このnote主題、無意味の「意味性」「無意味性」について。
無という事に物心ついた時から、ずっと惹かれていた。
子供の頃、言葉の断片を書いた紙をティッシュ箱に入れて引き、
デタラメな文章作って、何回もずっとゲラゲラ笑っていた。
そのまま大人になり、デタラメな音楽を作り、
今もそのまま無意味に惹かれている。
このnoteは、哲学的、仏教的な「無」を根本に持ちつつ、
「無意味」にフォーカスし、考察と現象について深めていきたい。
主題とともに、関連していくかわからないけど、
下記3項目で考察を進めていこうと思う。
「無意味」について
「かわいい」とは
「世界のリズム」から観る土地、民族、音楽
いつも考えていて、個人的にこの3テーマの考察を深めまとめる事が、
このnoteをつくる目的でもあるため、
無意味と繋がっていくか分からないけど、これで始めてみようと思う。
3つのテーマの概要を概略を最初に書いておこうと思います。
「無意味」について
禅の「無」「初心」、ニーチェの言う「積極的ニヒリズム」が本テーマのベースになる。虚無、虚しさとしての無意味ではなく、コメディとしての無意味、デタラメの面白さ、無作為の愛おしさとはなんなのか、現象紐解きながら考察したい。
同時に、強すぎる意味の危うさ、人の弱さから来る意味への執着についても考えてみたい。
また、instagramで考察の実践を行なっています。
極力無作為に曲と動画を作って投稿しています。本noteの無意味、かわいい、世界のリズム3つのテーマを複合的に実践できればと思います。
「かわいい」とは
古語の「かはゆし」が語源のかわいいは、「いたわしい」といった庇護欲を想起する元々の意味だけでは、今は説明がつかないのでは?
「消極的かわいい」から「積極的かわいい」にカワイイを定義しなおしてみたい。
かわいい、カワイイ、可愛い、kawaii、全部意味が違う事ってなんだろう。
ファンシーとヤンキー、インターネットミームの魅力、イメージ化された日本文化kawaii、アウトサイダーアートとカワイイ、日本人のカワイイへの余りある才能、日本美術の可愛さ、といったことから考えてみたい。
「世界のリズム」から観る土地、民族、音楽
世界中の土地に今の音楽と伝統的な音楽がある。
マーチングバンドがジャズになり、ファンク、ヒップホップとなったアメリカのブラックミュージックも遡るとアフリカにたどり着く。
チリの音楽がアルゼンチンで、
アンゴラの音楽がポルトガルで、
イギリス北部のブリストルだけ局地的にジャマイカの影響を受け、
ダンスミュージックとして花開く、
どれも独特のリズムを持っていて、歴史的な経緯や民族性が反映されている。
文化や民族の継承には悲しい経緯も多いけど、独特なリズム・音楽が産まれ影響し合う様子は、素晴らしいと思う。
他2テーマとは、かなり関係ないけど別に良いと思う。
土地と音楽の関連をまとめ、ディグの防備をしたい。
言い訳ではないけど、他テーマとの関連として日本民族の独自性を音楽を通して考えてみたい。
日本土着のダンスミュージックは何だろうと考えると、おそらくパラパラである。
パラパラは、イタロハウスを起源としたユーロビートで踊る。つまり、音楽制作者は日本人では無くイタリア人で、それを輸入し日本独特のダンスミュージックとして機能させている。
パラパラダンスの起源は、おそらく盆踊りである。盆踊りは一遍上人の踊念仏の仏教儀礼が大衆化したものと思われる。
イタリアで作られたユーロビートはイタリアで多分聴かれておらず、日本人だけが聴き、パラパラとして楽しんでいた。パラパラダンスもまた、他のダンスミュージックと楽しみ方がかなり違う。
そういうとこ考えてみたい。
この3テーマで進めていきたい。
できれば3つが複合的に関連しあい、一つの体系化された思考へ昇華できれば良いなと思う。