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諦めの悪さと自信のなさが私を先生にした

こんにちは、ドレミです。
前回は、私は決してピアノエリートではないんです、というお話をしましたね。
今回は、私がピアノの先生になるまでのお話を少しだけしたいと思います。

私が物心ついた頃には、3つ上の兄がピアノを弾いていて、祖父母の家にあったピアノや実家にあったキーボードやエレクトーンで遊んでいた記憶があります。
兄があまりにピアノが上手だったので、私が5歳の頃に祖母がピアノを買ってくれました。

兄はめきめき上達して、両親や親戚、ピアノ教室の保護者の間でも評判のリトルピアニストでした。
その陰に隠れていた私は日の光を浴びることなく、褒められることもなく、割と悔しさや寂しさを感じながらピアノを習っていました。
大して練習もせず、もちろん上手に弾けるわけもなく・・・

ですが、そんな私にもついに光が当たりました。
時は過ぎて、中学校で合唱コンクールの伴奏や校歌の伴奏をするようになり、ついに「上手」と言われるようになったのです。
中学校では吹奏楽部に入っていたことで、音楽に深く触れるようになり、段々とピアノが上手になりたいという思いが強くなっていきました。
友達や先輩後輩だけでなく「両親に褒められたい」そう思うようになりました。

私がここまでピアノを続けてきたのは、「両親に褒められたい」「お兄ちゃんだけでなく、お前もピアノが上手だと言われたい」この思いがあったからです。
単純で幼稚だと我ながら思いますが、この思いが諦めの悪い私を作ったのではないかと思います。

音楽高校で専門的に学べば認めてもらえるはずだと思って、家から離れた高校に通いましたが、3年間で一度も褒められることはありませんでした。
しかし、入学当初はピアノの順位が決してよくなかったところから3年の終わりには上位の方に入ることができました。
音大には行かせられないと言われていたため、また先生になりたいと既に思っていたため教育学部へ進学しました。

大学時代は下手な自分を何とかしようと、毎日のように夜中の1時2時まで練習していましたが、かえって空回りをしていました。
大学と大学院の6年間では、人に教える立場になる自信が持てないどころか、「私に教えられる人はかわいそうだ」とさえ思っていました。

大学院を出た時に、30歳40歳になった時の自分は、どうありたいのだろうかと考え、いくら考えても何日考えても、ピアノの先生になって教えている自分以外考えられなかったので、それなら「ピアノを教えられる自分」になるしかない!まだ勉強は終わりじゃない!そんな思いに行きつき音大進学を決めました。

今度こそ!!音楽高校でも教育大でも自信は持てなかってけど、音大に行けば流石に上手になれるはずだ!という思いで上京して音大を受験するのですが、音大に入る前、しばらく声楽の伴奏で毎月コンサートで演奏していました。ですが自信のなかった私は「私の演奏に払うチケット代が勿体無い、お客さんに申し訳ない」と思うようになり、演奏の仕事を辞めてしまいました。

その後音大に入り、師匠との出会いが私を変えてくれたのです。

音大の卒業試験の時には、目標にしていた点数を超えることができ、ひどいあがり症で真っ白になってしまっていた私が、最後まで頭を働かせながら大きなミスなく弾き切ることができ、「弾けた!」という涙を生まれて初めて流しました。
もちろん演奏には反省がつきもので、まだまだ改善の余地はありましたが、それでも自分のもつその時の最大を出せたことは、ドレミのレッスンを始めるきっかけにも繋がりました。
このお話はまた改めてしたいと思います。

教育大学時代までは「お兄ちゃんはピアノ得意だといえるレベルだけどお前は趣味だな」と厳しいコメントで「雑音だ」とまで言っていた父も、今では帰省した時に、偏屈言いながらもちゃっかり動画を撮っていたり、ピアノのあるレストランに行って演奏させたり、あまり嬉しい言葉はくれませんが何だかんだ認めてくれたんだなと思える態度をとってくれるようになりました。(とてつもなく素直じゃない父なのです・・・笑)



私は、必ずしもエリートが先生に適しているとは思いません。
苦手、できない、自信がない。そんな思いや挫折を知っている方が良い場合もあると思います。
私はきっとエリートは育てられません。「プロ育成」みたいなことはできません。
でも、幼少期の英才教育ではなく、沢山遠回りをしてここまできたからこそ、「できない」に寄り添いながら、より効率良く上達していくためのレッスンができると思っています。

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