 私達姉弟の「黄金時代の書き直し」を終えた後、姉は私に向かって「次は何を書くの?」と聞いてきた。何の構想もないので正直に「もう何も書かないと思う」と私は答えた。
「私達二人にとっては重要だけれども、他の人にとっては全く興味を持たれない物語を書いたのだから、次は、私達二人とは何の関係もないけれど、他人には面白く読めるものを書くべきでは?」と、姉は私の考えもしなかった次作の構想を伝えてきた。
 
 私にとって「長すぎた黄金時代」はそれしか書き得なかった物語だった。それ以外の話を、私達には無関係なものを、と言われても何も思いつきはしない。しかし姉にとって、私が送っていた小説は「次に書くもののためのステップ」と捉えられていたらしい。
 姉以外の読者に向けて書く。誰に向けて? 私は恋人の息子のことを考える。彼を楽しませるような内容の小説を、読み手として独り立ちするその日に向けて完成させる。そんなことは可能だろうか? 恋人は彼女の息子に接する私の姿を見て、今にも失格の烙印を押したがっているように見える。次に彼女の元を訪ねることすら叶わないかもしれない。しかしそれは、彼女の幼い息子に送る小説を書くことを止める理由にはならない。

 姉に現在の私の事情を話す。「そんな人がいるような歳になったんだねえ」といつまでも子ども扱いするが「少なくとも私よりはいい読者になってくれるかもよ」と言ってくれた。姉は私の書くことを全肯定してくれた。間違いもつまらなさも含めて。それに甘えて書き続けた私には何の力もついてはいない。

 短かった黄金時代を引き伸ばす方法を模索して私は創作へと逃げた。
 まだ父が狂気の淵に陥る前の姿を、僅かに覚えている。一緒に遊んでいる最中、ふとどことも知れぬ遠くを眺める目つきになり、私が見えていないようだった。父の中に留まっていた言葉は溢れることなく内に沈み込み、ヘドロとなって父を内側から呑み込んだ。私は外へ外へと必要以上に言葉を放出して地獄から免れている。私は父でも母でも姉にでもない言葉を探して一行を書き始めた。しかし「Mよ」と、鮎川信夫の詩を踏襲しなければ書き出せない有様だ。

 Mよ。君がこの文章が読める日が来るのを夢見て、書き始める。私は君の、本当の父親ではない。

 恋人の息子のイニシャルはMではない。しかし「息子」という言葉はMから始まっているのであながち間違いではないのかもしれない。想定の第一の読み手が成熟するにはまだ時間がかかるはずだ。姉さん、私が本当に書き出した時は、また読んでくれないか。次作については、駄目なところは遠慮なく駄目出ししてくれて構わない。書けたら送るよ。短い話がいいな。短い話をたくさん送るよ。最終的には全部が繋がっているような。いや、そんなことは考えない方がいいかな。とにかく書いて送るから、それまでどうか元気でいておくれ。
 私のたった一人の姉であり、たった一人の読者であるのだから。

(了)


前日譚のようなもの




入院費用にあてさせていただきます。