褒められたのは2回だけ。瀧本さんに食らいつくことで、僕は仕事の全てを学んだ。-- 瀧本哲史の「遺伝子」を継げ #3
ゼミ生や投資先、講義参加者など、瀧本哲史さんと関わりのあった若者(ゲリラ)たちに話を聞く「瀧本哲史の『遺伝子』を継げ」3回目に登場するのは、オトバンク社長の久保田裕也さん(37歳)。久保田さんは、オトバンク創業者で同じゼミの同期だった上田渉さん(現オトバンク会長)と瀧本さんの「策略」にまんまとハマり、外資系コンサルの内定を蹴って設立間もないベンチャーにジョインした人物だ。しかしそこに待ち受けていたのは、「バリューが出てなきゃ生きてる意味なし!」と瀧本さんに詰められまくる、地獄の日々......。その瀧本さんとの「濃密な年月」を経て、いま久保田さんは何を思うか。
3ヶ月間、瀧本さんの発言をぜんぶ録音して聞き直した
僕がはじめて瀧本さんと知り合ったのは、もう15年くらい前になります。たしか2005年ですかね。大学のゼミ(東京大学岩井克人ゼミ)の同期だった上田渉から、登記したばかりのオトバンクのミーティングに出てくれって、誘われたんですよ。
僕は大学4年生のちょうど就活が終わった頃で、その日はたまたま予定していた飲み会が飛んだんで、暇だったから行ってみたんです。学生起業の会社の雰囲気ってどんなだろうって、興味もあって。
その場にいたのが、エンジェル投資家としてオトバンク創業を支援していた瀧本さんでした。
第一印象は、めちゃくちゃ賢い「おぼっちゃま君」がいるな、っていう(笑)。あとで知ったんですが、じつは上田は瀧本さんから「上田さん、大学で一番友達が多そうなやつを連れてきてください」というミッションを受けていたようなんです。そこで僕に白羽の矢が立ったというわけで。
まんまと僕はその策略にハマってしまい、それからは月に1、2回、御成門の雑居ビルにある狭い会議室で行われていた定例会議に出ることになりました。
とはいえ僕は、とある外資系コンサルティング会社に就職が決まっていたので、コンサルになるまでの「練習」くらいに考えていたんですが、いざ定例に出てみると、瀧本さんの言っている話の内容がまったくわからない……。そもそもやたら早口でぜんぜん聞き取れないし、略語も多いし、「なんとかスキーム」みたいな専門用語も多用するから、何を言っているのか理解できなくて、呆然としました。
これからコンサルになるということは、マッキンゼー出身であるこの人をキャッチアップできないとダメなんだと思い、僕は毎回会議を録音し、帰りの電車で瀧本さんのセリフを聴き直し、意味がわからないところは家で調べ直す、ということをやり始めました。それでも3ヶ月くらいは、ほんとうに意味不明でしたけどね……。
瀧本さんって、漠然と質問しても答えてくれないんですよ。バカな質問は無視します、みたいな感じでした。間違っていようと、ちゃんと自分なりの仮説を立てて質問しないとまったく答えてくれないので、まず最初の目標は「瀧本さんとちゃんと会話する」ことでしたね(笑)。
「ハイスペックコモディティの人生でいいなら、どうぞご自由に」
オトバンク創業者である上田渉は、取引先や顧客を口説き落とす外回りの営業に集中していたので、裏方の仕事はぜんぶ僕のところに回ってきました。とはいえ僕もまだ大学4年で在学中だったので、パートタイム的に手伝っていました。そうしたら秋くらいに、いきなり瀧本さんに呼び出されて、こう言われたんです。
「久保田さん、あなたは正直言って期待ハズレだから、僕がやっている投資会社の若手アソシエイトとこれから3カ月間競わせて、優秀な方をオトバンクに迎え入れようと思います」
…………。衝撃でした。オトバンクに入りたいなんてひと言もいってないのに、いきなり何言ってんだろう、この人?って。
あとから考えれば、瀧本さんと上田のなかで僕をリクルーティングする計画があり、コイツは叩けば伸びるタイプだと思うから競わせるやり方でやってみよう、みたいなプロジェクトが始まっていたんだと思います。
「べつに入らないし、入りたくもないし!!」と思いながらも、ちょうど「新刊JP」という書籍紹介サービスの立ち上げのタイミングで、僕も面白くてがむしゃらに働きました。ほんとうに、そのアソシエイトと2人で、競わされながら(笑)。そうしたら大学を卒業する4ヶ月前に、瀧本さんから今度は六本木ヒルズの最上階ラウンジに呼び出され、「久保田さんの勝ちです」と正式にスカウトされました。
自分がオファーを受けたことは嬉しかったんですが、まだまったくうまくいっていないベンチャーに行くことには踏ん切りがつかなくて、真剣に悩みましたね。
2回ほど瀧本さんと食事をしながら「久保田さん、どうですかね?」と聞かれてもはぐらかしていたら、今度は瀧本さん、「そうですか。たしかに君はハイスペックコモディティになるのが一番いいかもしれないですね」みたいな感じで、超絶煽ってくるんですよ。
「そこらへんのレベルで気持ちよくなっていれば、人生それでいいんじゃないですか。まあ、それはそれであなたの人生だから僕は口出ししませんし、君にはちょっと早かったね」みたいな。
もちろんそれも瀧本さんの交渉手法なんですけど、当時の僕は完全にその罠にハマってしまって、一度海外を放浪して決意を固めて、帰国後すぐに内定先に出向き、「すいません、やっぱり入社できません」と頭を下げて入社間際にコンサルの内定を辞退しました。
就活でいろんな外資コンサルの優秀な先輩に会って話を聞いていましたが、その人たちと比べても、圧倒的な結果を出していたのが瀧本さんだったんです。実績については瀧本さん本人から聞いていたし、まわりの人からも「じつはあの仕事も、瀧本さんがやったんだよ」といった噂をよく聞きました。
自分はコンサルである程度働いたら事業会社に移りたいとぼんやり考えてたので、むしろ大卒時から瀧本さんのプロジェクトに入って直接教えを受けられるのは、千載一遇の機会かもしれないと考えました。まさに瀧本さんの下で修行するつもりで、初任給がいくらかも全然わからない状態でオトバンクへの入社を決めたんですね。
でもそうして始まったのは、修行というより、「地獄」の日々だったんですが……(笑)。
ジャングルに放り出され、「はい、頑張って生き残って下さい」
2006年の4月に正式にジョインしたオトバンクでは、経理、人事、総務など、会社組織の仕組みづくりをすべて担当することになりました。契約書や社内文書のフォーマットを作ったり、営業以外のあらゆる仕事をやったと思います。
それで、帳簿もぐちゃぐちゃの状態だったので、僕の方で一度きれいに数字を整理してみたら、「あれ? これってどう考えても、あと数ヶ月で手元資金がなくなるな……」という衝撃の事実が判明。で、その話を役員たちにしたら、役員会のあとで瀧本さんと上田が僕のところにやって来て、「この会社、資金調達しなかったら半年後に死亡って感じだから、久保田さんにその仕事やってもらうことにしました」って、ニコニコした顔で言うんです。
そして「ネットエイジ(現ユナイテッド)の投資部門のトップをやってる、金子(陽三)さんとのミーティングを3週間後にセットしたんで、久保田さん、あとはがんばってください」って(笑)。
僕は大学を出たばかりで、資金調達の実務経験もなければ知識もないのに、「バットの振り方は教えるから、すぐ打席に立ってホームラン打ってね」みたいなオーダーだったので、「無茶だよ……」って思いながら、ミーティングまで必死で勉強しましたね。上田は「資金調達とか僕はよくわかんないから宜しく〜」みたいな感じだし、瀧本さんに相談しても基本的に資料とかは「自分で考えて作ってください」って感じで、ぜんぜん教えてくれないんです。
本気でわからなくて困ったときは、瀧本さんがよく使ってた神保町の三井ビル近くのロイホで夜遅くまでずっと待ち伏せして、出てきたのを捕まえて資料見てもらったりしていました。「瀧本出待ち」です(笑)。
そんな感じで猛勉強して資金調達交渉の場にのぞんだわけですが、僕と同じ投資を求める側の席に座ってるのに、なぜか瀧本さん、交渉中に僕のことを詰め始めるんですよ。「資料がぜんぜんダメ」「プレゼンが甘い」みたいな感じに。投資を検討する相手側も、「この若い人、可哀想だな……」みたいに、ちょっと引いた顔をしていたと思います。投資のお願いに来た人が、一緒に来た上司にひたすら怒られ続けてるって、まったく意味がわからないじゃないですか(笑)。
交渉相手の方々は大物ばかりで、金子さん以外にも、いまDCMベンチャーズの社長をやっている本多央輔さんとか、グローバルブレインの百合本安彦さんとか、ベンチャー投資界隈のボスキャラみたいな人がバンバン出てきました。
彼らの前で、瀧本さんに詰められながら、事業の可能性をプレゼンし、出資してくれないかと交渉し続ける。あの頃は本当に、いきなりアマゾンの密林のど真ん中に飛行機から投げ捨てられて、「じゃあ頑張ってここから生きて脱出してください」みたいな感じでしたね。瀧本さんもまだ30代前半の若さだったので語気も強いし、超結果至上主義で「バリューが出てなきゃ生きてる意味なし」という姿勢が全開で、非常に厳しかったです。
ただ、僕がそういうふうに話すと、なにか冷たい人みたいに聞こえるかもしれないですけど、そうじゃないんですよ。資金調達に関する打ち合わせとは別に、瀧本さんとは雑談というか仕事に関する話をする時間もたくさんあって、そこで「自分は過去にこういう案件でこういう交渉をやってきて、最終的にこうなった」みたいな話はずっと聞いていたんです。
たぶん瀧本さん的には、その会話からエッセンスを読み取って応用すれば、いま目の前で起きてる問題はぜんぶ解決できるはずだって考えてたんじゃないかと思うんです。実際僕はそういうふうに解釈して、瀧本さんの話を今度は全部メモって、実践するようになりました。まあそれでも、なかなかできなくて、めちゃくちゃ詰められるんですけどね。
あとになって、『武器としての決断思考』とか『武器としての交渉思考』といった本を瀧本さんが出したのを読んで、「こういったこと、なんで最初から手取り足取り教えてくれないんだよ!」って本気で思いました(笑)。
負けが確定しない限り、戦い続けろ。必ず勝てるから
それで、資金調達の方は結局なんとかうまくいって、その年の11月末にまとまったお金が振り込まれて、「なんとか生き残った」とホッと一息つくことができました。
そうしたら瀧本さんから「椿山荘を予約したんで、お祝いしましょう」って言われて。行ってみたら上田と瀧本さんがすごくでかい部屋で僕のことを待っていてくれて、「よくやってくれましたよ、久保田さん」と瀧本さんから初めて褒められました。
瀧本さんから褒められたのって、その時とあと1回。十数年のつき合いでたった2回だけなんですけど、このときはめちゃくちゃ嬉しかったですね。本当に。
瀧本さんはよく、「上田さんはぶち上げ要員で、久保田さんは落とし込みとつじつま合わせ要員です」と話してました。
つまり、会社のビジョンを説いて回って、出版社との交渉窓口を切り開いていったり会社の認知を広げていくのが上田の役目で、それ以外の製品の生産ラインを作ったり品質管理したり社員のマネジメントしたり、といった全部の仕事は僕の役目だ、というのが瀧本さんの考えでした。
それで投資家として、オトバンクというよちよち歩きの「チーム」を機能させるには、僕を叩いて叩いて叩いて、鍛えまくるしかない、と考えたんだと思うんです。
基本的に瀧本さんは純粋な人なので、自分自身が価値を提供するため、チームとか相手にとって良いことだと思ったら、空気も読まずにネガティブなことでもブワーッと考えてることを喋るんです。でも歯に衣をいっさい着せないから、人によっては「ひどい」「傷ついた」と感じることもあって、それを知った瀧本さん自身が「話し方を間違えた」と反省していたこともあったんですね。僕自身も、瀧本さんから「さっきの言い方は適切ではありませんでした」といった謝罪メールを2回ぐらいもらったことがあります。
そういう感じのフェアというか、自分自身の直すべき点は直すという姿勢は、ずっと一貫してましたね。
仕事に対する姿勢という点では、本当にすべての基礎を瀧本さんに叩き込まれたと感じています。基本的に瀧本さんって、完全に負けが確定しない限りは、常に勝てると本気で思ってるんですよ。だから一緒に仕事をやっていると、ものすごく勇気づけられるんです。
オトバンクは資金調達成功後も、キツいときが何度もありましたけど、そういうときに瀧本さんはいつも「こういうふうにやったらいけるんじゃないですか」とか「僕、とっておきの作戦を思いついたので、明後日ミーティングしましょう!」みたいなことを言ってくるんです。
もしかしたら本当はぜんぜん思いついてなくて、ミーティングまでに必死に考えてたのかもしれませんが、負けが確定しない限りは常に強気で、「大丈夫です、上田さん、久保田さん。なんとかなりますよ!」みたいなポジティブな姿勢には、本当に何度も救われました。
「久保田さん、社長ってどういう人のことだと思いますか?」
瀧本さんはめったに人を褒めないし、褒めるときもわかりやすい褒め言葉とかは言わないんですが、今でも忘れられない会話があります。
あるとき、「久保田さん、社長ってどういう人だと定義されると思いますか」って聞かれたんです。一生懸命考えて、「事業をすごく伸ばせる人ですか?」とか「組織を束ねられる人」とかいろいろ答えたら、「いや、違うんですよ。答えは『最後まで逃げない人』。それが社長なんです」って言うんです。
「じゃあ、なんで久保田さんがオトバンクの社長をやっているかといえば、それは我々が、君は最後まで逃げない人だと信じているからなんですよ」って。
そんな風に言われたら「もうやるしかない!」って思うじゃないですか(笑)。そんな感じに、人にやる気を出させるのも瀧本さんは本当にうまい人でした。基本、すごくロマンチストなんです。
意外かもしれないですが、瀧本さん、じつは『ドラえもん』が大好きで、よく例え話としてドラえもんやのび太たちのエピソードを話してくれました。「ドヨヨーン」とか「ボワー」っていう、瀧本さんの口癖のような擬音語、あれ、ドラえもんの影響だと思うんです(笑)。
それで、なんでそんなにドラえもんが好きかといえば、瀧本さんは「未来」をつくるのが大好きだから。ひみつ道具でなくて、ビジネスやいろんな活動を通して、良き未来に向けてアクションを起こしている人を応援したいという気持ちが、すごく強かったんだと思います。
本気で純粋に思っていて、事業を起こそうっていう人たちを心から成功させたいと思っているからこそ、ここは駄目なんじゃないですか、とか、あそこは甘いんじゃないですか、といった激烈なダメ出しを、誰よりも全力でやるんですよね。「頑張りが足りなすぎる、お前なんてクビだ」なんて言われればめっちゃ傷つくし、厳しく感じますが、その奥には愛とロマンが見え隠れするから、正直、憎めないんですよ(実際に面と向かって言われました……)。
去年瀧本さんが亡くなってから、瀧本さんのことを思い出さない日というのは1日もありません。目をつむれば、今でも瀧本さんの声がありありと聞こえてきます。
オトバンクはまだまだ、瀧本さんが思い描いていた目標からは遠い位置にいますが、ここでアクセルを弱めるわけには到底いきません。「聞き入る文化」をさらに広めていくため、僕らにできることは何か。これからも常に全力を尽くして課題を解決していくことでしか、瀧本さんの期待に応えることはできないのだと思っています。頑張るしか、ありませんね。
(執筆:大越裕 @ookoshiy)
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