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終わることについて。エモさも、後悔も合わせて考察した。

考察は最後まで見れるよ。

 新学期も落ち着いてきた。そして、この数ヶ月間で、いくつもの「終わり」を経験してきている。

 例えば卒業式。卒業式では、今まで仲良くしてもらった人間が、ごっそり消えていくための儀式をする。卒業証書の授与だ。そこで、私たちは人がいなくなる実感を得る。ただ、それだけでもなく、どこか前向きな気持ちも芽生える。

 もう一つの例は、部活の引退試合だ。ここで、卒業式のように清々しい気持ちを迎え入れる人もいるだろう。一方で、どうしようもなく苦しい思いをして、心に傷を負ってしまった人もいる。失敗が胸に刻まれて、ことあるごとに思い出してしまう、そんな「終わり」も経験する。

では、この気持ちの正体は

 何だろうか。なぜこんなことを思うのかというと、この気持ちはどうしようもなく尊い感情だからだ。基本的にどのような作品でも、何らかの形で「終わり」が表現されているだろう。死をテーマにしていても、学校をテーマにしてみても。そこにある終わりに感動するし、その感動を今、こうやって考察することを咎める理由などない。

想像してみて欲しい。

 何でもいい、引退した時でも、漫画を最後まで見終わった時でも、祭りが終わった時でも。この時、どことなく不安定な気持ちが存在する。

 思うに、それは「別れ」に対する不安であると言える。例えばそれは、「近しい人との別れ」として、あるいは「作品との別れ」として現れる。(もちろん、ただ不安だけが存在している訳ではないだろう。これについては後述する。)

 とはいえ、このような「不安」だけでなく、前向きな気持ちも存在する「終わり」もある。卒業式なんかはそのお祝いムードの影響もあるだろう。しかし、ただの引退であっても、そこに前向きな気持ちが含まれることは珍しくない。どことなく明るい、未来への決意がある、後悔のない、そんな「終わり」だ。

謎の明るさとは何か。

 結論から言ってしまえば、「別れ」に対する共感であると思う。別れというのは往々にして2者以上の人間が関わっていることが多いが、その関係者の間で「私たちは別れてしまう」という認識が共有されるということだ。

 夏祭りでもイメージすると分かりやすい。これが終盤に入ると、先に説明したように「祭りからの別れ」という不安はあるが、それと同時に「私たちはこれから祭りと別れる」という認識があると、どことなく穏やかな気持ちも芽生えるのである。聞いたことある人には、この歌の雰囲気が、まさにそうであることが伝わると思う。

もうすぐ今日が終わる
やり残したことはないかい
親友と語り合ったかい
燃えるような恋をしたかい
一生忘れないような出来事に出会えたかい
かけがえのない時間を胸に刻み込んだかい

オワリはじまり/かりゆし58

 私たちは、不安と安心の混ざりあった不思議な感情のまま、その終焉を迎えることになる。これが、終わりのエモさである。

ひと口に「終わり」とは言っても、

 初めに述べたように、後悔が心の傷として残る「終わり」もある。思い出す度に憂鬱になるようなものだ。

 これは、ある意味では先ほどと同じであり、ある意味では異なる「別れ」の下で成立している。言い換えると、異なる「終わり」の側面により、同じ「別れ」を感じて憂鬱になっているのだ。

 私たちが、後悔する「終わり」を思い出すのは、そこに失敗があるからだ。やるせない引退には、思い出す度に胸を痛める失敗が付き物である。「あそこのシュートを外さなければよかった」、「あの言動をしなければよかった」なんて具合に。補足をすれば、「あいつのせいで成功が失敗に変わった」なんていう他人の失敗も、後悔する「終わり」には含まれる。

どちらにせよここで一番大事なのは、

 「自分の評価が下がる不安」なのである。そう、終わりのエモさについて論じた時にも出てきた、「不安」である。ここで、「不安」という共通項から、さらにもう一歩踏み込みたい。

 終わりのエモさを論じた時には、不安は別れによって生じると考察した。この時、自分の評価が下がるという「不安」にも、「別れ」の要素は含まれていないだろうか、という問いが生じる。思うに、自分の評価が下がるということは、他人と比べて自分の価値が下がってきていることを示す。つまり、自分の価値が他人と別れることに繋がるのである。

 具体的には、「シュートを外した」という事実が、「自分はシュートを外す人間」としての評価を作り、その評価によって、他人からもそう見られる(区別される)かもしれないという不安として、私たちの心に現れる。これが、他人からの「別れ」が存在するという意味である。

後悔する「終わり」には、

 失敗という経験がそこに存在するということ今論じた。が、実際には、その経験の後、自らの失敗を上塗りする成功ができていれば、何も問題はないはないはずである。つまり、「シュートを外す」という評価を無くすほどシュートを決めればよいのである。しかし、私たちは、今でもトラウマとなるような「終わり」に対して、失敗を打ち消せるほどの成功など、まだ積み重ねられていないだろう。

 言いたいのは、ここである。異なる「終わり」の側面とは、経験が確固たる過去として自らに刻まれるという「終わり」の性質である。失敗を受けて、終わってしまったという事実が、ピリオドを打ってしまったという意識が、自分の一部となってしまうことである。試合終了のホイッスルが鳴った時、自らの無力を認めざるを得ないのだ。さらに、このような過去は、何倍もの努力がないと、還元できない。

 このようにして、同じような「別れ」と、異なる性質を持った「終わり」が、一先ずの結論である。

オマケ

 ここからは、このような感情を生み出す人間のシステムについて考察をする。「終わり」だけでなく、広く人間の行動についての話。この前提の下で考察を俯瞰すると、もっと「終わり」が綺麗に整理できるが、脱線しすぎるので辞めた。

 この記事を読んだお礼でも、これからの記事への期待でもいい。スタバ1杯、ねぎ玉牛丼1杯。奢るような気持ちで。

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