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五輪書 空の境地について


 今、私の心は雲ひとつない青空の様に澄み渡っています。ちょうど五輪書の空の巻の、空の境地の様にです。
 もちろん宮本武蔵と同じ境地ではありませんが、迷いの雲の晴れた心とはこういう事をいうのだなという心境です。
 そこで今日は私なりの空の境地について書いてみる事にしました。


五輪書 空の巻



 五輪書の空の巻は無限的に解釈する事ができますが、今の私は宮本武蔵の到達した心の境地について書いてあると捉える事にしました。
 その全てを知る事はまだできていませんが、おそらく核となる部分が、「空の巻」冒頭の、空という心について書かれた部分でしょう。
 畏れながらも該当部分を引用させていただきます。

空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりて、なき所を知る。是即空也。

定本 五輪書

 僭越ながら、この「空という心」について、今の私の解釈を述べさせていただきます。

空の心についての私なりの解釈


 「ある所をしりて、なき所を知る」の「ある所」とはどういう意味かと言えば、現実に起こりうる事と捉える事ができます。
 反対の「ない所」とは、現実ではないもの、例えばフィクションの世界だったり、人々が描く幻想だったり、人間にはできないこと、などです。
 

ない所とはどういう意味か

 人間という生き物は、未知の物事に対して期待をもって見てしまうところがあります。例えば、映画のようなフィクションはそれを利用してちょうどいい塩梅で提示してみせて観る人を楽しませています。
 他にも占いや霊感商法、超能力などは、そのあるかもしれないという期待してしまう心、幻想を描いてしまう心を利用して、ないものをあるように見せかけて悪用しています。
 他にも最近だと投資詐欺とか、転売とか、マルチ商法とか、楽して儲けたいと思う心につけこむ詐欺も、楽して儲かるかもしれないという幻想を持ってしまう心を利用されて騙されてしまうというところもあります。
 例をあげるときりがないのですが、最近だとSNSの加工された画像、動画や一部を切り取った画像、動画、音声、なども「ない所」であり、他にはTV番組やYouTubeなどで編集された演出など、無限的に例はありますが、こういうものが現代の「ない所」であると私は捉えました。

ある所とはどういう意味か


 ではこれらの「ない所」とはどうやって知る事ができるのかと言えば、それは「ある所」を知る以外にはありません。
 その「ある所」とは現実の事、現実に起こりうる事、あるいは真実や真理と言えるかもしれません。
 それを知るにはある程度の人生経験が必要です。つまり長く現実を見て、知って、現実とはどういうものか確かめる必要があると思います。
 そのために直接的に役に立ったのが真の学問、間接的に役に立ったのが武道、医学でした。断言できますが、両者を学ぶ事が無ければ私は「ある所」を知る事はできず、当然「なき所」など知る由もなく、未だに都合の良い幻想を信じていたかもしれません。
 この空の心を知るために武道を学んでいたのだと言っても過言ではない程の価値が、武道にはあります。
 反対に「ない所」が多いという側面も武道にはあるので「ない所」も学ぶ事ができました。
 それは宮本武蔵が五輪書を書かれた当時と全く変わっていないのであり、「風の巻」に書かれてある事が全くそのまま今に通用します。本当に全くそのままです。
 時代が変わっても決して変わる事の無い本質的な問題を見抜いていた宮本武蔵は、真理に到達していたのだと言えます。
 「空の巻」はその境地を書き記したと捉えるべきでしょう。

時代を超え、国境を超えて読み継がれる五輪書

 

 現代に通用するのは当然に「風の巻」だけではありません。主題である「空の巻」も同じです。
 風の巻は武道・武術を対象とするものですが、空の巻はそれに留まらず、全てに通じる境地だと言えます。
 「空の心」として説かれている「ある所」は、宮本武蔵が生きた時代とさほど変わっていないと言えるでしょう。何故なら時代は変わっても世界は変わっていないのですから。
 だからこそ五輪書は、時代を超えて現代人にも読み継がれ、国境すらも超えて全世界の人に読まれて絶える事が無いのではないでしょうか?
 それに対して「ない所」は無限的に増えてしまっているし、これからも無限的に増え続けていくのは間違いありません。
 怖い話ですが、無いのですからいくらでも都合よく作れるからです。
 例えば足利事件や今市事件、袴田事件のような冤罪のように「無い」のですからいくらでも演出できてしまいます。
 このように世に溢れる嘘偽りはこれからも際限なく増えていく事でしょう。このような噓偽りに惑わされないためには、「心意二つの心」と「観見二つの目」を創り、使っていく事で「ある所」と「ない所」を悟って知る必要があります。

迷いの雲を晴らすものが空の心である


 次に宮本武蔵は「空の巻」に「まよひの雲の晴たる所こそ、実の空と知るべき也」と書き記していますが、まさに「ある所」「ない所」を知らねば心は迷ってしまう必然性があるからだと考えられます。
 何故ならば世の中偽りだらけであり、私が心酔している井上尚弥ですら、偽りのある所は否定できないのですから。
 私自身も30代になる頃くらいまでは、この迷いの雲にとらわれていました。
 しかし「ある所」を知り「ない所」を知る過程と「ない所」を知り「ある所」を知る過程で徐々に迷いの雲は晴れていき、道に迷う事もなくなっていきました。
 この経験からも、時には迷う事も必要なのかもしれません。迷いと正当に向き合い、主体性で問題を解決していく事が正当な「空の境地」へとたどり着く唯一の道なのかもしれません。
 時には教え導く指導者に道を尋ねるのも良いかもしれませんが、それに応えられる指導者は本当に稀です。私は運が良かっただけに過ぎません。
 

道は空の境地へと通じている


 こういった人生上の問題について道を尋ねる時というのは、一歩間違えると「ない所」に入り込んでしまう危険性があります。
 何故ならこういう時に正しい指導者の仮面を被った詐欺師がつけ込む隙が生まれてしまうからです。
 「ある所」「ない所」を悟る前に正しい指導者か詐欺師かの判断は難しいものがあります。
 そこで騙されてしまわないためには、親や友達など信頼できる人のアドバイスに耳を傾ける事が助けになるかもしれませんが、やはり一番は「道」を踏み外してはいけないという心だと思います。
 「道」については五輪書の地の巻から空の巻まで貫徹して書き記されております。五輪書そのものが「道」と言っても良いのかもしれません。
 「実の道」はまだ解らずとも、「実の道」に想いを巡らせて生きていれば道を踏み外しそうになった時や、道に外れている人を観た時に何か心に引っかかるものが必ずあるはずです。
 その引っかかりを決して見逃してはいけません。何かおかしいと感じたならば、即決せず、先延ばしにしてよく考えてみると避けられることもあります。
 五輪書はここまでの事を教えてくれるのであり、それを書き遺してくれた宮本武蔵はやはり人生を極めた偉人であったというべきです。

感謝の気持ちで晴れ渡る空の下、道を歩んでいく


 私は武道を始める以前から、宮本武蔵を人生の手本として生きてきました。今にして振り返ってみると、10代の若き頃に漫画で宮本武蔵を知らなければ、今の「迷いの雲」が晴れる心境を知る事はなかったでしょう。
 私は今、宮本武蔵に、武道に、学問に、そして「実の道」を直接教えて下さった兵法二天一流の先生に「空の境地」で心から感謝しています。
 まだまだこの空は続いていて、道も先まで続いている、この先にどんな空を見る事になるかは解りませんが、願わくば師の観ている空を、そして宮本武蔵が観ていた空を観るに至りたいと想い、ただ誠心と直道あるのみです。


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