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#144 給食〜ビフォーコロナ・アフターコロナ

小学生時代、給食は一種のエンターテイメントだった。一気飲みに適した形状(瓶)だった牛乳で新記録を競っては担任に怒られ、新メニューで手巻き寿司の巻き方が分からずボロボロこぼしては担任に怒られ、ご飯の蓋(当時はホイルだった)を折り曲げて(箸を忘れたときの秘技)食べては担任に怒られた。ワイワイガヤガヤしながら、くだらない話をして卓を囲む。思い出は尽きない。

世のエンターテイメントが大打撃を食らったコロナ禍、学校給食もまた然りだった。珍妙なネーミング、「黙食」が励行された。児童はみんな前を向き、食べることだけに集中した(させられていた)。そもそも飯は卓を囲んでワイワイガヤガヤ食べるからいいのであって、黙って食べるそれは、ただの栄養補給の様相を呈した。それは当時の世情を鑑みると、仕方がないことではあったけれど。

先日、代打で給食指導に入り(令和六年現在)、そこで軽い衝撃を受けた。児童にまだ黙食が染み付いていたのだ。サイレント映画を観ているようであった。黙食をしている児童を眼前に食した私。集中するどころか、飯の味がしないのである。早くこの時間が過ぎ去ってほしいとさえ思った。忍耐が限界に達し、自分から「今日のガルバンゾーソテーのガルバンゾーってどういう意味か分かる?」などと、どうしようもない会話を始めてしまった。児童はポカンとして。

コロナは一応収束を見せ、大人は自由に会食を楽しんでいる。それなのにこの有り様は一体どういうことなのだろう。主体的・対話的で深い学びは授業で育んでいくものだが、このようなライトな時間にこそ、それが促進されるのでないかというのが持論。授業以外の時間にこそ、秘宝が詰まっているというのに。

その時、スピーカーから「方言クイズの時間がやって参りました!」という放送が流れた。「それでは第一問、どざ?ゆさ!この意味は何でしょう?」「はああ?何それ?」会話の導火線に着火。「四文字しかねえじゃん笑」「英語かよ!」などと、鋭いツッコミが続く。「正解は、どこに行くの?温泉だよ、でした。以上です。」雰囲気が緩んだのか、そこから当たり障りのない会話が続いた。ナイスです、放送委員会。

何もコロナ以前のように給食を食べようと言っているわけではない。ただ、黙食させるだけが正解ではないと思っているのだ。同じ釜の飯を食った仲間という言葉があるように、食は絆を深める側面も持ち合わせている。だから私は今日も、家族相手に空回りした会話を続けながら夕食を食べているのだ。

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