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よかれとおもって事を起こすより、ちゃんと当事者を巻き込もう
なぜ、「なぜ」が欠落するか
人から仕事を頼まれるとき、ずいぶんと事細かに「なにをやるか」が説明されることがある。
しかし、なぜか肝心の「なぜそれをやるか」が欠落してしまう。
運良く「なぜ」が共有されている場合もあるが、その場合は「それを実現するのに、なぜその方法が指定されているのか」がわからなかったりする。
そしてこれは、たとえば営業からエンジニアという場面ではわかりやすく起きるし、なんならエンジニア間でも発生する。
ずっと、「なぜ、『なぜ』が欠落するのか」と疑問に思っていたが、少しその一端がわかってきた。
「なぜ」は、気遣いにより欠落する。
手を煩わせるわけにはいかないから
なにか、成し遂げたいことがある。解決したい課題がある。自分一人ではできないということはわかっている。
周囲を見渡してみる。…皆、忙しそうだ。
じゃあ自分で考えよう。手を動かせばそれですむように、詳細に検討しよう。
結果、Whyが欠落したHowが渡される。
ここまでやるのが自分の仕事だから
このAPIを開発するのは私の仕事だ。
このコンバータを開発するのは私だ。
使う人が極力使いやすいよう。
運用の手間が少なくなるよう。
利用者に聞く?いやいや、つくるのはこっちの役目。お手を煩わせてはいけないよ。
こうして、想像上の人物に最適化したものが出来上がってゆく。「なぜ、その設計なのか」は作り手しか知り得ない。
だから私達は「越境」を唱える
「自分の側」にいない誰かを思いやり、境界線を引き、努力し、どこにも存在しない誰かのためにアクションしてしまう。
「時間をとるのは悪い」?「自分の仕事に巻き込むわけには」?
いやいや、大事なのは「解決すべき課題だと思えるか」「最終的に課題が解決できるか」じゃないですか。
なんでもまかせっきりはよくないけど、なんでもかかえこむのもよくない。
自分の中で引いた線を越えて、「気遣い」を越えて、それぞれの持ち味を活かしながらビジョンに向き合っていきもしょうや。そう、「越境」ってやつですよ。