動物問題連続座談会第1回 動物から考える社会運動②動物問題の語られ方——『いのちへの礼儀』をめぐって
『いのちへの礼儀』の重要性
——(司会:関)では、先ほどから話に出ている生田さんの『いのちへの礼儀』について話していきたいと思います。
わたしは一年前くらいにレナさんと支援-被支援の関係になって、支援の対象であるレナさんがヴィーガンである、というところから、ヴィーガンについてや、広く動物の問題についての情報を学んでいく・・・というより、ヴィーガンカフェに行っておしゃべりするという感じで、レナさんと一緒に過ごす中でなんとなくヴィーガンの人々の雰囲気を感じてきたんですけど、今回この座談会に臨むにあたって、生田さんの『いのちへの礼儀』を読ませていただきました。今まで解像度がぼやーっとしていたものが全部クリアになっていって、引用文献の量からもわかるようにすさまじい情報量で。
わたしは普段現代アート界隈にいるんですけど、みんなヴィーガンに対する当たりはなぜか強いんですよね。いろんな思い込みとか偏見があって。「逆に動物と人間を分けてるのはあの人たちじゃないか?」みたいなすごく抽象的な問いをしかけてくる。わたしは「でもカフェとかめっちゃいいよ」みたいな感じの会話しかできなかったんですけど、そういうヴィーガンとか畜産に対するいろんな偏見や思い込みに対して、「いやでもね」と言えるようなことが全部網羅されていて本当に勉強になりました。
深沢 わたしは2018年から特に畜産の問題に関心を持つようになって、動物関連本を読み漁っていたんですけけど、あらゆる問題を包含して語られている総合的な動物論、とくに評論というものは、生田さんの本が出るまで日本に存在しなかったんじゃないかなという気がします。
関さんもアート界隈のこと話してましたけど、日本だと文学業界でも動物問題やってる人が全然いないんですよね。森達也が『いのちの食べかた』という本を書いてて、屠殺の差別問題については書いているんですけど、そこでもやっぱり「肉を食べることは必要だ」「わたしたちは動物を殺さなくては生きられないのだ」という前提から話を進めてて、わたしにとってはそこがまず疑問だったから雑に感じられてしまう。
でも逆に、動物擁護側の本も、直接的なメッセージが強いものが多かったりするんです。「動物食べるのやめよう」とか「動物のために」みたいな言説が多くて、ボランティアにいっても周りは「迷いのない人」が多かった。結論ありきで進んでいってる感じがして、わたしは詩人でもあるので、プロパガンダ的なものに抵抗があったし、「動物のために」といってしまうことや、動物の気持ちを人間が代弁することに、パターナリスティックなものを感じてしまった。でも、運動してる人からすると、今この瞬間もとてつもない暴力が起こっているから、余計なことを考えないで行動した方が動物たちを効果的に救えるわけですけど、わたしはゆっくり考えながらしか行動できないから、運動の方にいってもなかなかそのもどかしさを共有できる人がいなかったんですよね。
わたしは大学院の修論でアメリカの作家のジョナサン・サフラン・フォアを扱ったんですが、フォアはベジタリアンで、『イーティング・アニマル』というアメリカの工場畜産について書いた本を出していて、フォアはやっぱり丁寧に書いている。でもそれしかないから、わたしはフォアの本を聖書のように心の支えにしてた。そういうなかで2019年に生田さんの本が出されて、「日本にもいた!!!」みたいな(笑)。めちゃくちゃうれしかったです。
尊厳の問題として考える
深沢 しかも生田さんのように、動物の問題に「尊厳の問題なんだ」とまっすぐ答えを出しているものはあまりないんじゃないかなと思います。動物の問題ってそもそも関心持つ人が少ないから、どうしても関心を引くために「温暖化につながるから肉食は悪いんだよ」とか、わたしも運動をやっていると戦略的に言ってしまうところがあるんですけど、それって危ういことでもあって、これはポン・ジュノの『オクジャ』という映画でも描かれてますけど、「じゃあその動物がエコだったら殺していいのか?」というふうになったときに、それだけの根拠だと壊されてしまう。
ピーター・シンガーの「動物は苦しむから」という理由も、痛覚のない動物、たとえば二枚貝には適応されなくなってしまったり、障害者への問題発言もあったりで、限界がある。そこを「尊厳の問題なんだ」とすること、それってある意味では危うくもなりうることを、本当に丁寧に実証して、さまざまな資料や論理を重ねて、その上でその答えを出してきていることの意義は大きいと思いました。
深沢 あと、「尊厳」といった話になってくるとどうしても抽象的な話になってきてしまうとも思うんですが、生田さんは「ペット産業税」とか「工場畜産税」とか、現状を変えるための具体的な策も出されてますよね。この辺が地に足ついている人の感じがするんですよね。動物倫理や哲学の分野だと、田上孝一さんだったり伊勢田哲治さんだったり、いい本もすでに出ていますが、わたしからするとちょっと“上”の方の話に聞こえてしまう。思考実験というか。
生田さんは哲学の議論もしつつ、文学の視点もいれつつ、でもちゃんと現在の工場畜産の問題も網羅して書かれてて、どういう問題が今あるのかということを記録するという面も含んでいるところは、「ああ活動の人だな」とわたしには感じられました。
生田 ありがとうございます。あの本、あんまり批評してもらうことが少ないのでとてもありがたいです。結構長い時間かかった本なんですけど、さきほど言われたように、いっぺんに答えをだすことを目的としたわけではなくて、僕自身が学んで、どういうふうに考えたらいいかということを試行錯誤しながら書いたので、そういった跡が残っていると思うんですね。最初から「肉を食べないほうがいい」とか「工場畜産がよくない」とは決めつけなくて、どういう問題があって、自分たちがどう考えることができるかということを必死に考えてあのような形になったので、そこはある程度説得力ができたのかな、と自分で思います。
あの本を書いたきっかけでいうと、栗田さんがいるから思い出したんですが、もともと『フリーターズフリー』のなかで、3号が「障がい者・動物・子ども」という、今から考えてもすごい並びのテーマを考えていて、そこで第一稿を書いたんですよ。でもそのときは、フリーターズフリーの他のメンバーから、栗田さんも含め、ほぼ完全否定されまして。あれが、2008年くらいかな。僕もみなさんのことを信用してたので、「ああダメなんだ」と思い込んじゃってやめちゃった。でもしばらくしてから読み返したら、「これやる価値あるじゃん」と思ったんです。そのときはもう人の意見に左右されずに自分の信じることだけやらなきゃいけないんだ、と思いましたね。それは不幸なことかもしれないけど、そういった場面も人生において一度か二度はあるんじゃないかと思います。
プロパガンダ的にならなかった一つは、文学作品を入れながら考えていることもあると思います。僕、群像新人賞で評論部門で賞をとって、文芸評論家と言われることもあるんですけど、動物問題について考える時、「悲惨だ」とか「こんなひどい問題が」ということを訴えることももちろん必要なんだけど、ただよくよく考えていくと、人間と動物の関係で、動物と人間が共に解放されて、違う世界を開くということがあるんじゃないか、ということは気づきはじめました。それはもちろんリアルな動物問題でも度々あるんですけど、ある意味、文学がその可能性を広げてきたと思うんです。最初に気づいたのが、フローベールの『3つの物語』だったんだけど、そこから文学を使いながら、ある程度文学的な意匠を扱いながら、動物と人間の可能性を考えていきたかったというのがあります。
動物倫理学と文学の断絶
生田 ただ、一方で、文学者の動物に対する態度はやはりひどいもので、たとえば、谷川俊太郎の『しんでくれた』は本で引用したけど、「豚がハンバーグになってくれた。自分のために死んでくれた。ありがとう」みたいな話で、いやいやそれはないでしょう、と。そもそも「死んでくれた」んじゃなくて、人間が殺したんだろうという話で。こうやって「感謝して食べればいい」というのは一般にもあるけど、文学者がそれにのっちゃってるんですよね。しかも絵本にまでなっている。そういった問題があるなかで、文学者も批判しながら、文学の可能性を開いていくということは必要じゃないかと思いました。
ちなみに、さっき田上さんや伊勢田さんの話が出ましたけど、哲学と文学って非常に深い関係が——それこそプラトンからはじまってずっとあるんだけど、 なぜか動物倫理学の人は文学にまったく触れない。これは不思議なことなんですけど、その限界を打ち破りたいという気持ちもありましたね。
あと尊厳について言うと、やっぱりシンガーの問題は大きかったですね。シンガーは功利主義からくるので、痛みの問題を言うんだけど、最終的に言うのが、たとえば「鶏の脳みそをとって痛みを感じなくすれば、それを大量生産するのは問題ない」とか言っちゃうわけですよ。これはやはり、痛みとか功利主義的の限界で、尊厳という観点を入れないと解けないと思ったんですね。
さらには、人間と動物の関係で言うと、工場畜産と同じような形で人間も自分の尊厳を奪われてしまっている。「家畜化」という言葉もありましたけど、それと並行して考えるには「尊厳」というのが一つのテーマじゃないかと思いました。そこら辺は深沢さんに指摘していただいてありがたかったです。
つぎはぎ的に語る——引用のパッチワーク
深沢 あと、他の本と比べて、語り方も特殊だなと思います。たとえば、生田さんの本には肉食の歴史についてたくさん書いてあるから、これをわかりやすいまとめ記事にしてみようと思ったんです。「日本の肉食の歴史」みたいな。でも語りが直線的じゃないから、まとめるのめっちゃ難しいんですよ(笑)。途中で「間奏」って入ってるし、音楽的というのかな。感覚的な感想になりますけど、声が静かにずっと続いているような感じがする。シンガーは文章を読んでいても「冷たいな」って思う。生田さんの本は、その辺の理性と感情のバランスとかも聞いているのが心地よいというのがあって、一気に読むのは時間がかかって難しいんですけど、こういう語りのものもなかなかなかったんじゃないかと思いました。
生田 なるほど。あとがきでも触れたけど、肉食の歴史のところは柄谷行人の『近代日本文学の起源』を参考にしていて、文学評論的な語り口もやっていると思いますね。そういう意味では、シンガー的に理屈で切っていくタイプではなかったと思います。
栗田 生田さんの本の面白さって、工場畜産の話があったのに突然文学の話にいった、とか、アイヌの文学の話にいった、とか、テーマはひとつなんだけど、引用で「普通そういう話だったらこの本出てこないだろ」という本が出てくるところが、たぶんまとめづらさでもあり、生田さんの本の面白さというか。生田さんが群像新人賞をとった「つぎ合わせの器は、ナイフで切られた果物となりえるか?」もそうだけど、生田さんの本ってつぎはぎ感もあって、「あ、そのテーマにこの布貼るの?」「そのテーマにこの文献引用するの?」みたいなところがあって、それが面白さでもある。
生田さんは、わたしとかにも相談とかしないでやっていこうという話されてたけど、実はときどき、突然「フローベールってさ、オウムの話で」みたいな話をしてきたことがあったんですよ。なんでその話急にするんだろう?と思いながら、はいはい、って聞いてたら、そこにドーンとこの本に出てきて、「あ、これの話してたのか」って思って。あと、内田百閒のノラの話——猫が死んじゃって恋しくなっちゃう話とかがぶっ込まれていく面白さ。ときどきでも、「これちょっと飛んでるんじゃないの?」とか、いろいろそういうツッコミもしたくなるような面白さがある。
生田さんの他の本でも通じるんだけど、『いのちへの礼儀』は、さらに、動物問題が語られてこなかった日本の文脈、あるいは文学なり哲学なり社会運動なりを、つぎはぎのようにつなぐような本かな、という印象はすごくある。だから多少の「えー!?」っていうパッチワークの組み合わせでも、それをやらないと語る土壌が作れないようなところがあるのかな、と思いました。
生田 そんな感じで、栗田さんにはときどき話を振って意見を聞いて、参考にしてたんです。
栗田 ときどき、「鶏がさ」みたいな、メルヴィルの話が突然でてきて、「えらい奇妙な話が文学にもあるんだねえ」と思いながら。世界を見れば、文学者も動物との接点って結構ある。ある種奇怪に見えるけど、人の心を揺さぶるような。そういうのはこれから文学としても課題なんだろうな、と思う。犬猫は多いかもしれないけれど、それ以外の動物って近代文学ではまだ日本に少ないと思うので、動物の声をきいて生まれる文学はあるのかな、という気もする。
生田 木村友祐さんとかが頑張ってるけど、でも少数派っていう感じですね。
栗田 環境問題とアニマルライツをざくっと繋げていいのかという問題はあるけど、でもこれだけ変貌してたら、人間以外の声も聞かなきゃダメなんじゃないか、みたいな、そういう人が出てもおかしくないんじゃないかな、という気はしますね。わたしにはできないので、後の世代に委ねるしかないのかもしれないけど、それはすごく感じます。
→③ 動物運動に対する風当たり
※2023/10/23:一部文章の修正を行いました。