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内輪ノリの功罪
はじめに
ある程度成熟してきたコミュニティにとって、「内輪ノリ」というものは不可避的に発生するものです。長い歴史を重ねるRegional Scrum Gathering Tokyoにもそれは存在しており、ことに先日開催されたRSGT2025ではDay3のOSTやその後の参加者たちによる対話の場で話題として挙がっていました。
自分が内輪に入っていない状態で「内輪ノリ」を感じるとき、そこに居心地の悪さを感じることは大なり小なりあるでしょう。私自身、初めてRSGTに参加した際には独特の空気感に戸惑うことはありました。そしてそれはRSGTに限ったことではなく、新しく飛び込んだコミュニティ、友人に誘われて参加した集まり、様々なところで感じるものでした。
では内輪ノリは、新参者を遠ざける排外的なものでしかないのか?そんなことはありません。コンテキストが共有され前提が形作られたからこそ生まれるノリからは、まったくコンテキストが共有されていないところからは創出されない価値が生まれていきます。
本稿では、その内輪ノリの功罪について考えてみます。
私のスタンス
まず、私のスタンスですが、内輪ノリ(その場にある程度の期間在籍しているのでなければ理解が難しい共通認識や、それを肯定的に捉える様)については良い面も良くない面もあると思っています。そして、コミュニティが抱える問題に対して「内輪ノリ」に原因を求めそれ以上深掘りしない姿勢に対してはあまり歓迎していません。
内輪ノリの生まれるところ
人が集まり、対話し、連帯する中でコンテキストは生まれ、育ち、そこにいる人以外には理解しがたい「内輪ノリ」が生まれていきます。明文化されていない、または言葉で説明されてもなかなか理解が難しいというのも「内輪ノリ」の特徴でしょう。
会社の文化なども、内輪ノリと表現することができるのではないでしょうか。
内輪ノリを作ろう!と思って生まれるものではなく、一つの場にある程度固定的なメンバーが反復して集まることで必然的に生まれてくるのが内輪ノリです。
内輪ノリの功
内輪ノリを文化として捉えると、その場に参与する人たちに期待される行動規範、コミュニケーションスタイル、価値観が「内輪ノリ」として形作られているのは、明文化されずとも共有されるコンテキストがあるという点で一定の価値があります。
同じ「ノリ」の人で集まっているという感覚は「思ったことを発言してよい」という心理的安全性を場にもたらし、結果としてその場に多様なアイデアを呼び込むことになります。共通のコンテキストをベースにコミュニケーションを構築するというのは多様性に欠けるように思えますが、心理的安全性のある場を作ることにつながるため結果的に多様性を生み出している側面はあるのではないでしょうか。
また、そもそも「内輪ノリ」が生まれるということはそこに集まりたいだけの熱量があるということで、場に人を集める魅力が十分にあるということでもあります。内輪ノリが生まれているということは、少なくともそこにいる人たちにとって良い場であるといえるでしょう。
内輪ノリの罪
内輪ノリのコミュニケーションは様々な前提の確認をせず行われるため、ニューカマーにとってはわかりづらかったり納得できなかったりすることがあります。
また、その界隈の人なら知っているであろう事象や人物について知っている前提で会話がなされるため、これもニューカマーにとってはとっつきづらかったり、「こんなことを知らない自分は参加してはいけないのかもしれない」という気持ちにさせてしまう可能性があります。
初めて参加した場で自分以外には通じている言葉や文脈があるならば、自分はその場にいてはいけないのかもしれないと思ってしまっても不思議ではありません。
また、内輪の人にとっては自明であるがゆえに説明されていないことに対して、内輪の外にいる人はその説明にアクセスすることが難しいという状況があります。
内輪ノリが生む問題とは何か
私の意見としては、その場に居続けている人たちが生み出す独特の「ノリ」自体は否定されるべきものではない、むしろ「ノリ」が生まれてこそ、その場の価値があると思っています。そこにしかないものがないなら、わざわざ足を運んで体験するものにはなりえません。
ただ、そのノリがその場にこれまでいなかった人にとってあまりにもわかりにくかったり、わかりにくいときに「なんなんですかこれ」と聞きにくい状況があると、それは新人がその場に入り込んでいく際のハードルになってしまうでしょう。(RSGTの寸劇は、「なんですかこれ」とみんなが突っ込んでいるという意味で稀有な例です)
また、内輪といってもその場に集まる頻度が高くない場合、そこに集まる人たちにとって「内輪」の人たちと巡り合う事自体が特別な体験になります。だからついつい内輪の人たちと話し込んでしまい、ニューカマーを巻き込めなかったりすることがあります。(これは起こりやすい出来事だからこそ、パックマンルールなどがあるのでしょう)
これに関しては、コミュニティとして門戸を開いているならニューカマーがスムーズに輪に入れるような工夫が欲しいところです。一方で、ニューカマー側も「おいでよ!」と言われるのを待っているだけでなく自分なりのやり方で輪に入るためのアプローチ、いうなればその場に自分がどうgiveするか?を考えておきたいところです。お客様ではなく、コミュニティの仲間なので。
問題を「内輪ノリ」でくくらず、深掘りする
ここまで功罪や課題について書いてきましたが、こういった事象に対して「内輪ノリが強い」の一言でまとめてしまうと、議論は進まなくなってしまいます。内輪ノリには良い面もそうでない面もあるので、「内輪ノリ」という言葉をだした瞬間に「わかるわー」という共感と、「でも内輪ノリがあるからの良さもあるよね?」という反論と、でのんとなくの空中戦が生まれ、「内輪ノリ」から生み出された自分にとっての居心地の悪い課題は解決されないのです。
だから「内輪ノリしんどいな…」って感じたときに、「内輪ノリの中で、自分がいま『しんどい』とおもったことはなんだろう?」と深掘りしてみると、本来解決したい課題につながるんじゃないかな?っていうのが私の意見です。