映画『犬王』感想
ネタバレありです。そして批判的な評価が含まれています。
ずっと前から予告で気になっていた映画、『犬王』を観てきた。
感想としてはアニメーションは素晴らしく、声、歌の演技もよかったと思う。
もともと世阿弥を描いた木原敏江の『夢幻花伝』や、手塚治虫の『どろろ』歌舞音曲の道でつながる二人の青年を描いた映画『覇王別姫 さらば我が愛』なども好きだったしキャラクターデザインの松本大洋の漫画はほぼ全部揃えている。
また『美女と野獣』『オペラ座の怪人』などのお話も大好きである。
そして私の主宰する武術団体のマスコットキャラであるヌヅクも隻腕の異形なので犬王には親近感がある。
じゃあいいじゃん、よかったじゃん。大好物じゃん、となりそうだが、この映画にはひとつ大きな不満がある。踊りである。
最初の出会いのシーンの踊りはステップ自体が感情表現であり、雄弁に二人の関係性と生きてきた道を示している。
また、腕塚の舞も、身体的特性や舞台演出のギミックを生かしていてよかった。
が、クライマックスで踊られるのがバレエでありシルクドソレイユであるというのは悔やまれる。正直、テーマから外れると思う。
なぜなら踊りはそれ自体が、その動きや角度、振り付けを美しいとする価値観や思想を含むから。
西洋の踊りには西洋の美の規範があり、それに沿った基本、型がある。
父親の猿楽を古いものとして型を否定してたどり着いたのが、バレエ的な型なのであれば、それは自由でも逸脱でもオリジナルでもなく、型から型に乗り換えただけだろう。
そしてあのステップやジャンプには平家の怨霊を鎮めるといった働きはなく、俺の身体能力凄いでしょ、という自己顕示欲が前に出すぎている。
踊りが凄いのと身体能力が凄いのは似て非なるものだろう。
異形の犬王が「人並み」になり、既成の価値観に当てはまるから美しいと褒められるのではなく、異形のまま、アンシンメトリーな異端の動きを「これが俺の美しさだ」と提示してほしかった。
しかしあの踊りは我々の知っている動きだった。知っているから安心して評価できた。つまり「犬王の型」ではなかった。
余談だが、昨今、ロックフェスで奥田民生が酔っぱらって出てきて若手に批判されていたが、本当の意味で「ロック」の「フェス」であるなら予定調和ではなく不穏で、揺さぶられる予測できない体験こそが値打ちなので、そうした異形の存在も認めてほしい。余談おわり。
まあこれを言うとそもそもなのだが、現代の人間が異世界に転生、あるいは過去にタイムスリップし、その時代には存在しない技術で無双して気持ちよくなるような構造、もうよくないですか? ロックもバレエもない時代にロックとバレエを持ち込んでウケる。それ自体本当にかっこいいのかな?
個人的にはむしろ『かぶく者』や『ましろの音』『BLUE GIANT』など、伝統芸能でポップカルチャーに勝ったり、イウォーク族が原始的戦法で帝国軍を倒す方が面白みがある。
この映画ではそこがメインテーマではないのだろうけど父親や世阿弥が単なる権威として出てきて、越えられない壁、圧倒的強さをもつものとして描かれなかったので、単に能、猿楽はダサい、バレエに劣るというような短絡的な結論にも見えてしまう。
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これは猿楽ではなく舞楽だが、私が最初に見て驚いたのが、何度見てもステップが覚えられないし、踏み出す方向が予想できないことだ。武術的観点からみると千年経っても異様だし、新しい。そして食い入るように見てしまう。
「芸」とはそういうものだろうし、そこを信じ切れずに現代の観客に飽きさせずに見せるにはロックとバレエにしよう、というのはむしろちょっと古い感覚、表現としては逃げに思う。
『らーめん発見伝』における鶏油案件の気配もする。
とはいえ、それが映画的に難しいのは、ギミックや音響や表現形式の新しさで勝ってるんじゃなくて実力で圧倒したんだ、とわからしめるには、むしろソリッドなそぎ落とされたもので勝たなくてはならない。
相手より少ない音、少ない動き、存在感だけで勝負する。つまり一周して幽玄の世界の能に戻ってきてしまう。
終盤、無音の桜散る中で、かつてのスタイルを捨てた犬王が何の感情もないまま舞うシーンの数秒を見ると、監督は本当はここをもっと長く撮りたかったのではないかとも思う。
ともあれ、最後、怨霊と化していたトモアリが、再び最初の姿にもどり、犬王と踊るのは安堵したし、犬王が戻りたい姿が異形のころだったのも良かった。
いろいろ書いたが、自分ならこう書く、こう撮る、こう踊る、といった熱を吹き込んでくれたので良い映画だろう。