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『2010s』を図解する

本を読んで、理解できないことを、嬉しく思ったのは久しぶりだった。初めて『ソフィーの世界』を読んで、哲学の世界に興奮したり、『アルジャーノンに花束を』『モモ』を読んで、物語の普遍性や、アートフォームの遊びに興奮した時以来の「これを読んだことで世界の見え方が変わる」という体験をして、嬉しくなった。この本特有であるポップ・カルチャーの固有名詞やカルチャー用語(業界用語?)を調べながら、文脈と時代性を読み解きながら、気がつけばこう思っていた。「図にしたい」

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「はじめに」では、グローバル・コンテンツのメインストリームと日本との極端な温度差について語られている。そして、その原因を追求するよりも、未来に向けて「失われた10年間」の連続性と文脈を取り戻そう、という希望が提示されており、これから始まるポップ・カルチャーをめぐるタイム・スリップへのワクワク感が生まれていく。きっと楽しい旅になるに違いない。

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第1章は、フィメールポップの話。レディー・ガガであり、テイラー・スウィフトであり、アデルであり、この時代に咲いた多くの歌姫たちの話。その文脈は日本とは異なり、より「戦い」の色あいが強い。男性優位社会に対して、ジェンダー・マイノリティとして言いたいことを言う。そのことが、ネットを介したファンの集まりを生成していく。最近はコミュニティと呼ばれるその集まりの熱が、アーティスト側にフィードバックされていくループが出来上がった。ラップ・ミュージックも、白人優位社会に対するマイノリティの戦いという政治的な意味合いは同じだった。また汎用性の高いアートフォームによって、一気にシーンを拡大していった。いつのまにか「ロック」は懐メロになっていた。このへんから「へーそうだったんだ」の連続である。日本は未だに、外タレの来日公演はロックバンドばかりである。まとめるのがしんどい。このへんで既に後悔し始めているが、続けることにする。

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で、ラップである。どうも露悪的というか金満的というか、欲望を前面に出す地方の虎的ヤンキー・カルチャーが好きになれなかったんだが、それは白人優位社会に対するカウンターであることや、ゴシップがネットを介して知名度アップにつながり、よりシーンを拡大する回路になっていることを知る。音楽カルチャーであると同時に、メディアの技術革新であり、ビジネスの産業革新であり、マイノリティの政治要請であるという。その文脈をすべて背負ったのがビリー・アイリッシュである、という結論めいたものに、なぜあの女の子がここまで売れているのかについて、多少の納得感を得る。このあたりの歴史については深すぎるので、個別に掘っていく必要がありそう。そしてここでもまた、日本のヒップホップとはまったく文脈が違うことに驚く。まとめる作業は暗礁に乗り上げ、興味のある部分をピックアップすることしかできなくなっている。

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スポティファイを代表とするストリーミング・サービスが、デジタルコンテンツのあり方を大きく変えてしまった。これは自分自身に照らし合わせてもすごくわかりやすい。CDを買わなくなり、ライブをありがたがり、コンテンツはタダで手に入る時代を経て、サブスクリプションモデルに落ち着くことになる。この章での驚きは、日本の音楽産業が「せき止めていた」ことによって、海外カルチャーへの接続が弱まってしまっていたこと。特にインターネットによる「いったん法を犯してでも人々の欲望を満たし、その後法整備する」という北米文化に対して、既得権益を守とうとする日本文化のデメリットが出てしまった。ラジオ局、看板、イベンターが一体化した北米の巨大資本の力にも驚く。抜け落ちていた視点は「旧作アーカイブへのアクセスが弱くなり、教養がたまらない=新作への積み重ねが起きず、クリエイターの底力が落ちていく」ということ。この章はまとめやすさとは裏腹に日本の産業構造への嫌悪感が漂ってしまった。

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ここ10年で、クオリティ・オブ・ライフを引き上げ、また家の中で過ごす時間を増やしてくれた存在「Netflix」。実はその前から「TVシリーズ」という文化的な勃興があった、という視点。ここでの面白さはサブスクリプションによるストリーミングという技術とビジネスの話ではなく、政治とのアナロジーである。つまり、オバマ・ケアを題材として『ブレイキング・バッド』がアート的な強度を獲得していたり、同時代性を帯びて人々の共感を得ていること。めちゃくちゃにハマった『ハウス・オブ・カード』については、役割的な意味でクリントン夫妻をモデルに進んでいたアメリカ政治の並行的なファンタジーであったということ。(その後、#MeToo問題によるケヴィン・スペイシーの降板や、トランプ大統領誕生によって、現実がドラマを超えてしまうことになる)この長期シリーズならではの同時代性は、映画とは別の興奮を産むことになった。いつ見てもいいという普遍性を捨てる変わりに、今見ることに意味があるというリアルタイム性を獲得した。これから、政治やニュースの見方が変わりそう(コンテンツ制作のネタとして吸収する姿勢に変わりそう)である。海外作品に感じる「大人っぽさ」の原因も理解できた。そして図としてまとめるたびに理解と絶望が深まっていく。

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マーベル作品って、なんていうか、『ハリー・ポッター』的にしか思っていなかったけど、実はこれもまた政治とのアナロジーがふんだんに散りばめられている。この時代と呼応する制作スタイルは「マルチバース」だからできたことである。マルチバースとは、並行する複数の世界を描きながらも、登場人物や世界観には一定の統一性があり、複数作品が連なって「ユニバース」を形成している様式のこと。ひとつの映画に時代性を詰め込むと、ともすれば普遍性が失われてしまうが、連続する作品シリーズとして位置付けることで、個別の作品性を優先させながらも、時代の伏線を仕込むことができる。「アメリカ人ってヒーローが好きだよな」というシンプルな理解だったのだが、「退役軍人」「マイノリティ」「政府と企業」「格差」のような文脈を背負った上での代弁者という意味においてのヒーローであったとは、思いもしなかった。そういえば親会社であるディズニー作品も、必ず「女性のエンパワーメント」「マイノリティの主張」「格差社会への示唆」が含まれている。(にもかかわらずエンターテインメント性を失わないところがすごい)これに匹敵できる日本のカルチャーはなんだろうか。ゲームとアニメだけなのだろうか。自分は何かできるのだろうか。これをまとめるくらいしかできないのかもしれない。

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『ゲーム・オブ・スローンズ』は見ていない、が、なぜそこまで熱狂するのかがわからなかった。これもまた「政治とのアナロジー」「スタートレック的ナードカルチャーの元」「群像劇による主人公の不在」(=見る人によっての主人公的共感の多様化)「因果律の不在」(=同時代的なリアリティ)など複層する魅力が詰まっていることがわかった。もう一度どこかで合宿的に見ないといけない。(ちなみに一気見することを「ビンジ」と言うらしい)

ここで重要なのは「ファンの力が暴走する」という視点。過度なコンプライアンスなど、国内でも理解しやすい傾向だが、北米においては「ストーリーを変えろ」「スタッフを変えろ」「出演者を変えろ」といった暴言が出現し、それによって現実が歪められてしまうという現象が起きている。「トキシック・ファンダム」とも呼ばれるこの盛り上がりが最高潮を迎えてしまったのが『ゲーム・オブ・スローンズ』の最終章。ということらしい。皮肉にも、その少し前に上映された『アベンジャーズ/エンドゲーム』が大喝采で称賛され、『アバター』を抜く世界興収を記録したのに対しての大ブーイングである。ポピュリズム(権威を憎悪する思想)が悪い方に転がり、こんな事態となってしまった。

やっと図にする作業も目処がたってきた。うれしい。富士山でいうと9合目まで登って、あとはご来光までに頂上を目指すだけだ。高山病にかかり、足元はフラついているが、希望は失っていない。

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最後のあと書きに書かれていることは、ポピュリズムへの絶望から、いかに希望を見出していくか、ということにつきる。民主主義への絶望や、人々の文化的な教養不足への嘆きなどはあるが、本書を端緒としたコミュニティへの希望である。そして、あまりに散文的で、内省的で、叙情的なため、図としてまとめる作業を完全にあきらめてしまった。

頂上だと思ってた場所が谷底だった。しかも底無しの、空に向かう谷。後悔はしていないが、徒労感がヤバい。そろそろ仕事にも戻らないといけない。なんでこんなことをしているのかわからない。でも、この本を読んで、たまらず図解したくなったのは本当である。

この先の文化的な営みとして、できることは「身の回りのゆるやかなコミュニティを少しずつ広げていき、良心的な態度と言動を獲得していく」ことしかないのかもしれない。

例えばこのクソ長い長文をここまで読んでくれて、これからの制作物に対しての作り手としての態度や、オーディエンスとしての態度を、より時代に即した感性で更新していこう、と思ってくれたあなたのように。

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ポール
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