南相馬市・シロのはなし。
まずは自己紹介から、ですよね。
ボクの名前はシロといいます。6歳の男の子です。体重は、最近は測ってないけど、たぶん13~4キロくらいじゃないでしょうかね。福島県の南相馬というところで暮らしています。といっても、いまは本当のおウチではなく、カセツといって、小さなプレハブ作りの長屋の 4 畳半二間に、お母さんとユージ、おばあちゃんとボクの4人で住んでいます。 昼間お母さんとユージは、お仕事とか学校があって出かけてしまうから、おばあちゃんと 一緒にいる時間が一番長いことになります。
ボクたちは、もともとこの場所に住んでいたわけじゃなくて、ここから南に15キロほ ど離れた小高という場所にいました。160 坪の敷地に 50坪の家で、10 年前に建てたみたいです。なんでも、100年住宅といって、100 年経っても壊れない頑丈な家なんだよと、お母さんが教えてくれました。この母屋とは別に、200坪の畑と離れをおウチのとなりに持っていて、ボクはふだん、そこで走り回ったり陽向ぼっこをしたりして過ごしていました。ユ ージの学校の友達が、帰りがけにボクと遊ぶのが楽しかったみたいで、よくみんなでボクのおウチに寄ってくれました。ボクも、緑の芝がキレイなお庭でみんなと遊ぶのを楽しみにしていました。けっこう、ボクも人気者だったんですよ。へへへ。わん。
ボクは、このおウチが建てられてから2年後、ちょうどユージが 6 歳のとき、江井家の家族として加わりました。お母さんの友達と暮らしていた犬が子犬を産んだってことで、 そのなかの一人だったボクが、このおウチに引き取られたんです。ボクがはじめておウチ に来た時は、ずっとブルブル震えて怯えていたそうです。家族がボクに名前を付けようということになり、最初は『ジョン』だとか『ラッキー』だとか、いろいろオシャレな名前 も候補だったそうですが、試しに呼んでみても、ボクはぜんぶムシしていて、じゃあ、毛の色が白いから、『シロ』だったらどうだってことで、『シロ!』と呼んでみたら、ボクはピタと震えが止まったそうです。ボクはそんなこと、ぜんぜん覚えてないですけどね。こうして名前が決まったボクですが、しばらくはずっとワンワン吠えていたみたいです。でも、おばあちゃんが庭から見渡せる200坪の畑のほうをボクにみせると、やっぱりピタと吠えるのをやめたそうです。これもやっぱり、ぜんぜん覚えてないですけど。
お散歩もたくさん連れてってもらいました。近くのキンカ山とか、カケの森なんかを、 いろんな匂いに囲まれながらクンクンして歩くのは、ホントに楽しかったです。そんなボクを見て、家族のみんなもニコニコしながら、時には2時間半も歩き回ったこともありま した。週末になるとタマに近くを通る、ボボボーンとすごい音で走り回るボーソー族っていうんですかね、その音と、夏になると夜に海の方から聞こえるドーン、ドーン、パチパ チパチってスゴい音がする花火だけは、正直苦手で、音がなくなるまで隠れていました。 でもそれ以外は、ボクはこのおウチと小高のまちがとっても好きでした。
こんなふうにしてボクは毎日、畑で走り回ったり、ユージの友達たちと庭の芝生で遊んだり、キンカ山やカケの森へ散歩に出かけたりしながら、のんびり、楽しく過ごしていました。みんなが気に入っていたおウチだったのに、どうしてカセツに引越しすることにな ったのか、ボクがどんな経験をしたのか、これからお話しますね。
3月11日、ボクは午後のお昼寝中でしたが、地鳴りのような音とグラグラで飛び起きました。それは、ボーソー族より、花火の音より恐ろしい音でした。正直言いますと、その数日前から、なんだか落ち着かない気分が続いていたので、なんだろうなあと思ってい たんです。でも、まさかこんな大きな、恐ろしいグラグラが起こるなんて思ってもみませんでしたので、ボクはワンワンしたりグルグル回ったりしてちょっとパニックになりまし た。
すぐにおばあちゃんが、『だいじょぶ、だいじょぶ』と頭をナデナデしてくれたので、少しは落ち着きましたが、そのあとも、地鳴りとグラグラが何回も来たので、やっぱり怖くて仕方なかったです。あと、おウチから4キロくらい離れたところにある海岸の方から、 なんだか、聞いたこともないようなすごい音と恐ろしい気配を感じたことも気になりまし た。でも、100 年住宅のおウチは、おウチの中の物が何個か落ちたりしましたが、たいした 被害はなかったみたいです。お母さんもユージも、不安そうでしたが次々におウチに帰っ てきて、それはそれでホッとしたんですけど、怖がってるボクをナデナデしてくれたおば あちゃんが、もともとあんまり調子の良くなかった心臓に、発作を起こしてしまったんで す。
おばあちゃんは、ボクを励ましてくれてはいたけど、本当はたぶん、とっても怖かったんだと思います。
すぐにお母さんが小高から 10 キロ離れた原町の病院に連れて行きました。おばあちゃん、 本当は入院しなきゃいけなかったんだけど、ほら、グラグラの当日でしょ。街の中はボク 以上にパニックになってるから、おばあちゃんはお医者の先生から安静にするように言わ れて、点滴をしながらおウチに戻ってきたんです。あの、コート掛けみたいなやつを持っ て。
翌日、3月12日に役所から、ゲンパツが爆発したので、避難してください、南相馬市 からは新潟行きのバスを出します、という指示が来ました。ボクのおウチは、ゲンパツか ら 20 キロ圏内だから、ホーシャノーで危ないのだそうです。ボクと家族のみんなは、どうすればいいか、ずいぶん長いこと話をしました。安静にしてなきゃいけないおばあちゃんを連れて、新潟行きのバスには乗れません。それに、新潟に行く時は、ペットは連れて行 けないから、リードを放してきてくださいと役所から言われていたので、みんなは新潟に 行くのをあきらめ、役所からの言いつけを無視して、おウチのなかにいることにしました。
ボクたちはホーシャノーが入ってこないように窓も閉め切って、換気扇も切って、そして電気もつけないで、みんなで固まって 2 日間、おウチの中で過ごしました。
ボクは、相変わらずときどき起こるグラグラが怖くて、きゅーん、きゅーんと泣いてし まいました。お母さんとおばあちゃんは、ボクがきゅーんきゅーん泣くたびに、ボクをナ デナデして『だいじょうぶだからね。』と言ってくれるので、ちょっと落ち着きましたが、 しばらくするとまた、不安になって泣く、落ち着くというのを何回も繰り返していました。
3月14日、お母さんがおばあちゃんを連れて、また原町の病院に行きました。3 日前とは全然様子が変わっていて、街には全然人がいなく、お母さんとおばあちゃんは、とても不安そうな様子で帰ってきました。ボクたちは、もう一度話し合いました。仙台に住んで いるおばあちゃんの息子、だから、えっと、お母さんのお兄さんからは、ちょっと怒った ようなメールが来ているみたいでした。どんな内容かというと、『なにしてるんだ。そこに いたら危ないから、はやくオレのウチに来い。』という感じだったみたいです。
仙台のお兄さんのおウチは、マンションといって、ボクのようなペットは入れないところでした。みんな悩んだ結果、こんなことは長くは続かない、もう4~5日もすればまた帰ってこれるはずだし、もし長引くようなら、仙台でシロが飼えるおウチを探そう、ということになりました。まさか、小高のおウチにもう帰ってこれなくなるなんて、このときは想像もしてなかったんですから…。
そしてみんなは、お出かけの準備を始めました。ボクの近くにゴハンとお水を山のように置くと、お母さんは、ボクにリードをつけて、『またすぐに帰ってくるからね。』と言い、 みんなは、『いい子にしてるんだよ。』と代わる代わる言ったあと、クルマに乗って行きま した。
ボクも最初は、お買い物に行くみたいに、みんなすぐに帰ってくると思ったんですけど、 なんだか、だんだん、ものすごく不安になってきました。うぉーんと遠吠えをしたり、グ ルグルしたり、意味もなく床をホリホリしたりしましたが、気は紛れません。いつもは気 にもしていませんでしたが、近所のおじさんやおばさんの匂いもしませんし、人間の気配すらありません。たまに、どこかの犬の遠吠えが聞こえたので、ボクも応えてみたんです が、かえってむなしいだけでした。いつもなら楽しみなゴハンも、なんだか食べる気になりませんでした。
すぐに帰るからねと言って出かけていったみんなでしたが、なかなか帰ってきませんでした。あとで聞いた話ですけど、ボクのおウチがある小高というところは、ケーカイクイ キといって、みんなが仙台に行ってすぐ、立ち入り禁止になってしまっていたみたいです。
仙台に着いた家族のみんなは、いろんな知り合いを頼りながら、一生懸命ボクと暮らせ る新しいおウチを探したみたいです。でも、仙台もグラグラの被害があって、おウチがなくなっちゃった人たちがたくさんいたので、新しいおウチは、ちっとも見つからなかった みたいです。
そんなことぜんぜん知らないボクは、みんなが帰ってきたら、長いことお留守番をさせたことを厳重に抗議するつもりでした。でも、みんなは3日経っても、5日経っても帰ってきません。ゴハンもちょっと食べてみたけど、あんまり美味しく感じなかったのでやめま した。
ボクはその間、ユージやユージの友だちとお庭で遊んだこととか、キンカ山やカケの森 で散歩したこと、海で遊んだことなんかを思い出していました。もしかしたら、もう二度 とみんな帰ってこないんじゃないか、なんてことも考えて、不安になってワンワンしたりしましたが、なんだか力が入らないので、それもちょっとだけでやめました。それにまだ 時たま、グラグラがするので、そのたびにびっくりして、いやな気持ちになりました。
そのとき仙台のお兄さんのマンションには、お兄さんの家族と、ボクの家族、それにお兄さんのお嫁さんの親戚あわせて、10人いたそうです。4LDKに10人って言ってました。 ボクのお母さんは、このままずっとお兄さんのおウチで暮らすことはできないと考えたの でしょうね。いろいろな知り合いに、片っ端から連絡しまくって、仮の住まいを探し続けました。
そして、お母さんが昔、助産婦さんの研修をしていた長野の下諏訪というところにある 病院の婦長さんが、『ウチの病院の寮に来なさい、寮ではシロは飼えないけど、近くで預かってくれるところも探してあげるから。本当は女子寮だけど、特別に息子さんも住んでいいから。』と言ってくれたので、そこに移ることにしたのです。でも、小高にいるボクをそのままにしておくわけにはいかないってことで、ケーカイクイキで立ち入り禁止だったけど、長野に行く前になんとかこっそり、おウチに帰らなきゃならないってことになったそうです。ボクの家族が小高のおウチを出て仙台に行ってから、9日経っていました。
3月24日、ボクの家族3人は、いろんな知り合いの情報をもらって、ひとつだけ小高に入れる道があるっていうのを聞き出して、こっそりおウチに帰ってきました。昼間は見張りの人がいるかもしれないので、見つかりにくい夜にそっと帰ってきたんです。考えて みれば、おかしいですよね。じぶんのおウチに帰るのに、暗闇に紛れてこっそりしなきゃいけないなんて。
とにかく最初は、みんなに抗議するつもりだったボクだったけど、みんなの顔を見た瞬間、そんなことぜんぶ忘れて、嬉しくなって飛びついてしまいました。家族のみんなは、『どうしたの。ゴハンあまり食べてないじゃない』とか、『いい子にしてた?』とか、『ごめんね』とかいろいろ言って、ボクをガシガシしたり抱きしめたりしたので、ボクはもっと嬉 しくなって転がったり飛び跳ねたりしました。
その日もやっぱり、窓を閉め切って、電気もつけないで過ごしましたけど、ボクはみん なが居てくれることが嬉しくて、久しぶりに安心して眠りました。家族は代わる代わる、 ボクのアタマとか首とか、いろんなところをナデナデしてくれました。
3月25日、みんなはまた、お出かけの準備を始めました。ボクは、またお留守番をしなきゃいけないのかな、それとも、今日こそお出かけに連れて行ってくれるのかな、とかいろいろな気持ちが入り混じって、ちょっとばかりパニックになりました。
お母さんはボクの首輪に鑑札という鉄の小さな札を付けて、リードを外しました。そして、ボクに向かって『ごめんね、ごめんね』と言いました。ほかのみんなも、『ごめんね、 ごめんね』と言いました。他にも何か言っていましたが、ボクにはよく解らなかったので、 みんなの顔をクンクンしたりペロペロしたら、しょっぱい味がしました。それで、いつものようにゴハンを山盛りと水をいっぱい準備していたので、ああ、またお留守番かと思って、どうしようもなく寂しい気持ちになりました。
夜を待って、みんながクルマに乗って行ってしまったあと、ボクはしばらくポカンとしていましたが、ほとんど無意識に、クルマが走っていった方向に向かって、走り出してい ました。
みんなを乗せたクルマの姿はもう見えなくなっていましたが、ボクの気持ちはすでにみんなに追いつくことでいっぱいでした。途中、もしかしたらと思い、キンカ山とカケの森 に行ってみましたが、人間の気配はなく、ボクは怖くなってまた元の道に戻りました。リ ードなしで走ったりするのは、おウチの畑で慣れていましたが、こんな夜にひとりで道を走ったり歩いたりするのは経験がありません。歩いているうちに、ボクは自分がどこにいるのかさえ、よくわからなくなりました。
あたりは月明かりだけで、ボクの不安はどんどん大きくなってきます。もちろん、今までおウチの外で一人の夜を過ごすことなんてなかったし、暗い夜道で、なんだかイラつい ていて怖い顔をして歩いているノーリードの犬と遭遇することも、もちろんなかったです。 そんな犬とも何匹か会って、お尻の匂いは挨拶ですので嗅がせてもらいますけど、ボクは 昔から基本的に平和主義なので、争いに発展しそうな雰囲気を察知したら、ボクの方から さっさと謝るようにして退散しました。
そんなことよりも、ボクはすこしでも早くみんなに追いついて、またガシガシしてもらったりナデナデしてもらう事のほうが大事だったんです。だから、途中、10 匹ほどの群れを作って歩いていた犬の集団に出会ったときも、群れのリーダーから『お前も仲間に加わ れ』と言われましたが、丁重にお断りして先を急ぐことにしたんです。今思えば、あの群れのリーダーもその仲間も、表面上は強がってはいたけど、じつはみんな不安そうな、怯えたような目をしていました。だからきっと、仲間を集めてみんなで一緒に歩いていたん だろうと思いますね。元気にしてるのかな、あの犬たち。
とにかく、ボクは夜通し歩き続けました。さすがに、お腹が減ってきます。こんなことなら、たくさんあったゴハンを食べてくればよかったんですが、おウチに居た時には、ぜんぜん食欲が湧かなかったんだから、しょうがないです。
そうして歩いているうちに、ボクは、いままで嗅いだことがない、なんだかグチャグチらャにいろんな物が入り混じったようなニオイがするところに来てしまいました。すごく気 になったので、しばらくニオイを嗅いで回りましたが、グシュンとくしゃみをしたらハッ と思い直し、先を急ぐことにして、また歩き始めました。
そのうち、空がだんだん明るくなってきました。辺りの様子が、ニオイだけではなく、 目で見える情報でもわかってきます。ボクの周りに広がっていたのは、いままで見たこと がないような風景でした。木の破片とか、ぐちゃぐちゃに潰れたクルマとか、折れ曲がっ た道路の標識とか、冷蔵庫とか、コンクリートの塊とか、屋根のカワラとか、とにかくいろんな物が壊れて、つぶれて、ひしゃげた状態で辺り一面に散らばってたり、積み上がっ てたりしていました。ボクは歩き続きで喉が渇いていたので、水たまりの水を飲もうとし たんですが、しょっぱくてとても飲めたモノではなかったです。
ボクはなんだか、またすごく不安になりました。空には、大きな鳥がたくさんグルグル 回っていて、なにか地上の獲物を狙っているみたいでした。げんに、倒れて動かなくなっ ていた牛さんの上には、たくさんの怖い鳥が乗っかって突っついていました。ボクは直感 的に、このあたりを歩くのは危ないなと思い、眠いし疲れてたけど走ってこの場から離れ ることにしました。
街に戻っても、歩いている人間の気配はないし、ときどきすれ違う犬たちも、いつもの お散歩で出会う感じじゃないし、ボクはどうしていいかわからなくなりました。お店のガ ラスに映ったボクの姿は、なんだか別人みたいになっていました。あ、正確には別人じゃ なくて別犬ですけど。ボクのチャームポイントのひとつだった真っ白でフワフワだった毛 は、泥で汚れて茶色くなって、なんだか身体も貧相になった感じがしました。
ときどき道を通るのはパトカーか、あまり見かけたことがない形の、草色に塗られたト ラックばかり。もしかして、このトラックが行くところにみんなが居るのかもしれない、と思って、力を振り絞って追いかけてみたけど、すぐにブイーっと行ってしまって、ボク はそのたびに悲しい気持ちになりました。
ちょっと横道にそれて畑のなかを歩いていたら、どこからともなく人間のおじさんが出 てきました。ボクは、久しぶりに出会った人間だったので、近寄ろうとしたんですね。ボ クは人間に対しては、基本的にフレンドリーなスタンスを取ってますので。
でも、そしたらそのおじさん、手に持っていたゴルフクラブを振り上げて、すごい剣幕 で怒りながら、ブンブンそのゴルフクラブを振り回して走ってくるんです。ボクは、うわ ーって逃げました。どうして怒ってるんだか、その時はよくわからなかったんですけど、 後で聞いたら、ケーカイクイキのなかでも、避難をしないで、作物を食い荒らす野犬から 自分の畑を守っている人が何人かいたみたいです。ボクはお腹はすいてたけど、食欲はな かったから、作物を食い荒らすとかそんなつもりなかったんですけどね。畑はボクのウチ にもあったし。ほんとうに怖かったです。まあ、でも、しょうがないですよね。みんな気 が立っていたんだと思います。
ボクは、ときどきすれ違う犬の群れからの誘いを断ったり、トラックを追いかけたり、 アスファルトやら畑やらをトコトコ歩き回ったり、ときどき座って休んだりを繰り返しな がら、みんなを探しました。だんだん、考える力がなくなってきて、ボクはなんでこんな ところを歩いているのかも、正直分かんなくなってきました。
ボクは次の日も、その次の日も歩き続けました。草の上に横になってみましたが、あま りよく眠れませんでした。なぜなら、気が立っている犬が、ボクに噛み付く勢いで追いか けてきたことがあったからです。ボクは、水たまりの水だけを飲んで、さみしくて、悲し い気持ちのまま、それからさらに2日間も歩き回りました。
4月1日、ボクはどうやら、原町区のあたりに居たらしいです。小高のおウチから、直 線距離でだいたい10キロくらい離れていたそうです。ボクの不安はとっくにピークを過 ぎ、からだの震えが止まりませんでした。見るもの、聞くもの、嗅ぐものすべてが、ぐち ゃぐちゃになって、訳がわからなくなっていました。おなかがすいていたことも、眠いの も、足の疲れも、なんだか、すべての感覚がなくなったみたいでした。すれ違う牛さんの 集団が、ボクになにやら声をかけてくれたと思うんだけど、まったく無視してしまうほど でした。どうしたかな、あの牛さんたち。悪いことしたな。
そんな感じでしばらくアテもなく歩いていると、遠くに犬の群れがいて、その近くにク ルマが止まっているのが見えました。人の姿も見えます。もしかしたら、ボクの家族のことを知ってるかもしれないと思って、そーっと近づいてみました。
クルマの人は、ボクを見つけると、『大丈夫だよ、怖くないよ』と言いました。ボクは、ゴルフクラブを持ったおじさんに畑で追いかけられた苦い経験があるので、ちょっと構え ましたが、元来のフレンドリーなスタンスが身についていますから、訳わかんない状態で はあったんだけど、ボクはその人に自分から近づくことにしたんです。
ボクは、その人のクルマの荷台にたくさんあったケージに入れられました。わりとすん なり入ったと思います。ボクの他にも、ケージに入れられている犬がたくさんいました。 ボクはまた怖くなり、ケージの中でブルブル震えていました。ほかのみんなも、怖くてず っとワンワン吠え続けてたり、狭いケージの中をクルクル回ったりして、落ち着かない様 子でした。
どのくらいクルマで移動したでしょう。これもあとで聞いた話ですが、ボクをクルマに 乗せた人は、動物保護団体というグループの人だったみたいです。ボクみたいに、家族と 離れ離れになったペットたちを一旦預かり、家族を探してくれるんだそうです。ボクは、 その人が用意してくれたゴハンを食べ、シャンプーをしてもらいました。おウチでみんな を待っていた時は、あんまり食欲がなかったのですが、このときはガツガツ食べてしまい ました。このときは実感なかったんですけど、こうしてボクは命を助けられたんです。
4月2日、ボクはチョビという犬と一緒にまたクルマに乗せられ、しばらく移動しまし た。そこが動物病院だということは、匂いでわかりました。なんでも、神奈川県の伊勢原 というとこらしいです。ここは、家族が見つかるまでボクたちを泊めてくれるのだそうで す。
ボクは動物病院の院長先生に、ひととおり身体検査を受けましたが、幸いボクは怖い病 気にはかかっていないみたいでした。ホーシャノーっていう病気にもかかってなかったみ たいです。ボクは、ホーシャノーっていうものが何なのか、いまいち詳しくはわかりませ ん。でも、とても怖い、動物に悪いものだということは、グラグラの次の日に、まっ暗の 家の中でみんなで話をしたとき、みんなが言っていたのは知っています。じっさい、ニオ イがしたり音がしたりすれば、ボクにもちゃんとわかるんですけどね。どうやら、ボクた ちが住んでいた小高には、その怖いホーシャノーがたくさんあるかもしれないから、立ち 入り禁止にして避難しなくちゃいけなかったみたいです。
ボクのからだが大丈夫ってわかっても、ボクの気持ちはまだ、不安で訳がわからない感 じが続いていました。でも、一緒にいたチョビは性格の明るいやつで、オレはもう怖い想 いをしなくていいんだ、ははは、わんわん、って意外と早く切り替えていたみたいで、な んだか元気そうでしたが。
それから 1 ヶ月くらい、ボクはこの動物病院で過ごしました。院長先生や病院の人たち は、ボクにもチョビにも、とても親切にしてくれました。ボクは相変わらず不安な感じが 続いていたし、家族のみんなのことを思い出すたび、震えが止まらなくなったりしました。あのぐちゃぐちゃのなかを歩いた記憶がよみがえり、病院の前をトラックが通ると、つい 追いかけてしまって、あわてて院長先生がつかまえて、抱きしめて落ち着かせてくれたり しました。なんとなくみんなが迎えに来てくれる気がして、目を凝らして一日中遠くの方 を見ていて、病院のみんなに心配をかけてしまったりしましたが、食欲は出てきて、体重 も元通りに戻ってきました。ただ、おしっこやウンチは、なかなか出なかったですね。時 には2~3日出なかったんじゃないでしょうかね。ほら、ボクって田舎暮らしだったでし ょ。都会の神奈川の空気があんまり慣れなかったっていうのもあったのかもしれないです ね。それでも、動物病院のみんなは、ボクのことを見捨てず、一生懸命気にかけてくれま した。
こんなふうに、院長先生や病院のみんながボクを気にかけてくれたので、ボクは少しづ つではあるけど、だんだん気持ちが落ち着いてきたんです。
ボクが神奈川の病院でそんなふうに過ごしているとき、原町でボクを助けてくれた保護 団体の人たちは、一生懸命ぼくの家族を探してくれてました。ボクの首輪についていた鑑 札のおかげで、ボクが小高のシロっていう犬で、家族の名前もすぐにわかったそうですが、 南相馬の役所に聞いても、まあ、混乱してたんでしょうね、家族が長野にいることまでは わからなかったみたいです。もちろん、インターネットにも載せて、情報を公開して、い つでもボクの家族から連絡がきても対応できるようにしてたみたいです。
もちろんボクの家族も、一生懸命ボクを探してくれていました。3 月 25 日の夜、こっそ り小高を脱出したボクの家族は、川俣町というところで、ホーシャノーの検査を受け、問 題ないことが確認できて、長野県の下諏訪に向かいました。
お母さんがむかし研修した病院の女子寮に、とくべつに入れるようになったボクの家族 は、ボクが見つかった時にボクを預けてもらえる人を探しました。病院の院長さんも、一 生懸命手伝ってくれたみたいです。
このころ、ユージの友達が2人、グラグラの日に海で亡くなってしまったことがわかり ました。3月11日、ユージが通う学校では卒業式で、亡くなった二人は思い出を作ろう ってことで式が終わったあと、海岸のほうに行ったみたいです。2人のおウチは、本当は 海岸からだいぶ離れたところにあるのに。ユージは、すごくショックを受けて、なんにも しゃべらなくなっちゃったみたいです。こんなこともあって、しかもボクとも離れ離れだ から、おウチのなかの雰囲気は、このころとっても暗い感じだったみたいです。
だからおばあちゃんは、近くのインターネットカフェに毎日行き、慣れないパソコンを 使ってボクの情報を探しました。インターネットカフェの店長さんに事情をお話しすると、 店長さんも一生懸命手伝って探してくれたみたいです。ありがたいことですよね。わん。
4月28日、おばあちゃんはいつものように、インターネットカフェに行きました。こ の日もカフェの店長さんが、ボクの情報を探すのを手伝ってくれました。店長さんがパソ コンの画面をしばらくめくっていたのを、おばあちゃんが止めました。なぜなら、パソコ ンの画面に映し出されたのは、ドロで汚れて、痩せてヨレヨレの白い毛の犬だったからで す。じっと画面を見つめていたおばあちゃんは、
『まちがいない!これはシロだ!!シロです!!』 静かなカフェの中で、大声で叫んでしまったみたいです。おっちょこちょいですね。でも、 店長さんやカフェの店員さんは、おばあちゃんを注意しないで、いっしょになって拍手し て喜んでくれたそうです。うれしくて、うれしくて、仕方なかったって、おばあちゃんは そのときを思い出して言いいます。
すぐにおばあちゃんは、そこに書いてあったところに問い合わせのメールをして、返信 を待ちました。返信が来るまで、2日くらいかかったそうですが、ボクの家族は1年くら い待った感じだって言ってました。
そのあいだ、婦長さんが一生懸命ボクを預かってくれる人を探したら、女子寮の近くに 住んでいるミウラさんという人が、『預かってもいいよ。』と言ってくれました。
5月8日、ボクは動物病院の院長先生と一緒に、長野の下諏訪に向かいました。動物病 院のみんなは、『よかったね。よかったね。』と言ってボク達を送ってくれました。事情が いまいちよくわからなかったボクは、1か月前、原町からここに来るまでのクルマの移動 を思い出しちゃったんです。ちょっとナーバスになっていたんですかね、あまり感謝のき もちを伝えられなかったと、いまではちょっと後悔してます。ホントは、ボクはそのへん のお行儀はいいほうなんですよ。こうやって前足を揃えて、ありがとうっていえばよかっ たな。1ヶ月一緒に暮らしたチョビが、ちょっと寂しそうな顔でボクをみていたのも少し 気になりましたが、とにかくボクたちは、長野に向かったんです。
クルマから降りたボクは、なんとなく小高と似たところだなあ、と思ってクンクン空気 の匂いを嗅いでいました。院長先生は、ボクにここで待っているように言ってから、建物 の中に入っていきました。しばらくして院長先生が連れてきたのは、ボクがあれほど会い たかった、探し続けた、ボクの家族だったんです!
あんまり突然のことで、ボクはすぐに信じられなくって、ちょっとぼーっとしちゃいま した。でもすぐに、『お母さん!おばあちゃん!ユージ!』と叫びながら3人のところに駆 け寄っていきました。
ボクは、『どこ行ってたの?みんないなくなって、すごく怖かったんだよ。みんなのこと、 一生懸命探したんだよ!』と言いながらぴょんぴょんしました。家族のみんなは代わる代わる、『ごめんね。ごめんね。』とか『怖い思いさせたね』といってボクをめちゃくちゃに ガシガシしたり抱きしめたりしました。ボクは、どれほどこの時を待っていたことでしょ うか。嬉しくて、嬉しくて、いつまでもいつまでも、3人に甘えていました。一緒に来て くれた院長先生も、ずっと笑って、すこし泣いていました。
暗やみの中、みんなと小高のおウチで別れてから、44日目の再会でした。ふさぎ込ん でいたユージも、やっと笑ってくれたようです。暗かった3人の雰囲気も、ボクと会えて 明るさが戻ってきたみたいでした。
ボクが預けられることになったのは、畑のあるおウチで、なんとなく小高のおウチに少 し雰囲気が似ていました。家族も、毎日会いに来てくれました。一緒には住めないけど、 今までよりはぜんぜんマシですよね。預かってくれたミウラさんも、とっても良くしてく れました。
6月に入り、カセツの申し込みが始まりました。お母さんとおばあちゃんは、すぐにペ ット可のカセツの申し込みをしましたが、身体の弱い人や赤ちゃんのいる人たちが優先だ ったので、2回ダメだったあと、3回目でようやく決まりました。
8月13日、ボクたちは半年ぶりに一緒に暮らすために、南相馬に帰ってきました。小 高から、クルマで2~30分のところです。4畳半二間の小さなカセツは、50坪あった 小高のおウチよりはぜんぜん小さいし不便だけど、おばあちゃんは、『シロと暮らせて気持 ちがだいぶ楽になった』って喜んでます。心臓の調子も、少し落ち着いたみたいです。お 母さんは、助産婦さんのお仕事は人出が足りないらしくて、毎日がんばって働いてます。 ユージは、インフルエンザにかかったりしてボクを心配させたりしたけど、元気に学校に 行ってます。
ボクも、200坪の畑で走り回ったり、キレイな芝生のお庭で遊んだり、キンカ山やカ ケの森でお散歩したりはできないけど、カセツにはたくさんボクとおんなじような経験を したお友だちがたくさんいて、みんなとお話ししたり、玄関先で日なたぼっこしたりして、 毎日過ごしてます。
でもね、やっぱり自分のおウチじゃないし、おとなりさんはすっごい近くて、みんなに気を使わなきゃいけないから、タイヘンなことはたくさんなんです。簡単なつくりのおウ チだから、たとえば、寒くなってくると床のしたの結露がひどくて、敷ふとんがビチョビ チョになったりします。ペットと暮らせるようになっても、ボクみたいにお行儀が良い犬 は、人気者なんで、みんなが頭をナデナデしてくれるけど、へへ、自慢ですけどね、でもそうじゃない、ずっと怒ってたりイライラしてたりする犬もいるもんで、そういう犬の家 族は、けっこう大変だと思います。
ボクがこの一年間に経験したことは、だいたいこんな感じです。ちなみに動物病院で一 緒だったチョビは、7月にやっと家族がわかったみたいだけど、家族がアパート暮らしの ためにボクみたいに一緒には暮らせてないみたいです。近くの人に預かってもらってるっ て言ってました。そう考えると、ボクは運が良い犬だったんですね。聞いた話しでは、いまでも家族が見つかっていない犬がたくさんいるみたいです。みんなはやく、元通りにな るといいのに。なんでも、ボクたちのホントのおウチがあった小高は、この先30年住ん じゃいけないなんてウワサもあります。こないだ、お母さんたちは一時帰宅っていって、 少しだけ小高のおウチに帰れたんだけど、トイレはカビだらけだし、キレイに芝生が生え ていたお庭も、草だらけで悲しかったって言ってました。
でも、ボクの夢は、またあのおウチで、暮らしたいんですよね。だって、100年住宅 なのに、10年しか住んでないんだから。あと90年、とはいかないけど、せめてボクが 生きているあいだにまた、もう一回、あの畑で、あの空の下で、思いっきり走りたいなっ て、思ってます。それまでは、狭いおウチだけど、みんなで我慢しようと思ってます。わんわん。
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