ライブハウスについて
その昔、俺(45才)なんかがガキの頃にはライブハウス(箱)は今よりずーっと少なく、出演するにもオーディションや審査があったりで、いわゆる箱バンドでなくともお客さんへ提供されるショウの質(レベル)が担保され最低限の満足度は守られていたそうです。
その様なライブハウス経営に対してはオーディエンスから一定の信頼があり、箱自体にお客がつく状態。勿論のこと箱ごとに今より個性もあり、ジャンルや表現への挑戦といった『場』の持つ矜持の様なものもあったと。
例えば『今日どこどこのライブハウスへ行ってみよう』と予定外にワクワクして出かけ、当日券で入場してもそれなりに楽しく新しいアーティストを見つけたり、知らなかったグルーヴや音楽を発見して夢中になれた時代。
ブッキング担当も昨今のテレアポまがいの出演者(箱を借りてくれる客)集めをせずに、出たいと申し込んでくるアーティストを『選び』出してあげる、で済んだ。バンドブームなんかもライブ業界の追い風となり、満タンの客でドリンク等もバンバン売れて儲かる殿様商売が出来た。
しかし、その後『美味しい商売』は当然コピーされ、バブル景気もあってどんどこ設備の整ったホール型ライブハウスは立ち上げられ、しっかりした機材のステージに誰でも出演出来るようになった……。
ーーーコピーは当然のこと質も劣化するーーー
そして出演者が箱を選ぶ様なヒエラルキー逆転は進み、しまいには店側から『ノルマまけておくからいついつ出てよ~』となり、箱貸し屋さんとなった。
未熟なヘボい出演者はノルマをみたすために無理矢理友達や同僚や家族にまでチケットを売り、一貫性も質もない寄せ集めの『名ばかり即席イベント』に足を運ぶと、カスみたいな才能もないバンドのうるさいライブや誰が聴いても楽しめない自己満足歌等を我慢して耐え聴き、目的の知り合い発表会を30分とか見させられて、バイトが作った不味いカクテルをプラカップで買わされて(製氷機の穴あき氷入り)、帰りがけに『かっこよかったぁ~』とお世辞言わされて、ヘトヘトに疲れて帰る。。
ライブハウスというものが『付き合いで我慢して行く所』となり、いつしか夢もへったくれも無いダサイ場所になった。
というのが乱立したライブハウスの多くの実情ではないだろうか。
例外は勿論あり、素晴らしきアーティストや志し高き経営者やブッキング担当も個人的には幾人も知っている。彼等にはライブに対する愛がある。
がしかし、その様な人達が想いを折り、心苦しくブッキング電話に奔走させられ、大好きなアーティストから出演料を貰わなくてはならない『ライブ後の精算』に心を疲弊させる。。
実力のある出演者からしてもライブハウスは『ギャラの稼げない演奏場所』というくくりとなり、生活して行く為にはギャラを頂ける『別の演奏依頼』を優先するのは当然となり、アルバム発売記念イベントや何か特別の付加意義が無い限りはライブハウスでのフルバンド演奏自体が難しくなってしまった。
必然的にソロやDuoといった機動力のあるアコースティック的な小編成でのライブが増え、ライブハウスではないバーやカフェでのこじんまりしたライブが主流となる。
ライブハウスでは他の演奏者等からの徴収や空いてしまった枠埋め等で、ノルマ無し出演依頼をしてくれる機会もあるが、あくまでそれは依頼者とアーティストとの人間関係において両者が望む気持ちとタイミングありきの例外。
しかしまぁ、この悪循環は何処から始まったのだろう?
勿論のこと、原因は複雑多岐にわたるのだけれど、つまるところ、文化・民度の『貧しさ』が根底に流れているのもひとつなのではないだろうか、と話を拡げてみる。
エンターテイメント自体がビジネスとして熟成されず、どこかコマーシャル的に企業等の資本に結び付き、大衆の『楽しみ』として育まれなかった側面もあるのではないだろうか。
戦後の大衆文化はある意味での『幼稚さ』を克服するまもなく多様な消費動向に飲み込まれ、急速な変容と細分化を遂げ、いい大人が公然とロリコン趣味になり、ハードルの無い直収的な楽しみへ偏り、、、、まぁそれはそれで日本独自の素晴らしき世界も発展したから良いのだけど…。
なんかジジイみたいなこと
言ってるなぁ俺(笑)
まぁ、でも
大きく外れてもいない考察だと
思うんだぁね。
そして、ここであえて
バシッと言っておくぞ。
俺は最高のライブしかやらない。
ソコんとこヨロシク✌
シェゲナベイベー
最後まで読んでくれてありがとう。
赤座仁 Dopalfin