『被災地で起きたペットのはなし~シーズーのガンちゃん編~』
このはなしは、ある大地震の被災地で起きたペットにまつわる出来事である。
13歳になるシーズー犬のガンちゃん(仮名)は、30代の娘とその母親とともに、一軒家で暮らしていたが、地震によって家は全壊し、住む場所を失った。
母娘はガンちゃんを連れ、ひとまず親せきの家に身を寄せたが、いくら親せきとはいえ犬連れで押しかけるような状況に、肩身の狭い思いをしていたことは想像に難くない。
ケガこそなかったものの、長年住み慣れた家が一瞬で崩壊し、恐怖と先行きの不安感のなか、母娘の精神状態はいかばかりだったか。
それから数週間後、被災直後に申し込んでいた県営アパートの抽選に当たったとの連絡が、母娘のもとに入る。
これで住む家はどうにかなりそうだ。
しかし問題は、このアパートはペット飼育が不可だということ。
母娘は、どこに相談していいものかわからず、知人にその悩みを吐露するのみで時間だけが過ぎていく。
悩みを打ち明けられた母娘の知人は、この地域で動物愛護活動をしているF氏(以下敬称略)に連絡し、母娘の相談に乗ってほしいと頼んだ。
F氏はすぐに娘に電話をかけてみた。
F氏が一通り事情をヒアリングした後で娘は、
『ガンちゃんを他に譲渡したい。今まで外飼いしていました、地震が起きてこんな状況になって、離れる事を思うともっと愛情を注いでおけば良かったと後悔しています。』
と言った。
シーズー犬の外飼い、と聞いて少し違和感を覚えたが、犬種の知識がないまま他所からもらい受けるなどして室内犬を屋外で飼育している例などは多々あるし、だからといってそれが犬に対する愛情の度合いを図る要素であるとは限らないので、F氏もここではそのことについて言及することはしないでおいた。
とはいえ、このままではガンちゃんの行き場所が無くなってしまうため、F氏の知り合いが管理運営する動物保護団体(以下『団体』)で一時預かりをしてもらう算段を付けたうえで、
『どうしても飼育を継続する事が難しいということなら、できるだけ知り合いにも当たってみて下さい。それほど後悔する気持ちもあるのならば飼育を継続出来る方法がないか模索してみてください。』
と話した。
娘は、ガンちゃんを手放さざるを得ない状況になったことを悔やむ言葉を繰り返し、
『わかりました。なんとか飼育を継続できるように、いろいろ考えてみます。』
と言い、F氏に対し丁寧にお礼を告げたあと、電話を切った。
こうしてガンちゃんは、ひとまず団体にて預かられることになった。
団体に預けられたガンちゃんだが、メディカルチェックを受けると心臓に疾患が見つかった。
団体は、投薬の許可を母娘からもらったうえで、治療しながら預かりを行った。
それからひと月ほど経ち・・・。
F氏のもとに団体から連絡が入った。
『例のシーズー、飼い主さんが県営アパートの管理人に掛け合ってみたら、どうやら飼っていいことになったようで、先ほど犬を引き取っていったよ。』
F氏は知らせを受け、ホッと胸をなでおろした。
13歳という年齢、心臓疾患などの事情を考えると、譲渡先を探すのは容易ではない。
これまで一緒に暮らしてきた家族に看取られ、天寿を全うするのが、犬にとっても飼い主にとっても最良の選択であることは間違いない、と思った。
少なくとも、この時までは・・・。
それから2週間ほどが経ったある日、F氏のもとに1本の電話が入った。
かねてから付き合いのある、この地域の獣医師からだ。
『Fさん、いま病院に老犬を連れてこられた方が、この犬を安楽死させてほしいと言っているんだが、なんとかならないかな。』
『老犬?』
F氏の脳裏に、ふと嫌な予感がよぎった。
いやいや、あの子なら今頃は母娘とともに県営アパートで暮らしているはず。
まさかとは思いつつも、直感的にたずねていた。
『もしかしてその老犬って、シーズーではありませんか?』
『そうだよ、13歳のシーズー。もしかして知ってる子?』
『先生、ま、待ってください!なんとかしますから!』
やはり、ガンちゃんだった。
F氏はすぐに飛んでいき、ガンちゃんを引き取ったうえで、先の団体に再度預けた。
その後、母娘は正式にガンちゃんの所有権を放棄する書面にサインし、団体に譲渡され、新しい飼い主を探すこととなった。
ガンちゃんの命は間一髪のところで繋がったが、F氏は忸怩(じくじ)たる思いで事の経過を思い返していた。
この母娘は、もしかしたら自分に相談した時点ではすでに、ガンちゃんを手放すことを決めていたのではないか。
団体に預けられている間、投薬治療の副作用かどうかは不明だが、ガンちゃんの視力はみるみる低下していたことも決断に拍車をかけていた可能性もある。
娘は、精神疾患で通院歴があったと母親が話していた。
そのことと関連があるのかどうかはわからないが、家を失ったという極限状態の中で、母娘の精神的な疲労が限界に達し、ガンちゃんが既に、『やっかいもの』となってしまっていたのではないか。
だとすると、自分はこの母娘から『本当の気持ち、実際の決意』を引き出すことができなかったということになる。
この母娘と立場を逆転して想像してみると、『動物愛護』の活動家から、『終生飼養』を説かれたら、たとえ『ガンちゃんを手放す』という腹は決まっていたとしても、なんらかの『言い訳』は用意するだろう。
殴られるとわかっている場所に、『言い訳』という防御のヘルメットを被って臨むことは自然なことだ。
もちろんF氏自身は、『譲渡』という選択肢も視野に入れて話していたつもりであったし、一時預かりをした団体も同じスタンスであっただろう。
おそらく、娘が話した、
『もっと愛情を注いでおけばよかった。』
という言葉に偽りはなかったはずだ。
だが、母娘は最終的にガンちゃんを安楽死させようという、究極の決断にまで駆り立てた。
F氏と獣医がたまたま知り合いでなかったら、ガンちゃんの命はそこで絶たれていた。
では、どのようなアプローチでこの母娘に向き合うべきだったのか。
F氏が動物愛護の活動家である以上、『終生飼養』を思想の軸とすることは動かしようがない。
だがそれだけでは、この母娘の例のように、動物たちの『命をつなぐ』という本質的な目的を完達するには限界がある。
もし仮に、ガンちゃんが『やっかいもの』のレッテルを貼られたまま、母娘と暮らし続けたとする。
その状況で、ガンちゃんが飼い主の母娘に対して無償の愛を注ぎ続けることが、果たしてガンちゃんの幸せと言えるのだろうか。
新しい飼い主のもとで、相互の愛情を感じながら余生を送るほうが幸せと言えるのではないか。
『終生飼養の責任』とは、ひとりの人間、ひとつの家庭が負うべき、絶対的な義務。
これがおそらく、ペットに対する世間一般の論調であろう。
平成25年9月に施行された『改正動物愛護管理法』でも、
『所有者の責務に、終生飼養や適正な繁殖に係る努力義務を加える(第7条関係)。』
と明記されている。
かといって、極限に近い精神状態にある母娘が下した、『ガンちゃんの飼育放棄』という選択を、F氏は100%非難することもできない。
なぜなら、F氏自身も大地震を経験し、限界に近い精神状態の中でも助け合い、自らの感情を押し殺しながら避難生活を続けている被災者を肌で感じていたからだ。
ペットを飼うと決めた当初は、この母娘に限らず万人が『この子と生涯ともに生きよう。』という覚悟のもとだったと信じたい。
そうでない人間は、非難されてしかるべきだろう。
前述の改正動愛法では、『終生飼養の努力義務』とあった。
当然のことながら、ペットにとっての理想は『引き取られたひとりの人間、ひとつの家庭で生涯を終えること。』である。
ガンちゃんの飼い主だったあの母娘も、きっとガンちゃんを迎えた当初は、この理想を持っていたであろう。
しかし、震災で家を失うという事件によって状況は一変し、その先に進むことができず、県営アパートでの飼育許可が下りたにもかかわらず『安楽死を希望する。』という決断に至ってしまった。
そこに至るまで、母娘はどのような思考のプロセスを経たのか。
また、どのようなアプローチであれば、母娘とガンちゃんの双方を救えたのか。
人間が生活していく先には、それぞれに後発的かつ突発的な『事情』が発生する。
被災を受けていない地域で暮らす人であっても、どうしてもペットと暮らせないという『事情』は、実は誰の身にも起こりうる。
少なくとも、事情を知らない人が、偏った『終生飼養の責任』を声高に叫び、そこから外れるものを一方的に非難したり糾弾しても、決して今回のような問題の解決につながらないことは、F氏にもはっきりとわかった。
ではこのような場合、ペットの命をどのように繋いでいくのか。
飼い主がこうした状況から逃避することなく、譲渡先を見つけるための『最大限の努力』をすることもまた、法に記されている『所有者(飼い主)の義務』の解釈のひとつであるといえる。
そしてペットや飼い主を取り巻く社会は、そうした努力義務を遂行しようとする人に対して、責めるばかりではなく、本音を引き出しサポートできるような啓発や仕組みを整備することも、『命をつなぐ』ことを目的にするならば優先されるべき事のひとつだといえる。
さらにF氏は思う。
あの母娘が抱いていたであろう『動物愛護』に対する世間一般から見たイメージを変えるには、どうすればよいのか。
まずは『動物愛護業界』全体が『終生飼養』には多様性があるという概念を浸透させることが重要なのではないか。
F氏にとって今回のようなケースは、震災によって浮き彫りにされたといえるが、同じような事象はこれからも、どこにでも普遍的に存在していくものだ。
『動物愛護』にかかわるものは、飼い主が抱く『本当の気持ち、実際の決意』を引き出したうえで飼い主に寄り添い、かつペットの幸せも常に視線の先に置かれている相談者となるべきだろう。
簡単ではないが、この思考を止めてはならないと、F氏は思う。
ペットとして生まれてきた命がすべて天寿を全うできるまで、F氏の活動はこれからも続く。
文:村松 歩