百の説法、屁ひとつ
写真のベリーが植わかったプランターは持ち手を桜の生木で作った故か、小さな猿の腰掛け的なキノコが生えてて楽しいです。
作製した時点では完成ではないという見方もあるなぁと、この作品に教えてもらった様な気がしました。
一先ずの完成は仕上げフェーズのスタートでもあるんですね、
もしかしたら、それは全てのことに言えるのかもしれません。
そしてこのプランターはそんなに分厚くはない一枚板で作ったロット数のない御気に入りなのですが、他のプランター程の強度は無い筈なので、
あと数年(おそらく後2~4年)で朽ち始めて、最後は土に還る部分とストーブの薪になると思います。
元々は中型のわりと大きめのパレットを解体した廃材でした。
板の状態からして10年程は使われていたと思われる広葉樹の硬さは、様々な重い『物』と旅をしてきたことでしょう。
もしかしたら、パレットに腰を掛けて友との語らいがあったかもしれない。
もしかしたら、待ちに待った荷物を胸一杯な気持ちで迎え喜んでいた人が海の向こうにいたかも知れない。
もしかしたら、貨物船に揺られて奇跡の様な朝日に当たったかもしれない。
そんな無限の可能性と物語の欠片が土に還り、また無数の微生物等の生命になったり、冬の寒い夜に燃えて僕らを温めてくれたりするんですね。
『循環型社会の実現』なぁ~んて聞くと、ついつい難しく考えてそれ以外の社会と照らし合わせることに、比較することばかりに意識が散向していたのだけれど、なんてこたぁないワクワクしながら想いを膨らませて、勝手に楽しく有り難たさを胸一杯に吸い込めば全身で理解以上のところへワープしてしまうんです。
百の説法『屁』ひとつ。
子どもの頃から父に聞かされてきた言葉は
日々実践への素晴らしき御誘いだったのだなぁと、解ります。
彼もまたエピキュリアンである事は疑いようもない。
今宵は世の不埒も多分に含めた宇宙に
感謝の想いをよせて
心静かな覚醒を味わっています。
最後まで読んでくれてありがとう。
赤座仁 Dopalfin
(2017年05月18日)