今この瞬間を歓待する-『私の解放日誌』感想-
はじめに
Netflixで先日最終話が配信された韓国ドラマ『私の解放日誌』。『また!?オヘヨン』や『マイ・ディア・ミスター』を手掛けた、パク・ヘヨン作家の最新作となる。配信前から期待と謎の緊張で落ち着かず、配信が始まってからは、一気に見たくて溜め込んでいた。
「どんな作品か?」と聞かれると、回答にすごく迷う。人生そのものであって、一言で言い表すことが難しいからだ。
私は、ふと友人の例え話を思い出していた。
出来なかったことが出来るようになる、そんな感覚を”自転車の練習”に例えた話だ。
補助輪付きの自転車に、まずは乗ってみる。
バランスが取れるようになった後は、片方ずつ補助輪を外してみる。
進んでは転んで、進んで転んで。もう辞めようかななんて思いつつ、一人で漕げたことが嬉しくて、また挑戦する。
そうやって、両方の補助輪を外してみる。
次第に後ろで支えてくれていた人が、そっと手を離し、それに気付かず長い距離を漕ぎ始める。
辿り着ける場所が広がり、見える世界が変わり、習慣になった時には、自転車の乗り方を知らなかった自分のことをだんだんと忘れてしまう。
いつ乗れるようになったのかは、自分でも良く分からない。気付けば、乗れるようになっていた。
まさにこの感覚を見ているようなドラマだった。
劇中では、小さな変化が散りばめられている。
それは、一撃必殺のような劇的に変化する手法ではなくて、日々の努力や行動の積み重ねが、小さな変化を生み出している。
だからこそ、なぜ変化できたのかを言葉で表現するのがとても難しい。気付いた時には、目に見えるような大きな変化になっていて、なぜか前向きな気持ちになれるのだ。
「本当か?春になれば別人になってるというのは」というク氏の言葉を抱きしめて、大きく頷きたくなるほどに。
(ここから更に本編の内容を含みますので、視聴後にお楽しみください。)
解放への道のり
ところで、本作のテーマとなる"解放"には、どんなステップがあるのだろう。物語を追いかけながら、少し考えてみた。
自分自身と対話し、自分を縛り付ける何かを考える
誰かと対話し、自分自身の素直な気持ちを共有する
自分が何に苦しんでいるのか、その理由を話しながら整理し、理解する
責めるでもなく、目を背けるでもなく、ただ受け止めてみる
苦しさを和らげるために、一歩一歩、理由と向き合ってみる
次第に心がドキドキではなく、ドクンドクンと揺れ動くような体験をする
やり切れないことを歓待しながら、一日の中で五分間ときめきを探すように、日々自分と向き合い続ける
いつしか愛が溢れ、ありのままの自分が愛おしくなっていく
このステップが、正しいとは限らない。だけれども、どんな道のりを歩むのか想像し、言葉にして辿ってみたくなった。
自分自身と向き合い、生きづらい理由に目を向けること。これが、最初のステップなのだと思う。そして、受け止め、もてなし、愛してみる。
対話と受容こそが、解放への道のりなのではないだろうか。
どんな解放も、一人では成し遂げられない。自分に語りかけ、誰かと交差し対話していく。そうやって、明日も生きるための理由を見つけていくのではないだろうか。一歩、また一歩と、自分を追い立てるように。
ヨム家の長男として頼られる存在でありたかった、チャンヒの解放日誌
本作の中で、特に心に残ったキャラクター。それは、私にとってチャンヒだった。
何が自分を苦しめているのか。それぞれの登場人物が、自分や誰かと対話しながら、見つけていく。その中で、チャンヒは特に長い時間、責任感に駆られていたように感じる。
出世がしたい。
車が欲しい。
高貴な人と付き合いたい。
チャンヒの純粋な目が思い浮かぶが、彼がただ欲の塊ということではない。根底にはいつも、一家の長男としての責任を感じ、頼られる存在でありたかったのではないだろうか。
人は変われない。魂が悟っているから、手に入れたくなるんだ。そうやって、自分を奮い立たせながら必死に存在価値を確かめるように日々を生きてきた。
そんな彼に、ある人の死期に立ち会う瞬間が訪れる。自分の存在価値を示すために欲しいと思っていたものを持たずとも、ただチャンヒ自身が必要とされている、その瞬間だ。
葛藤の末、チャンヒは自ら選択する。何かを得るのではなく、今この瞬間を、自分を必要とする人のために生きようと。
この時、私は彼の何気ない言葉を思い出していた。"俺はきっと小雨のような人間なんだと思う。川や海のように多くの水は動かせないが、小雨のようにひっそりとたくさんの人を潤せる。"という彼の台詞を。
そこからの道のりは、険しく辛いことも多かったかもしれない。だけれども、そんな選択をした自分をカッコ良いという彼の優しい表情を見て、とても安心した。
1ウォン硬貨ではなく、自分自身が山であるという台詞の本当の意味は分からない。けれど、私はこう受け取ってみようと思う。
積み上げられた1ウォン硬貨の中で、誰も自分に気付いてはくれないと憐れむ必要はない。
既に自分自身は個としてはっきりと存在していて、疲れた人にそっと寄り添うことができるのだから。そして変わらず平凡に存在し、心休まる場所であり続けることが、自分にとってとても重要なことなのだと。(あの山が、画家によって見つけられ、描かれ語り継がれ、登った人に癒しと絶景を見せてくれるように。)
そしてそれはまるで、くたくたになったク氏に寄り添い続けたサンポの山の存在のように。
そんな、何にも囚われない自分に戻ろうと自分に語りかけているチャンヒを思い浮かべてみる。
あくまでこれは、個人的な感想であり想像です。こんな風に作品や登場人物に思いを馳せ、浸ることができて幸せな時間でした。また観直したら、きっと新たな発見に出会えそうで、繰り返し噛み締めたくなるような一作だと思います。
他の登場人物の解放については、また次回どこかで改めて書き留めておきたいな。