ベストエフォート型の罠
「最善を尽くす」美学
「善処します」「最善を尽くします」「頑張ります」
なにか、事を起こすときにはこんな言葉が出てくる。
長年、謙遜を美徳として刷り込まれている品行方正な人ほどそうだ。
けん‐そん【謙遜】
[名・形動](スル)へりくだること。控え目な態度をとること。また、そのさま。「謙遜して何も語らない」
「(小サナ花ハ)きわめて―な、有るか無きかのものである」〈寅彦・病室の花〉
https://kotobank.jp/word/%E8%AC%99%E9%81%9C-492607
しかしこの言葉、知らず知らずのうちに意識を「ベストエフォート型」に縛りつけてしまう。
「何を達成するか」ではなく「どうやるか」に意識がいってしまうのと、最善=できるだけ、つまりアウトプットへのフォーカスではなく「自分にできうる限り」でゴールを規定してしまう。
ベストエフォートは悪ではない
もちろん、最善を尽くすこと自体はよい。
自らの持てる力を発揮し、ゴールに向かうことは一つの近道ではあるし、美しい。
つまりビジョンが明確になりそこの達成を至上命題としつつ、ベストエフォートで動くことは正しいわけだ。
ベストエフォートの罠
では、どのようなときにこのベストエフォートが機能しなくなるのだろうか。
・ゴールが明確に定まっていない
・自分自身の力でやり遂げられるのか見積れていない
・巻き込むべき人が誰かわかっていない
ゴールが明確になっていないなど言語道断に思えるが、実際にはなんとなくゴールっぽいものが設定され、とりあえず走り始めてしまうことはある。
そのときに謙遜マインドが働いてしまうと「精一杯やらせていただきます」で思考停止してしまう。結果としてゴールには永遠にたどり着かないスタンド攻撃を受けてしまうのだ。
まずWhyより始めゴールを描く
謙遜マインドに陥りそうになったら立ち止まり、こう問いかけよう。「それはなんの為?」「何が達成できることを目指すの?」
そう、謙遜マインド云々ではなく、物事を始めるときに重要だといわれていることを、ここでもやはり行えばいいのだ。
なんとなく、「Why」起点の考え方にたどり着かない人が少なくないのはこの謙遜マインドのせいなのかも、と思い記事を書いた。
他の視点での意見などあれば、ぜひお聞かせ願いたい。