無意味にとって美とは何か
無意味の考察は、実のところ「美」とは何かを知る事が目的かも知れない。
「美」は、美学によって長く考察されています。そこは無学なので、一旦知りません。無意味の美しさについて考えていきたいと思います。
ちなみに、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」は本棚の背表紙インテリアとして長年活躍しています。
動物の行動や仕草に「美」を見出すことは多いと思います。また、子供の絵やアウトサイダーアートにも似たような「美」を感じると思います。
一方、一般的に「美」とされる綺麗な絵画や音楽、花束や容姿端麗な人は美しさと同時に、何か醜さを内包している様に感じるのは私だけでしょうか。
美に内包される「醜」
ここで感じる「美」と「醜」は表裏一体で、アウトプットの過程の「因果」にある「意図性」の数にあるのでは、と考えていました。
猫を飼っているのですが、餌をよこせと声を上げる時、あくびをした後伸びをする時、可愛いというより美しさを感じています。それは、意図が少なく行為にアウトプットされているからではないでしょうか。
子供の絵やアウトサイダーアートも作りたい物があり、それを完成させる行為への距離が近いのではないでしょうか。
ここは、推測の域を出ないので、個人の感覚としておきます。
対して、美しい絵が完成するまでには、その絵をつくるために様々な意味や意図、修練と試行錯誤が反映されています。それは美しい過程ですが、必ず至らない技術や知識、多かれ少なかれの妥協も含まれ、つまり「醜さ」も内包されています。
その内包された醜さも含め、人の手による「美」ですが、美としてアウトプットした際、その「醜」を発信側が自覚しない、隠したとき、また、受信者がその「醜」を受信せず表層の美しさのみを受信したとき、人の美の伝達は成立せず、「その醜」が浮き上がってしまう様に思います。これもまた推測です。
「用の美」民藝の美しさと意図性
柳宗悦は民藝運動の中で「用の美」という事と唱えました。これは、生活用品が道具として機能する為にデザインされ、それが生活の中で使われる所までを美とした発想です。
また、坂口安吾の堕落論にある「日本文化私観」でも、過去の日本文化の美の中にある醜を指摘し、大枠の用の美を取り上げていたような気がします。
大昔に読んでもう一回読み直すのが面倒なので、各自ご確認ください。
この用の美と、動物や子供やアウトサイダーのアウトプットの美は、意図性の少なさという点で共通しているように思います。
閑話休題
ここでやっと「無意味」と繋がって来るのですが、真面目な文章にすっかり飽きてしまいました。
ここで、犬猫わんわん、子供わおわお。と書いておきましょう。疲れました。
さて、気を取り直して。
よくわかんなくなっちゃった。
意図性が無い状態を「無作為」と呼びます、作為が無い無意味な行為です。これは前回書いた「完全無意味」となり人の手では不可能の領域です。
完全な無作為もまた、人で行うことは不可能です。
作為を限りなく1つにする事が、「無意味的美」の落とし所なのかも知れません。
ここまで都合が悪いので書いてなかったのですが、「美」は意味性の強度によって美の強度も変わってきます。意味性の弱いものは美として認識されません。つまり、「無意味」は美を見いだせないという事になります。「意味が無いから美しい」というよく言われる話は、意味がないのではなく「意図性」が少なくその意図性の「意味」が強いからと思います。
これは今よくわかんないので、判断保留案件です。自然美と人工美でも話がかなり違うので、飽きちゃったし、今回はこれでおしまいです。