祈れ、一条の存在のまま
いろんなことができず、いろんなことができている。できた事なんか、私たちのこころには残らない。当たり前のことは、はなから眼に映っていない。
たまには、他人と分かりあおうとしてみたり。でもそこに距離がなければ、やさしくなどなれっこない。私・たちは別の存在ですから。そう思う以外に、他人を尊重する方法があるだろうか?
ほとんどのことは、人間どうし、口を出し合う領域になんてないのではないか。この、存在の隔たりを――間隔の孤独を引き受けながらでなければ、尊重など、できないのではなかったか。私は私以外ではないからだ。
だから、想像する。
ゆうれいとは、私にしかなれなかった私を引き受けて想像することのメタファーなのかもしれない。私らは、見たことねえで、そして、なったことねえで幽霊を描くじゃないか、それは、せめてもの、だ。きみでないわたしが、せめて、できることが、想像することだから。ほんとうにそれしかないから。そうするしかないから。それしかできないから。祈るような気持ちで、わずかの望みにかけて、私たちは想像する。存在の、惨たらしい線条性を引き連れて。
死んだことのない私の、月へ行ったことのない私の、アングロサクソンであったことない私の、男性であったことのない私の、ねこであったことのない私の、きみであったことのない、ひとつしかえらべない、どうしようもなく、私であったことしかない私の、できる、
せめてもの祈りが想像だから。
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