パラダイムシフトと人生観(Paradigm shift and view of life)
序章
これは、かの有名な理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879–1955) の格言である。アインシュタインと言えば「相対性理論」で名が知られているが、1905 年に論文「特殊相対性理論」を提唱した当時では、その斬新で直感に反する内容から、理解できる人はほとんどいなかった。それ以前は時間は絶対的なものであると考えられており、この世界は共通した時間という枠組みで物理現象を記述できるとさ れていた。しかし、特殊相対性理論では、「時間は相対的なもので、速度が速いほど時間が短くなる」と考え、 時間は誰もが共通して持つ固有のものではなく、相対的な関係性において成立する概念であると示したのである。この理論が提唱されたことによって、現代物理学の発展はもちろんのこと、我々の時間に対する見方が大 きく変わることになる。例えば、50 メートル走のタイムを競うときでも、足が速い人ほど時間の進みが遅く なり、実際にストップウォッチで計測される時間よりも早くゴールに到着しているのではないかと考えるようになるかもしれない(ただし、人間の速さくらいであれば、相対論の効果は無視できるので、実際の計測時間 には影響は出ない)。あるいは、計測された時間はあくまで静止した人の時間軸で計測したものに過ぎず、自分の時間軸とは異なるものだと思えるかもしれない。このように、相対性理論の存在を知ることで、たとえ同じ現象を観察していたとしても、我々の時間に対する見方が大きく変わるのだ。おそらくアインシュタインは 常人とは違った見方をすることで、世界で起きるすべてが「奇跡」に満ち溢れているかのように思えたのであろう。
上記の例からもわかるように、我々は同じ世界を見ているが、その見方は皆違っている。これは至極当然のように思えるかもしれないが、意識して考えなければ見失うことになる。そこで本稿では、パラダイムという物事の見方が我々の考え方や、歴史上の発明やイノベーション、さらには人類の進化に対して、どのように関わっているかを明らかにすることを目的とする。
第1章では、パラダイムの定義を確認し、身近な例を題材にして、同じ物事に対しても見方を変えることで、 認識や理解が変わることを見る。後の章でも議論するが、パラダイムはその人の経験やその場の状況によって変化させられるものであることがわかる。また、身近な例に加えて、行動経済学で扱われるような、人の心理 を含めた経済活動を取り上げる。本来なら合理的な判断が行われるはずの意思決定においても、感情のバイアスによって非合理的な判断をしてしまう。この部分について、パラダイムの観点から考えることにする。さらに、自分の専攻分野である物理学に関連して、物理学において最も衝撃的なパラダイムシフトを紹介する。また、パラダイムシフトによる弊害についても最後に考察する。これらのことから我々が持っているパラダイム がいかに不確実であるかが理解されるはずである。
第2章では、創造的なパラダイムによる歴史上の発明やイノベーションを起こした偉人を紹介する。どの偉人も自分の可能性を信じた結果として、それまで成し遂げられなかった問題解決や創造を可能にした。固定観念に縛られず、創造的に物事を見ることがいかに大切であるかがわかる。
第3章では、人類の進化の過程においても創造的なパラダイムを持つか持たないかで運命が決まると説明する。また、歴史の大きな転換点には、疫病や戦争といったイベントによって、人類全体に対するパラダイムシフトが起きている。変化に早く対応できなければ、時代に取り残されてしまうので、あらゆる可能性を信じることが重要である。また、時事的なものとして、現在流行中の新型コロナウイルスが、人類にとって大きな転換点となっていると強調し、どのようなパラダイムを持つべきか考察する。このニューノーマルな時代を生き抜くためにはどうすればよいかを深く考える契機になれば良いと思う。
終章では、自身のパラダイムが不確実であるものと認めた上で、あらゆる可能性を信じることで自分の可能性を広げることができる、と添えて終わりにする。
第 1 章 パラダイム(Paradigm)
第1節 パラダイムとは
ここではまず、本稿にとって重要なテーマである「パラダイム」という言葉の意味について深く見ていこう。 全世界で販売部数 4,000 万部を記録し、20 世紀に最も影響を与えたビジネス書の第 1 位に輝いた、スティー ブン・R・コヴィーの名著『7つの習慣』によると、パラダイムとは以下のような言葉である。
要するに、パラダイムとは「物事の見方」のことであり、我々はこのパラダイムを通して世界を見ているのである。このことは、見る対象が同一であったとしても、見る人が異なれば違った解釈になりうることを意味している。
上の絵を見てみよう。これは、イギリスを拠点として活動する覆面ストリート・アーティストのバンク シー(Banksy)の作品である。初めてこの作品を見る人であれば、自動車の上にドーナツが取り付けられ、その周りの白バイが配置してドーナツを護衛しているように見える。何やらドーナツという柔らかいイメージ と、警察という堅いイメージを合わせた滑稽な作品であると感じるはずである。
しかし、バンクシーの作品は現代の社会を風刺しているものがあり、社会への反逆思想が根底にあることが多い。そのことから、一部の人からは「芸術テロリスト」と呼ばれることもある。この作品の一つの解釈として、2020 年に横浜と大阪で開催された「バンクシー展 天才か反逆者か」で使用された音声ガイドの説明では、次のように解説されている。
この解説によれば、ドーナツはあくまで消費文化の象徴であり、バンクシーはそれを遠回しに揶揄しているのである。バンクシー自身は反資本主義であることから、資本主義経済の根幹をなす消費文化というものが、 貧富の差を生み出す原因であるにも関わらず、その文化が堅く確立している現状に不満を訴えかけているので はないかと思う。このように、作者であるバンクシーの反資本主義性と照らし合わせて見ることで、ドーナツ の絵が単なる滑稽なものとは思えなくなる。可愛らしいドーナツがなんだか生々しく不気味に感じられる。ただ、あくまでこれは一つの解釈に過ぎず、他にも多種多様な解釈がありえる。例えば、ドーナツの宣伝カーがスピード違反をしてしまい、警察に連行されていると解釈することもできる。ドーナツの絵の捉え方は様々であり、見る人のパラダイムによって受ける印象は千差万別なのである。
以上より、我々が物事を見るときには、パラダイムという鏡を用いて世界を映し出し、そこに写った像を見るに過ぎないということがわかる。パラダイムそのものは、人の価値観、経験、感情や本能によって形成され、さらには環境や条件付けにも左右される。これは、今まで経験してきた失敗から得た教訓を糧に、同じような失敗をしないようにと行動するという点においては為になるものである。感情や本能についても、危険を早く察知したり、頭で深く考えなくても直感的に判断することを可能にするので、我々の生活になくてはな らない生体機能である。
しかし、時にはそうした価値観や経験、感情や本能といった人間の要素に囚われすぎるあまり合理的な行動 や判断ができなくなったり、また外的要因によって認識を歪められたりする場合がある。次節では、認知バイアスという観点から、人間の意思決定がいかにしてなされるかを考える。
第2節 認知バイアスと意思決定
まず、以下の二人の人物(アランとベン)に関する特徴を見て、どちらの方が好感が持てるか考えてもらいたい。
おそらく多くの人はベンよりもアランの方に好感を持ったはずである。両者とも書いてある内容は並べ方を除いて一致しているが、最初に好印象の特徴を述べられた方が後の特徴にも良い影響を及ぼすのである。名著『ファスト&スロー』によれば、頭がいい人が頑固なのは十分な理由があると考えられ、場合によっては尊敬にも値するが、 妬み深くて頑固な人が頭がいいのは悪巧みをするような感じを受けてしまう、と説明される。「頑固」は「頭がかたい」とも「意志が強い」とも複数の解釈ができ、第一印象で形成された文脈に合致した解釈が選ばれる のだ、とも述べられており、第一印象がどれだけ効果を発揮するかがわかる。
これはハロー効果と呼ばれるもので、「ある対象を評価する時に、それが持つ顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる」という心理現象であり、認知バイアス(=認知の偏り)の一つであ る。今回の場合だと「第一印象」によって我々の認知機能にバイアスがかかることが示されたが、他にも我々があまり意識できていない認知バイアスが存在する。
投資の世界においても認知バイアスが大きく関わってくる。株式投資をする個人投資家の多くは、利確はすぐに行うのに対して損切りを先延ばしにする傾向がある。ここで、利確とは文字通り、取引銘柄(株式会社のこと)を買ったときより株価が上昇した場合に、その銘柄を売却することで利益を確定することである。合理的に考えるのであれば、株式投資で最大の利益を出す為にはより多くの利益が生じてから利確し、より小さい損失に抑えるように損切りを行うのが賢明のように思える。しかし、我々は損失に対して必要以上に嫌悪感を示す性質があるためにそのような合理的な判断ができなくなる場合がある。
心理学者ダニエル・カーネマン (Daniel Kahneman, 1934-) は、不確実性における意思決定を分析し、後の2002 年にノーベル経済学賞を受賞することになる「プロスペクト理論」を提唱した。この理論によれば、我々が損失に対して感じる価値は、利得に対して上に凸型である一方、損失の場合は下に凸型となり、利得による価値の増加よりも損失のよる価値の減少の方が著しく変化が大きくなる。つまり、我々は利得よりも損失を過大に評価する傾向にあり、損失をできる限り回避するような意思決定がなされるわけである。株式投資の際で も、利得がある場合には、将来的にその利得が増えることよりも、その利得が減って損失を被ることの方を嫌うことにより、目先の利益に囚われてすぐに利確するということである。逆に、損失がある場合には、今ここ で銘柄を売却して損失を確定させるよりも、将来的にその損失が元に戻ることを期待することで、損切りを後回しにする(投資の世界ではこのことを「塩漬け状態」と呼ぶ)。実際の投資では、いつか上がるであろうと思っていた銘柄でも、何年も株価が減少して、より大きな損失が出ることもある。このように、「損失を過度 に嫌う」という感情的なバイアスによって合理的な判断ができなくなり、結果的に損をしてしまうのである。 実際に個人投資家の勝率は 1 割とされており、9 割の人は損をしているのが実情である。株式投資で儲けたい と思うならば、利得を増やすことよりも損失を減らすことに意識し、短期的ではなく長期目線で投資をするのが良いであろう。
認知バイアスは負の側面ばかりではなく、思い込みによって我々の意思決定に良い影響をもたらすこともありうる。社会心理学者カール・E・ワイク (Karl E. Weick, 1936-)の著書『センスメーキング イン オーガニ ゼーションズ』にはこんな興味深い話がある(以下は要約文)。
雪山で遭難した偵察隊が間違った地図を頼りに本隊と合流できた、というのは何とも不思議な話である。しかし、この話を単に「運が良かっただけ」と片付けるのは早計である。ここにも「意味形成」と呼ばれる認知バイアスが関係している。意味形成とは、組織の中では多数派の認知が支配的となり、それとは異なる理解が排除される傾向のことをいう。今回の話では、雪山に遭難した偵察隊の一人が偶然持ち合わせていた地図を皆がアルプスの地図であるに違いないという共通の認識が通り、誰もその地図が他の違う山の地図であると疑わなかったのである。皆がアルプスの地図と信じた地図を頼りにしているのだから、必ずいつかは本隊と合流することができるはずだと思い込み、希望を失わなかったのであろう。
認知バイアスはパラダイムを歪めさせ、我々の意思決定に大きな影響を及ぼすのである。逆に言えば、パラダイムは認知バイアスによって無意識的に、時には簡単に歪められる。今まで見てきたように、パラダイムは 環境や条件付けに惑わされやすいことがわかる。この性質をパラダイムの不確実性と呼ぶことにしよう。多くの人は自分のパラダイムが不確かなものであると信じず、自分が見ている世界はそこに実在して、それを的確に捉えられていると思っている。しかし、実際、パラダイムは価値観や経験、認知バイアスといったあらゆる 影響を受けるがゆえに、本当に世界の真実を写し出しているとは限らないのである。自分のパラダイムが間違っていたと気づくのは、パラダイムシフトが起きるときである。パラダイムシフトとは文字通りパラダイムの変化であり、それまでの時代に信じられた概念や認識あるいは定説が覆されることをいう。次節では、物理学におけるパラダイムシフトの代表的なものとして、量子力学の発展が物理学のパラダイムをどのように変化させたのか見ていく。
第3節 古典力学から量子力学へのパラダイムシフト
物理学とは、身の回りに起きる現象を数学で記述し、自然現象の謎を探求する学問である。近代においては、アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton, 1642-1727)が運動の法則を記述したニュートン力学が誕生した。運動の法則は物体を質点と考えることで以下の3つの法則に分類した。
これら3つの法則に従うと仮定すれば、物体の運動を数学的に記述することができる。特に第2法則の運動方程式は、質点の質量を$${m}$$、時刻$${t}$$における位置を$${x(t)}$$、作用する力を$${F}$$とすれば、
$$
m\frac{d^2}{dt^2}x(t) = F
$$
と表される。これから言えることは、質点に作用する力(と初期状態)さえわかってしまえば、その物体が今後どのような運動をするのかが予測できるということである。しかし、序論でも説明した通り、物体の速度$${v}$$が光速$${c}$$に近くなるほど相対論的な効果(特殊相対論)が効いてくるために、上式は次のように修正しなければならない。
$$
\frac{d}{dt}\left( \frac{mv}{\sqrt{1 - (\frac{v}{c})^2}} \right) = F
$$
この式を用いれば、相対論的効果を含めた物体の運動の記述が可能となる。以上のニュートン力学および相対論的力学を合わせて古典力学と呼び、当時の物理学では、全ての物理現象が古典力学によって説明できるものと考えられていた。
19 世紀、万能であると思われた古典力学でも、熱した物質の発する光が、比較的温度が低いときは赤っぽく、温度が高いほど青白くなる、という黒体輻射の問題を解決することができなかった。マックス・プランク (Max Planck, 1858-1947) は、放射される電磁波のエネルギーが振動数に$${h}$$(プランク定数)をかけたものの整数倍でしかやりとりが許されないという量子仮説を提唱した。アインシュタインはこの考えをさらに進め、 電磁波を光子の集合体と考えることによって、光電効果を説明した(後の 1921 年にノーベル物理学賞を受賞)。光電効果とは、金属表面に電磁波を照射して飛び出てきた電子の運動エネルギーが、電磁波の入射強度に関係なく、その波長のみに依存するというものである。1913 年にはニールス・ボーア (Niels Henrik David Bohr, 1885-1962) によって量子論の原子への適用がなされた。原子核の周りを電子が回るモデルにおいて、 古典力学と電磁気学を併用すると、電子は連続的な電磁波のエネルギーを放出することになり、いずれ電子と原子核が接触してしまうことになるが、実際はそのようなことは起きないため、古典力学的な考えでは原子の 運動状態を説明できなかった。そこでボーアは、原子の定常状態は離散的なエネルギーに対応するものに限ら れ、電磁放射の放出あるいは吸収に伴う、2 つの状態間の遷移エネルギーは光子一つ分のエネルギー $${hν}$$ ($${ν}$$ は 光子の振動数)に等しいという仮説を立てた。これによれば、水素原子などのスペクトル分布をうまく説明できた。
本格的な量子論の理論形成は、大きく分けて2軸の流れに沿って行われた。一つは、ヴェルナー・カール・ ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901-1976)などが提唱した行列力学である。行列力学では、物理 量はすべて状態遷移によって測定されるものとして考え、2つの状態を指定した物理量をエネルギーの小さい方から順に並べて行列を作ることで、量子力学の理論計算を可能にした。もう一つの量子力学の流れとして は、ド・ブロイ(De Broglie[略称], 1892-1987)が提唱した波動力学である。19 世紀初頭ではヤングの干渉実 験により、光は二重スリットを透過したあと、その後方にあるスクリーンに干渉縞を生じさせたことから、光は波動的性質も持つと考えられた。また、アインシュタインが発見した光電効果によって、光は粒子的性質も持ち合わせていると考えられたことから、光は粒子と波動の二重性を併せ持つことが明らかになった。ド・ブ ロイは、この二重性が電子などの他の粒子についても同様に成り立つのではないかと考え、粒子の波としての 性質を考えた。シュレーディンガー(Schr ̈odinger[略称], 1887-1961)は、ド・ブロイの考えを元に波動方程式から変形させて、時間に依存するシュレディンガー方程式
$$
\left( -\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2+ V(r, t) \right)\psi(r, t) = i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\psi(r, t)
$$
を作り上げた。ここで、$${m}$$ は粒子の質量、$${\hbar = h/2π}$$ はディラック定数、$${V(r, t)}$$ はポテンシャル、$${\psi(r, t)}$$ は波動関数を表す。この方程式は量子力学の基礎方程式であり、現代の社会を支えていると言っても過言ではない。
量子力学の誕生によって現代物理学に大きな発展をもたらしたことは言うまでもない。古典力学の式では、初期値と作用する力さえわかれば、質点の運動は完全に予測出来ると考えられたのに対して、量子力学の式では、粒子の運動を、ある空間上に分布した確率波として表現しており、決定論的に定まる古典力学とは全く異なった考えをしている。不確定性原理によれば、粒子の位置と運動量の片方を測定しようとすると、 もう片方の不確定さが増し、同時に確定した状態を観測することは不可能であるとされている。つまり、観測される物理量は確率的に決まるということである。物理学者の多くは、粒子の状態が確率的に決まるというこ の考え方を受け入れることが難しく、アインシュタインも「神はサイコロを振らない」と量子力学を批判して いた。しかし、量子力学を用いないと説明できない現象、例えばトンネル効果など、が存在することから、現代ではなくてはならない理論となっている。量子力学の発見により、我々は決定論的な考え方から確率的な考え方へのパラダイムシフトが余儀なくされたのだ。今までの古典的な考え方が実はミクロなレベルでは通用しないものだと、我々のパラダイムがいかに不確かであったかと気づかされた瞬間であった。
第4節 パラダイムシフトによる弊害
パラダイムシフトは、我々のパラダイムの誤りを正してくれるという良い影響を与えるだけではない。以前は正しいパラダイムであったとしても、パラダイムシフトが起きたことで、誤ったパラダイムにすり替えられることも起きるのだ。
多くの現代人は、友達に連絡したり情報を収集したりするために SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サー ビス)を利用する機会が多いであろう。SNS は便利なもので、ネット環境さえ整っていれば世界中の誰とでも繋がることが可能であり、世界で起きている物事を瞬時に情報として入手することができる。特に Twitter(ツイッター0や Instagram(インスタグラム)などは、フォローしている人の「ツイート」と呼ばれるつぶやきをタイムライン上で見ることができ、さらに、そのツイートに対してコメントすれば意見交換することもでき る。ツイートにはコメントに加え、好感を持った内容に対して高評価する「いいね」という機能もある。フォ ロー中の人が「いいね」することで自分のタイムラインにもそのツイートが流れることから、一度「いいね」 されれば指数関数的にツイートが拡散される。これは、一見すると、秀逸なツイートやためになる情報が世の 中に出回りやすいということであるから理にかなっているが、「いいね」する人の全員が本当にそのツイート を高く評価しているのかと考えると、甚だ疑問である。ただ、ツイートが過度に高評価されること自体にはそこまで問題にならない。問題になるのは、高評価の逆、つまり低評価の場合である。低評価をする場合は「いいね」のようにボタンがないので、コメントで批判することになり、批判の数が多 くなればそれだけ、そのツイートを投稿した人へのダメージが大きくなる。批判覚悟でツイートする分には自己責任の範疇に収まるかもしれないが、意図せずに SNS 上で批判されることもありうる。最近では、芸能人の方が、SNS 経由で視聴者からの誹謗中傷に心を痛め、命を落とす例も珍しくない。顔も名前もわからないような人が寄ってかかって批判をすることで、端から見れば、マジョリティの意見の方が正しいと思う大衆心理により、批判されている方が「悪者」であるかのように思えてしまうのである。これは、SNS の匿名性から起きる問題であり、簡単に人々のパラダイムを変容させてしまう「凶器」となりうるのだ。
パラダイムシフトの弊害は歴史的にも起きている。その代表的な例はナチス・ドイツであろう。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の経緯は以下の通りである。
ヒトラーの「優生学」というパラダイムにより、ドイツ国民に対してユダヤ人は敵であると洗脳させたのだ。このパラダイムシフトにより、多くのユダヤ人が収容所に連行され命を落とすことなった。
パラダイムシフトは良くも悪くも働く。なので、物事の本質を見るパラダイムを持つことが大切である。なぜなら、物事を的確に捉えていないと自分を見失うことになるからである。自分の意志を持って行動しなければ、周りに振り回されることになり、自分の思い描いた道は開けないであろう。
第2章 発明とイノベーション(Invention and innovation)
パラダイムは不確実であることから、他人や社会が作り上げた既存の概念に執着すれば、簡単に自分のパラダイムが固定観念に沿って形成されることになり、自分の可能性を狭めることになる。多くの人がこうした既 成概念に縛られるのは、自分の可能性を信じることができていないからである。自分の可能性を信じることが できなければ、新しいことを創り出そうとする意欲が出ず、既存の概念にすがるしかなくなるのである。逆に自らの可能性を信じれば新しいものを創造しようとする意欲が沸き、結果として自らの可能性を広げることができる。つまり、見方を変えれば、パラダイムが不確実であるということは創造の余地があるということであ る。言い換えると、パラダイムの不確実性をパラダイムの創造性と見ることも可能なのだ。以下では、創造的 なパラダイムによって、発明あるいはイノベーションを起こした 4 人の偉人たちを紹介する。
第1節 夢を与えた漫画家
『ドラえもん』、『パーマン』、『キテレツ大百科』、『忍者ハットリくん』、『怪物くん』、『オバケの Q 太郎』(スタジオ・ゼロとの共著)。これらは全て藤子不二雄の作品である。意外と知られていないことであるが、藤子 不二雄とは一人の人物名ではなく、藤本弘と安孫子素雄の共同ペンネームである。本稿では、藤本弘(コンビ解消後は藤子・F・不二雄と呼ばれる)に絞って、彼がどのような人生を歩んできたのかを見る。
藤子・F・不二雄の代表作はやはり『ドラえもん』であろう。説明は必要ないかもしれないが、『ドラえもん』 とは、22 世紀の未来からタイムマシンでやってきたネコ型ロボット・ドラえもんが勉強やスポーツの苦手な 少年・のび太の未来を変えようとする物語である。未来を変えると言ってはいるが、実際はそんな重々しい感じではなく、日常生活の中でドラえもんが色々なひみつ道具を用いて、のび太の身の回りに起きる災難を解決するという感じである。自分自身小さい頃から『ドラえもん』をアニメで観ており、初めて観たドラえもんの 映画作品は 2006 年に上映された『ドラえもん のび太のふしぎ風使い』である。私と同世代の方であれば、台風の「フー子」が出演してたり、「スネ夫」が悪者になったりすると言えば、何人かの人は思い出すのではないだろうか。他にも『のび太の恐竜』や『のび太の宇宙開拓史』など、ここでは紹介できないほど名作を毎年 生み出し続けている。近年では、3D アニメーションを活用した『STAND BY ME ドラえもん』が上映され、 大人の方でも、子どもの頃観てたあのときの感情が呼び戻され感動する人も少なくないであろう。そんな『ド ラえもん』も今年の 2020 年でコミック連載から 50 周年となり、長い年月を経て作品の良さが受け継がれていると思うと、少し遠い存在であるかのように感じると同時にその偉大さがわかる。
藤子・F・不二雄も簡単に『ドラえもん』を思いついたわけではない。コミックの新連載の期限が間近に迫った当初では、全く作品の構想が浮かんでいなかった。その日は、すぐにアイデアが出る魔法のような機械があればいいなとか意味もなくドラネコのノミ取りを考えながら眠りについた。その翌朝、全くアイデアが浮かば ない状況に不満を言いながら階段を降りた時に、偶然娘が置いていた起き上がりこぼしにつまずく。そのとき、昨晩考えていたドラネコと起き上がりこぼしを重ね合わせることで、皆が知っているドラえもんが閃いたのである。
ドラえもんのアイデアが生まれたきっかけは何とも偶然的なものである感じがする。しかし、同じ状況で皆がドラえもんを思い浮かべることができたかというと、おそらく藤子・F・不二雄以外にはいなかったであろ う。一般的な感覚では、起き上がりこぼしにつまずいたのであれば、「娘が遊んだ後に片付けするのを忘れた のだろう」と考えるのが普通である。確かに、連載の締め切りに追われていて、常に新作の構想について考えていたということもあるが、それ以上に藤子・F・不二雄が持つ創造的なパラダイムがなければ、ドラえもん は誕生していなかったはずである。彼は、「子どもに夢を与えるような作品を作る」というパラダイムによって、締め切りの直前まで新作の構想に時間を使い続けたのである。結果として、何気ない日常に転がっていた二つのものを組み合わせることによって、後に 50 年も続く作品を作り上げることになった。
第2節 計算可能性を示した数学者
現代の生活に最も影響を与えた発明は一体何であろうか。私は間違いなくコンピュータであると思う。コンピュータの発明によって、ありとあらゆるものが数値計算できるようになり、人間の手計算では到底なし得な い計算量であっても、高速に解くことが可能になった。もし、コンピュータがなければ、人類の発展は 18、19 世紀の蒸気機関や発電機、飛行船程度に留まり、今以上の発展は望めなかったであろう。
コンピュータの原点は、アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912-1954)という数学者が、1936 年に「計算可能性」を議論するために用いた抽象機械・チューリングマシンを発明したことから始まる。チューリングマシンの詳しい内容については以下の通りである。
チューリング自身は実機のコンピュータを作ったわけではないが、その基本的な動作モデルであるチューリングマシンを発明したのである。このチューリングマシンという計算モデルにより、当時の数学では曖昧な表現があったアルゴリズムを形式的に表すことが可能になり、計算機科学に大きく貢献することになる。
チューリングは第二次世界大戦においても大いに貢献することとなる。戦争中、チューリングが住むイギリスはドイツ軍の潜水艦により補給船を次々と破壊されてしまい、深刻な危機に陥いる。ドイツ軍の潜水艦は「エニグマ」と呼ばれる暗号で命令されており、チューリングを中心とした数学者がこの暗号解読に挑んだ。 エニグマの暗号解読の大まかな流れは以下の通りである。
チューリングは解読が不可能と言われていたエニグマを、独自に開発した機械(簡易的なコンピュータ)を 用いて解読するのに成功したのである。エニグマの暗号は毎日入れ替わり、暗号解読に割ける時間は限られて いたことから、まさに奇跡と呼べる偉業である。これにより、連合国側の情報機関がドイツの潜水艦「U ボート」の攻撃地点を予測できるようになり、数万人の命が救われたのである。
コンピュータの計算モデルを発明し、さらに不可能と言われた暗号も解読したチューリングはまさに天才と呼べる数学者であると言える。しかし、たとえ天才であっても、彼と同じ偉業を成し遂げられたとは限らない。彼は同性愛者であり、当時それが違法であったことから壮大な人生を歩むことにもなる。そんな苦境に追いやられても「計算不可能な問題はない」というパラダイムによって、不可能であると信じられていたことを成し遂げたのである。
第3節 点と点をつなげた実業家
21 世紀に限って言えば、世界にイノベーションを与えた人物として、スティースブ・ジョブズ (Steve Jobs, 1955-2011)を思い浮かべるだろう。彼は、アップルの共同創立者の一人であり、数々の革新的な製品を輩出 した。例えば、iMac や iPhone、iPad などである。特に iPhone はその革新的なデザインと機能によって、世界中に普及し、日本のスマホ市場におけるシェア率は約 6 割 (2020 年) となっている。
どのようにしてジョブズは革新的な製品を思いついたのであろうか。その答えは、彼が 2005年の米国スタンフォード大学卒業式の祝賀式で卒業生に向けて行ったスピーチの中にある。以下はその内容である。
大学のカリグラフの講義を受けた知識が Macの美しいデザインに生かされたわけである。講義を受けてい た当時では、将来的に役に立つものと思っていなかったが、点と点がつながる、つまり、培われた知識が生かされる機会が訪れたのである。同じようなことは、ジャーナリストとして有名な池上彰氏の講演でも聞いたことがある。池上氏によれば、今すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなり、すぐに役に立たないものほど長 期的には役に立つものになる、と語る。確かに、すぐに役に立つものは今現在必要とされるというだけであり、それは誰かがすでに作りあげた枠組みにおいて評価されるもののように感じる。一方で今は役に立たないものは、既存の評価基準では判定できないだけで、将来的には大発明にもなりかねないものであったりするわけである。このことから、イノベーションを引き起こすものとは、誰もが必要としないようなものなのかもし れない。ジョブズのように、「今やっていることがいつか役に立つ」というパラダイムによって、将来的にとてつもない結果を生み出すことになるのである。
第4節 人類存続を目指す革命家
最後に紹介する偉人は、イーロン・リーヴ・マスク (Elon Reeve Musk, 1971-) である。知っている人も多いと思うが、イーロン・マスクは、電気自動車(EV)メーカーのテスラモーターズや宇宙関連企業のスペース X、電子決済サービスを提供するペイパルの創業者として有名であり、『MARVEL』作品の『アイアンマン』 のモデルにもなっている。これほどまで数多くの経営に携わっている理由は、イーロン・マスクの大きな野望 にある。彼は、学生時代から『いずれ枯渇の時が来る化石燃料に過度に依存した現代社会に変革をもたらし、 人類を火星に移住させる』というSF小説並みの夢を大真面目に語り続けており、人類の存続を最大の 目標としている。テスラやスペース X 社の創業は、その目標を達成するための一環に過ぎないというわけである。
では、両者の創業がいかにして人類の存続につながるだろうか。イーロン・マスクは取材で「EV 産業のテスラを創業したのはなぜか」という質問を受けたことがあった。彼はすぐに「地球温暖化を止めるため、あるいは、遅らせるためだ」と即答した。従来の自動車であれば個別に発電してエネルギーを作る分散型という方式をとっているが、EV であればまとめて発電所で発電させてエネルギーを作る中央集約型をとる。まとめて発電している分、中央集約型の方が分散型よりも 20% ほど効率が良いことから、EV の普及により 20% のCO2削減につながるのである。この論理的でシンプルな回答も彼らしくはっきりしていてわかりやすい。 テスラは自動運転技術にも力を入れ、将来的には自動運転機能が搭載された EV が普及することで、人間の運 転が必要なくなり、さらに排出ガスが大幅に削減されることから地球に優しい時代が訪れるかもしれない。実際にそのような将来への期待感から、テスラの時価総額が自動車産業トップのトヨタ自動車を超え、ますます EVの可能性が間近に迫ってきている。
地球環境をクリーンにすることで、エネルギー問題を解決しようと考えるイーロン・マスクであるが、AIの暴走や第 3 次世界大戦の勃発などにより地球が住める環境でなくなるリスクを想定し、火星に人間が移住できるコロニーを設置する計画をしている。とうとう人間も地球を脱出する日も訪れるのだろうか。イーロン・マ スクは、誰もが言葉では想像できるが、実際には不可能であろうと思っていることを、本気で実行しようとしている。彼ほどの実行力を持ち、何事にも諦めず挑戦し続ける人は他にいるであろうか。スペース X社では、 火星への移住計画の準備として、宇宙ロケットの打ち上げコストを最小限に抑える試みが行われている。具体的には、従来であれば打ち上げられたロケットはそのまま使い捨てとなるが、スペースXのロケットは、打ち上げ後に無人船に垂直着陸させて、再利用できるようにしている。2020 年 11 月には、スペース X 社が開発した米国商業有人宇宙船・クルードラゴンが打ち上げられた。日本人の宇宙飛行士・野口聡一氏も搭乗したこのロケットは無事に打ち上げに成功したわけであるが、打ち上げに使用されたロケットの1段目が無人船に垂直着陸することにも成功した。これにより、NASA で開発されたロケットよりもコストが大幅に削減された わけである。
イーロン・マスクは再生可能エネルギーや火星移住といった大規模なプロジェクトを構想し、人類の存続をできる限り伸ばそうとしているのである。彼は、たとえ人類が絶滅の危機に瀕する状況であったとしても、他 の星に移住することで、人類の種を存続させることが可能であると考えているのだ。「人類に不可能はない」 というパラダイムによって、彼は未だかつてないプロジェクトに本気で取り組み、イノベーションを起こし続けているのである。
第3章 人類の進化(Human evolution)
人類の進化の過程を見ると、大きなパラダイムシフトが起き、その度に我々の生き方が変化してきた。これは近現代のような比較的新しい時代に限らず、数百万年前の人類にも当てはまる。
第1節 「虚構」のパラダイム
200 万年前、人類の種族は1種類だけではなく、何種類もの人類が存在していた。我々はそのうちの1種類であるホモ・サピエンスの子孫である。ではなぜ、数種類存在していた人類の中で我々ホモ・サピエンスのみが生き延びたのであろうか。ユヴァル・ノア・ハラリ 著, 柴田裕之 訳,『サピエンス全史 (上/下) 文明の構造と人類の幸福』によれば、どの種類の人類も言葉によってコミュニケーションをとっており、道具も使っていたことから、ホモ・サピエンスのみが単に知的能力が高かったという訳ではない。むしろホモ・サピエンスの最大のライバルであったネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスよりも脳の大きさが大きかったのではないかと、最近の研究では明らかになっている。
しかし、原因は解明されていないが、ホモ・サピエンスにのみ「虚構」というパラダイムが生まれたことにより、他の人類と比べて優位性があったのだ。「虚構」とは、実在しないものを作り上げたものであり、創造と同意義であると考えても良い。例えば、普段我々が何気なく使っているお金も「虚構」である。資本主義経 済の中においては、財やサービスに対価としてお金を用いることによって、市場の回転効率を高めている。ただ、資本主義経済の中において、お金が財やサービスと同等の価値があるという信用が成り立っているからこそ、お金というものに価値があるのであって、お金そのもの自体には価値がない。このように、本当は実在し ないものでも、便宜上あたかも存在するかのように皆で信用を共有することによって、人類の発展に大きく寄 与しているのである。この「虚構」というパラダイムによって、ホモ・サピエンスは共通の価値観を共有することで、集団的に行動することが可能になった。一方で、他の人類はリーダーと呼べるような人物を作り上げ ることができず、大きな集団を統率することができず、小集団でしか行動ができていなかった。ホモ・サピエ ンスは集団的戦略により、他の人類を滅亡に追いやり、最後に生き残った人類となったのである。
「虚構」と呼ばれるパラダイムは今現在の我々にとっては至極当然のように思えるかもしれない。しかし、 我々ホモ・サピエンスでさえ、原因が不明なパラダイムシフトが起きる前までは、決して想像もつかないようなものであったのだ。もし、このパラダイムシフトが起きていなかったら、今の我々は存在しておらず、別の 人類が繁栄していたかもしれない。たった一つのパラダイムだけで人類の存続が大きく左右されるのである。 逆に言えば、たった一つのパラダイムを持つだけで、ホモ・サピエンスが今まで生き残ってきたと言える。第 2 章では、創造的なパラダイムを持てば、発明やイノベーションを起こすことができると説明したが、人類の 進化から考えると、むしろ「虚構」という創造的なパラダイムを持たなければ生存することができなかった。 このことから、創造的なパラダイムとは、発明やイノベーションに必要なものである前に、生きていく上で欠かせないものでもあると言える。
自然淘汰の観点から見れば、創造的なパラダイムを持つ者が生き残り、創造的なパラダイムを持てなかった 者が滅びていったと解釈できる。これは、ホモ・サピエンス同士の我々の間においても同様に起きており、より創造的な者だけが生き延びてきた。次の節では、ホモ・サピエンスの一強時代において、パラダイムシフトによって自然淘汰された歴史を見ていく。
第2節 戦争と疫病
人類がホモ・サピエンスのみになってからでは、どのようなパラダイムシフトが起きたのだろうか。社会の生活が大きく変わることになる歴史の転換点では、主に戦争あるいは疫病が発生している。
戦争の歴史を振り返ると、我々人類は太古から戦争を繰り広げてきたという記録が残されている。そもそも 戦争の定義は曖昧であり、人類学的な定義に従うと「武力(武器)を伴った集団間の戦い」という意味になる。太古であれば、食糧不足や縄張りの確保などが原因で集団同士の争いが起きていた。他の集団を滅ぼすか、あるいは、支配下に置くかでしか自分たちが所属する集団(民族)が生き残る術はなかったのである。集団同士の戦いとなると、より戦略的な集団の方が勝利することになるため、いかにして自分の陣地を守りながら相手の陣地を攻めるかが重要となる。近現代になれば、武器の発展に伴って戦争に使う武器が大きく変わ る。太古であれば武器に使うのは石や棍棒くらいであったが、近現代では、刀や銃、戦車など強力な武器が誕生したことで、被害の規模もそれに比例して大きくなっている。ただ、武器が変わっても、基本的にはより戦 略的に優位な方が勝利する。ここでの戦略とは、どのように戦うかという戦術以外にも軍隊の規模や武器の確保なども考慮している。なので、主に戦術だけで勝利できた太古の戦略では、近現代の戦争においては不十分であり、より軍隊や武器の整備をした方が有利になる。例えば、他の地域よりも早期に銃や剣を戦闘武器に取り入れたヨーロッパは、アフリカや南アメリカなどを植民地として支配することになった。
20 世紀以降では核兵器の存在感が増しており、(狭義での)戦略(どれくらいの兵隊をどこに配置するかなど)の必要性が無くなってきている。このように、時代の変化とともに戦争の様相も変化していることから、 その時代に合った(広義での)戦略(どのような核兵器をどこに使用するかなどを含めた)に適応しなければ、 戦争に勝利することが難しくなる。
近年では、サイバー攻撃など、物理的攻撃を伴わないネットワーク上での戦争も起きている。これもかつての戦争の形とは異なるが、より戦略的である方が勝利を収めるということに変わりはない。ここでの戦略的とは、どの国のコンピュータにどのタイミングでハッキングするかといったものである。戦争とは言い換えれば 主に国家の存続をかけた戦いであるので、著しい科学技術の発展に伴って、国家の存続に対するパラダイムが 変化していると言える。かつては軍隊を強化すれば国家の安定性を保てたが、近年ではネットワーク環境のセキュリティも強化しなければ国家の機密情報が漏洩するなど、国家の存続が危ぶまれる事態となっているか らだ。
国家など自分が所属する集団の存続が危ぶまれれば、我々のパラダイムが大きく変化する。例えば、第二次世界大戦で広島に原子力爆弾が投下され甚大な被害が出たが、このとき日本はかつてないほどどん底の状態で あった。当時は、世界中の国々からは経済復興が厳しいであろうと思われていた。しかし、それから予想を超 えた経済成長を遂げて、1955 年から 1973 年まで高度経済成長をするまでに日本は立ち直ったのである。敗戦した事実を悔やむことよりも、現状をよりよく改善しようとするパラダイムに切り替えることができたからこそ、今の日本が存在するのである。
疫病によっても大きく歴史が変わり、我々のパラダイムを変化させる。14 世紀にヨーロッパで流行したペストは、ヨーロッパ人口のおよそ 3 分の 1 の命を奪い、人々に疫病の恐怖を植え付けた。ペストは感染者の皮 膚が内出血によって紫黒色に見えることから「黒死病」とも呼ばれ、地中海の港に停泊した大型帆船にネズミが紛れて、そのネズミに病原菌を持つノミが付着していたこと原因とされている。このことから、ヨーロッパではネズミに対してあまり良い印象がなく、グリム童話『ハーメルンの笛吹き男』においても、「ネズミの大 量発生が人々を困らせている」ということが描かれている。ペストによってヨーロッパ社会が変革を余儀なくされ、諸国の人々が行動変容せずにはいられない状況となったのである。
近年では、新型コロナウイルスが流行し、世界のあり方が変わり始めた。コロナウイルスの感染拡大を防ぐためにソーシャルディスタンスをとるように要請され、大学や職場に通わずにオンラインで講義を受けたり仕事をしたりする人も多くなった。自分自身もまさかオンライン授業を受ける日が来るとは想像もしていなかったが、いつの間にか慣れてしまった。また、オンライン化により通学時間がなくなり、その時間を有意義に使える分、行動の自由度が高まったような感じがする。
ただ、コロナウイルスによって、売り上げを大幅に下げた業種や倒産してしまった企業があるということも忘れてはいけない。コロナ以前であれば毎日客が来店してた飲食業は、その打撃が凄まじいであろう。旅行会社や航空会社も業績を落としており、経営の危機に瀕している企業も少なくないはずである。確かに、人との接触を伴うような業種はコロナ渦では経営が厳しいのは理解できるが、だからといって、このまま成り行きで経営破綻させるしかないと思うのは筋違いであろう。今までの経営方針のみに縛られるのでなく、新しい経営方針へ方向転換する機会であると考えれば、きっと違う形で経営を復活できるはずである。
これから「with コロナ」としてニューノーマルな生活様式を受け入れなければならない。いつまでも既存の枠組みに囚われていたら、時代に適応できず置いてかれてしまうであろう。今までの歴史が物語っているように、既存の枠組みに縛られ、創造的なパラダイムを持たなければ自然淘汰の運命になる。幸い、現代の時代 は太古のような、創造的なパラダイムの有無で生死を分けるということはないので、生存という観点では安心できる。しかし、人生をよりよく生きたいと思うのであれば、創造的なパラダイムなしでは生きられないので ある。
第3節 そして未来へ
「この先、どんな未来が待っているのだろうか。」
そう質問されると、大きく分けて二つのパラダイムがあるのではないかと思う。一つは、「将来が不安だ」である。もう一つは、「どんな未来になるかワクワクする」である。同じ未来のことについて尋ねている質問で あるにも関わらず、こんなにも未来への捉え方、いわゆる未来へのパラダイムが異なるのはなぜであろうか。 その答えが簡単で、未来に対して可能性を信じているかいないかである。もしも、あなたが現状に満足し、新 しく変化することを嫌うのであれば前者を選ぶだろう。一方で新しいことの可能性を信じて変化することを好 むのであれば後者を選ぶであろう。
先ほどの質問に対して前者を選んだ人は少なくないはずである。これは、本能的に人間は変化を嫌うという 性質があるからである。このことについて、スペンサー・ジョンソン(Spencer Johnson, M.D.), 門田美鈴 訳,『Who Moved My Chees? チーズはどこへ消えた?』の物語を元に考えてみよう。物 語のあらすじの要約は以下のようになっている。
ここで書かれる「チーズ」はお金や出世などの「手に入れたいもの」であり、「迷路」は会社や家庭など 「チーズ」がある場所を指している。ネズミは人間のように知性がないがゆえに、たとえ「チーズ」が突然な くなったとしても次のチーズを探すことにパラダイムシフトしたのである。一方、人間の方は知性があるがゆえに、今まであったチーズがなくなるはずがないと考え、今まであった場所にチーズがあるはずであると、既存のパラダイムを変えることができていない。ヘムのように、いつまでも変化を認めなければ、ネズミのように即行動すれば手に入ったものさえも失ってしまうのである。
変化を嫌う人は、今のパラダイムが絶対的に正しいと錯覚している。今まで見てきたように、我々のパラダイムは不確実である。これは認めなければならない事実である。いつまでも普遍的に正しいパラダイムというものはこの世には存在し得ない。こうした事実があるならば、我々はあらゆる変化を受け入れて前を向いて進んでいくしかないのである。このためには、あらゆるものに可能性があると信じることが重要である。
近年の科学技術の発展は目覚しく、それに比例して我々の生活の変化も速くなってきている。例えば、5G や IoT、AI や量子コンピュータなど将来的に大きなイノベーションとなる科学技術が日々進化してきている。 また、イーロン・マスクが創業したスペース X 社の話でもあったように、宇宙開発も激しさを増している。ただ、宇宙開発には多大な資金が必要であることから、地球に数多くの社会や環境といった問題を抱えているにも関わらず、「なぜ宇宙に行くのか」という疑問を持つ人もいるであろう。この一つの答えとして、宇宙飛行 士・野口聡一氏は「三次元アリ」を用いてこう説明している。
つまり、野口氏が伝えたいことは、一見すると関係なさそうなことでも、一つ上の視点から見ることで解決できる問題もあるということである。宇宙という別の次元を探索することで、地球だけを見ても思いつかなかったような問題意識が芽生る可能性があるということである。宇宙には無限の可能性が秘められているのか もしれないのだ。
終章
最後まで読んで頂いたあなたに感謝申し上げたい。
結局本稿で伝えたかったメッセージは、「あらゆる可能性を信じれば、あなたの可能性が広がる」というものである。可能性という言葉を使うと、何やら研究において「〇〇の可能性がある」みたいな理系に特化したイメージをもたれるかと思う。ただ、ここで言いたいのは、あらゆるものに対する可能性という意味である。 あらゆる可能性を信じることで、既存の固定観念に縛られることがなくなり、自分の頭の中にある新しいもの を創造することが可能になる。しかし、可能性を信じるというのは簡単にできるものでもない。普通に生活していれば、「できるわけがない」とか「無理に決まっている」など可能性を否定する言葉が聞こえてきて、自然と自分の中でも不可能であるというのが根付いてしまう。確かに、可能性を言葉で否定するのは実に簡単であり、たとえ不可能が覆されたとしても、マジョリティのうちの一人でいる分には責められる心配がなく楽であ る。一方、可能性を信じてそれを実現できなかった場合では、周りから責められるかもしれない。
だが、ここで思い出して欲しい。歴史上の発明やイノベーションは可能性を信じたからこそ成し遂げられた偉業であり、人類の進化の過程では、可能性を信じて創造的なパラダイムを持った者が時代の変化に適応でき、自然淘汰によって生き残ってきたのである。いつまでも自分のパラダイムが正しいと思って、新しいもの を否定していては、何も生み出すことも時代の波に乗ることもできなくなる。人生は皆平等に与えられているが、その使い方は、「可能性」を信じるか信じないかで大きく変わってくるのである。言い換えれば、あらゆるものへの可能性を信じようとパラダイムシフトしさえすれば、人生は 180 度変わることを意味しているのだ。
最後に、もう一度アインシュタインの格言を載せておこう。
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