カナダからガラパゴス日本を見つめた時
EPILOGUE
忙殺されてる今日この頃、ふと初心に帰りたくなった。
データを探したら面白いものが出てきたのでここで共有したいと思う。
以下は私が大学に提出した太古昔の留学志望理由書である。
ーこれまで何かと、新しいものを創りそれを他者に伝えるという営為に漠然と惹かれ続けてきた。5歳から続けているバイオリン、中高時代の英語演劇部でのオリジナル脚本の執筆、そして企画制作。いつしか、将来は世界を舞台に新しいものを生み出す表現者になりたいと思うようになった。
しかし世界に通用する表現者になる上で私に圧倒的に足りないものがある。異質なものに日常的にふれ、母国日本を世界の視点から見つめる体験である。
以前、東京駅でムスリムの祈祷室を見た。駅構内の雑踏の中、跪き祈る人々の姿から思わず目を逸らせてしまった。ダイバーシティインクルージョンという言葉が社会に溢れ、多様な価値観を認めようとする動きがあるが時流を文字上で理解するだけでは想像から外れた事象を心から受容できるようにはならないと悟った瞬間であった。
日本はいわばガラパゴスだ。海で他国と隔離された日本は独自の進化を遂げたが、欧州や北米では歴史的に他国の干渉が当たり前のように起こり、多様な文化が接触、対立、融合を忙しなく繰り返すモザイク状の地域となった。この歴史を踏まえて私は一つの仮説を立てた。
「他国の干渉を受けてきた歴史の名残が未だにあるのならば、民族の境界が曖昧な欧州や北米に住む人々は異質なものを受容した上でアイデンティティを確立させる方法を知っているのかもしれない」
もしこの仮説が正しければそのアイデンティティは社会、政治、文化にどのような形で表出しているのだろうか。私は異国の地で人文科学、社会学、政治学など教養を学ぶことでこの仮説の検証を行いたい。そしてこの過程の中で全く未知の異文化を“知る”という行為は新しいものを生み出す“ものづくり”の基盤となるメタ知識の獲得に大いに役立つだろう。
人は今まで見聞きしてきたものからでしか何かを創ることはできない。決して、創造力というのは、先天的に存在する才能によって左右されるものではない。無数の良質な芸術作品や教養に触れ、メタ知識を得ることで研ぎ澄まされていくものだ。しかしインプットされたメタ知識は放っておくと忘却の彼方に追いやられてしまう。腹の中に溜まった美しい言葉、思想というのは、自問自答を通し言語化されて初めて消化または昇華される。私は芸術に溢れた異国の地で、教養のシャワーを浴びて、ひとり静かに脳に汗をかきたいのだ。そして、内省的な時間で得られた考えを自分の胸の内にしまっておくのではなく、それを自らの言葉で言語化し、他の生徒たちと討論することで洗練されたクリエイティビティの素を獲得したい。
この留学を通して得た知を今後の羅針盤にした上で未来の表現者に一歩近づきたい。ー
QUESTION
ふむ。そういやこんなこと書いてたな、アタシ。
余裕で忘れてた笑笑
それにしてもカナダから見た日本ってなんやろな。
私の仮説ってあってるんやろか。
先述されているように今胸の中にある言葉は言語化されなければ忘却の彼方にいってしまうのは自明である。
正直言って学術的な仮説の検証はまだできていない笑笑
てか一生無理かも笑笑
だが、友人との会話のなかで考えることがあったので、現時点の自分なりの見解を忘れぬようにここに記録しておこうと思う。
SECTION 1
まずカナダのブリティッシュコロンビア州におりたって感じたこと。
とにかくアジア人が多い。
スーパー、屋台に行ってもたくさんのアジアンフードが提供されていて
Awwwww, I miss Japanese fooooood !!!!となることはあまりない。
アジア人を見かけると同じ留学生かと思って話しかけてしまう。
しかし彼らの大半は実質カナダ人であることに気が付く。
彼らの両親がアジア人なだけで生まれも育ちもカナダという人が多い。やはり英語を母国語にしない人どうしの会話の方が落ち着くのだが、それを期待してアジア人に話しかけると、スラングだらけのネイティブ会話に圧倒されてるのがオチだ。
つまりアジア人の見た目をしていてもアイデンティティはカナダにある人が案外、多いのだ。
自分の見た目と心の国籍の不一致は自分のオリジンに対する好奇心を掻き立てるようで、彼らの会話にはかなりの頻度でアイデンティティの内容が出てくる。
特にハーフの子にそういう人が多いような印象だ。
例えば、彼ら中には
Are you Wasian?
という質問をしてくる人がいる。
Wasian= White + Asian
ウェイジアンとは白人とアジア人のハーフという意味らしい。
ある一人の友達は他の初対面の子たちにも同じ質問をしていた。
しかも第一声が毎回それ。
なんでいつもその質問をするの?と聞いたら
彼はちょっと言いずらそうに
高校ではwasianは僕一人だったんだ。と小声で答えた。
考えすぎかもしれないが、私の不躾な質問が彼の中のアイデンティティに対する葛藤に要らぬ刺激を与えてしまったかもしれないと思った。反省。
移民国家で多様性に溢れているからこそ国籍など気にしないのがカナダ人だと思ったが、多文化で周りに異質なもので溢れているからこそ、自分のアイデンティティが他者のそれと相対化されやすく、自己に対する意識が強まるのかもしれない。
それに対して日本はどうだろう。
まずそもそも日本の一般的な大学生がアイデンティティについて話す場面なんて見たことがない。
彼らの多くは見た目と心のアイデンティティが一致しているからだ。そして周りと同じだからこそ日本人であることが特別なことだとは思わないし、自分を取り巻く文化、環境にありがたみを感じることが少ない。
でもカナダに来て特に思うのは
日本って特異な文化を育てることに成功した類稀な国だということ。本当に素敵な国だということ。
日本の凄さに私たちが一番気づかなければならないのに気づけないというのは本当に皮肉な話だと思う。
現地の友達の多くが、
カナダはすぐ飽きるけど日本は本当にいろんな場所があって文化があって一生あってもまわり切れないくらいだよ。
と口を揃えていう。
カナダはいろんな文化の集合体であるがそこに特有さというのはない。
なぜならどんな人種の人も暮らしやすいようにある程度、大衆化しなければならないからだ。
それに対して日本はクセつよ独特のジャングル、ガラパゴスだ。
そんなガラパゴスに夢中になる外国人にオタク気質な人が多いのは、やはり日本自体が引きこもりオタク的な性質を持つからだと思う。
部屋から一歩も出ず自分だけの世界観にどっぷり浸かる典型的なオタクの姿と、他国からの干渉を受けず独自の文化を育てることができたガラパゴス日本がピッタリ一致して見えるのは私だけだろうか。
いつの時代もパイオニアはオタクだった。
でも日本が世界のパイオニアになるためには日本人自身が母国の文化の特異性を海外の視点から再確認し、それを誇りを持って発信していくことが必要だ。
SECTION 2
またこんなことがあった。
What is your type?
と唐突に聞かれた時のことだ。
好きなタイプって私にとって一番言語化しづらい質問なので、
あなたは?とすかさず他の人に話を振る。
するとAちゃんは
こいつは白人の女子しか好きになれないんだってよ。意味わかんない。
と言ってある男の子を指差した。
なんたるracist.
思ってても言うなよ。
この男子、なんか無理。
とドンびいてしまい、白い目で見てしまった。
(本当にごめんなさい)
しかしその子の反応は案外サラッとしてて
あーそうなんよね、俺。
とあっさり認めていた。
あまりの潔い回答に肩透かしをくらった。
話をもっと聞いてみると結構普通に
I will never date with an Asian guyって言う女子も高校にいたらしい。
人種差別やん。ぽりてぃかりーいんこれくと発言やん。と驚きが隠せない私だったが、彼らは人それぞれ恋愛対象となる人種があること、そしてそれを公言することに対して、過剰に反応するわけでもなく寧ろそれをごく自然なこととして受容していた。
よく考えてみれば、自分にだって見た目の好みは多少あるし、人種によってありかなしか無意識に判断しているところはある。単に私は人種差別だと周りに非難されたくないからそれを隠していただけに過ぎない。
”ダイバーシティインクルージョンという言葉が社会に溢れ、多様な価値観を認めようとする動きがあるが時流を文字上で理解するだけでは想像から外れた事象を心から受容できるようにはならない”
(先程の留学志望理由書より)
過去の自分から見事に大ブーメラン食らいました。
日本は何でもかんでも蓋をして綺麗な言葉で片付けようとする。しかしどんなに世間体の良い言葉で誤魔化しても人間の心理の奥底にある差別的な目というのは永遠に消えない。だからこそ異質なものを”理解”することは諦めて”受け入れる”努力が肝心なのだ。
人種の差異がもたらす障壁をあっさり認めちゃう。そこに真の多文化共存の秘訣があるのかもしれないと感じた。
CONCLUSION
section 1, 2の内容を踏まえて最初の話題に戻ろう。
「他国の干渉を受けてきた歴史の名残が未だにあるのならば、民族の境界が曖昧な欧州や北米に住む人々は異質なものを受容した上でアイデンティティを確立させる方法を知っているのかもしれない」
この仮説は正しかったのか。
私は半分会ってて半分間違っていると思う。
異質なものを受容する方法は知っているがアイデンティティを確立させることに苦戦しているのがカナダという国なのかもしれない。
そんなカナダからしたら
素晴らしい文化、アイデンティティを持っているのにそれに気づけていない、そして異質なものに対して寛容であるのは言葉上だけで実際は不寛容な日本はちょっぴり勿体無い国なのかもしれない。
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