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一杯のかけそば 広島死闘篇 #パルプアドベントカレンダー2022
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太平洋戦争中、広島のこの町は造船と軍艦の寄港地として栄えた。
戦後はGHQの方針により造船産業はそのままに、軍事工業を鉄工業へと転換、より栄えることとなる。
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しかしその急成長はまた、悪しき野望を持つ者、鬱屈した怒りをもて余す若者たちの入り込む空隙を作り出していた。
港町、交通の要所であるこの町に、いくつもの極道、愚連隊ができ、またはぐれ者、流れ者たちが現れる。
彼らは苛烈な戦いを繰り広げ、負けた者は消え、あるいは呑み込まれ、勝った者はより強大になっていった。
戦後の混乱から闘争の時期を経て、この町はいくつかの暴力組織によって掌握されていた。
そのうちのひとつが、
「広島千友組」である。
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初代組長・千田真利の死後、二代目となった栗須益彦による強欲な利権拡大は加速の一途を辿った。
表側は公営ギャンブル、殊に競艇の運営や警備で市議会議員や警察と癒着。
その癒着を保険とした裏側の稼業、「シノギ」もまた、長い腕を伸ばしていく。
その中には初代組長が良しとしなかった「薬物の密輸販売」も含まれていた。
薬物、すなわち麻薬である。
大量に流入した麻薬は徐々に、一般層にまで広がりを見せていく。
この結果、平和な一市民、一家族の幸せが崩壊するという悲劇も、ままあったとされている──
◆◇◆◇◆
これは、広島のある町であった、心あたたまるお話です。
今から何十年前も前の、昭和のある年の暮れ、大晦日の夜のこと。
昨日の晩から降った雪が、家並みを真っ白にしています。
暗い町をトボトボと歩く、三人の影がありました。
真ん中にいるのは背を丸めた女性、年は三十歳ほどでしょうか。
その両の手につないでいるのは、小学校低学年と高学年ほどの男の子です。
女性は小脇に、風呂敷包みを抱えております。
「おかあちゃん、おなかへったよ」
小さい方の子供が言いました。
「そうやねぇ……おなか、減ったねぇ……」
大きい方の子が、
「こらっツトム、おかあちゃんも今、おなか空かせとるんやぞ」
と叱ります。
「いいんよヒロシ……叱らんでやって……」
真ん中の女は、疲れた声で言うのでした。
名前を、広岡正子と言いました。
この三人は、母と子でした。
戦争から無事に帰った夫を不幸な出来事で亡くし、それからは母親の働きでどうにか三人、町の長屋に暮らしているのでした。
母親の職場は、本当であれば数日前に仕事納めなのでしたが、機械の故障で、作業が遅れたのです。
「……これの続き、やってくれるモンはおるかのぅ? 給料にはイロつけるけん。誰か、おらんか?」
その社長の言葉に「はい」と誰よりも先に手をあげたのが、彼女でした。
「広岡さん子供もおるんやけ、あんまり無理したらいかんよ?」
「よっしゃ、わしらも手伝うわ! 終わらせたろや正子ちゃん!」
同僚の男衆の手助けと、不眠不休の頑張りで年内にどうにかなったのですが、終わったのは31日の夜だったのです。
労働者や母子家庭を助けるような国の制度は、まだ整備しきれておりません。
女が二人の子供を食べさせるには、それくらいしなければいけない時代だったのです。
「時代」と言えばもうひとつ、母子を悩ませていることがありました。
夜に帰宅してから正子は、台所の戸棚を開けました。
戸棚はカラでした。
「今日の昼の分で、最後だったんじゃ」と長男のヒロシは言いました。
「家にお金もなかったけん、おかあちゃんを待つしかなかったんよ」
そして正子のサイフにも、運悪くほんのわずかしか残っておりませんでした。
仕事のことで頭がいっぱいで、銀行から下ろすのを忘れてしまっていたのです。
時刻は、夜の10時半過ぎでした。
今のように、深夜まで営業している飲食店はありません。
食材を売るお店も、7時には閉めてしまうような時代です。
大晦日でも、10時を過ぎればシャッターが下りてしまいます。
……明日。元旦に申し訳ないけれども、社長さんに事情を説明して、お給金の前借りを……
それから、表通りまで歩いて、餅や小豆を買う。明日はそれでええ。
今夜。だから今夜をどうにかして、乗り切らんといかん。
正子はそう考えました。
子供たちだけにでも、何か温かいもんを……
サイフにはほんの少しのお金があるきり。
港町はひっそりと、雪の中に沈んでいます。
それでもどこかの店がやっているのではないか、まだ開いているのではないかと祈って、母子は寒い冬の道に出てきたのでした。
洗濯しようと風呂敷に包んできた作業着、それをうっかり小脇に挟んだまま家を出てきていました。
そのくらい疲れておりましたし、「どうしよう、困ったな」と、焦っていました。
正子は自分の吐く息が白いのを見ました。
上着の下には着古したセーターだけ。
ヒロシとツトムも、厚着はしていますが頬が真っ赤です。
……家に帰ろうか。
台所を探せばどうにか、何かしらあるかもしれん。
なければ、長屋の人らに事情を話して……
いや、大晦日に迷惑や……仕事も手伝うてもろて、それはでけん……
一歩、一歩と進むたびに、正子の気持ちは弱気になっていきました。
……あんた。
あんたが生きとってくれたら。
正子の頭に、在りし日の夫の姿がよぎります。
目の端に小さな涙が浮かびます。
……アホやあんた。なんで……
なんでクスリなんかやったんや……
仕事がキツかったんはわかる。
でも……それで死んでしもうたら……
憎いわ。
あんたも憎いが、クスリが憎い。
なんであんなもんが、この町に出回るようになったんじゃ……
正子のからっぽの腹の中が、悲しみから怒りに変わろうとしていた時です。
「あッ、おかあちゃん!」
忍耐強いヒロシが珍しく、大きな声を出しました。
「あそこ、まだ暖簾が下がっとる!」
はっと目を上げれば道の先、ひらけた場所にぽつんと、目を射るような光があります。
店先の暖簾に「そば」とあります。
「そうや……ここに蕎麦屋があったんやわ……よかった……」
白い安堵の息をついて、正子が言いました。
「しかしこの時間に、まだやっとるん……?」
かすめた疑問は、両の手を引く子供ふたりにかき消されました。
「おかあちゃん! おそばたべよ!」
「早う行かんと閉まってまうよ!」
笑顔のふたりを見て一瞬嬉しくなった正子でしたが、心に冷たい風が吹き抜けました。
サイフの中には、ごくわずかしかないのです。
そのお金では、かけそば一杯がせいぜいでしょう。
それでも、子供たちに温かいものを食べさせられる。
私は我慢しよう。
「よかったね! ほれ走らんと、足元には気ぃつけるんよ!」
つとめて明るく、そう言いました。
子供たちの笑顔があれば、私はおなかいっぱいや。
そう自分に言い聞かせながら、雪道を三人で、早足に進んでいきました。
引き戸をカラカラと開けて、正子は暖簾をくぐりました。
テーブルふたつとカウンター席の、小さな蕎麦屋です。
建物の作りも粗末で、柱二本が天井を支えているような様子です。
けれど柱の間には、ダルマのストーブが燃えています。正子はあたたかな空気を感じました。
中に入った正子は、
「あのーすいません、三人……」
と言いかけて、言葉が止まりました。
店内には、客がひとりいました。
テーブル席に足を乗せて、新聞を見ています。
見るからにカタギではない男でした。
厚手のコートを着ています。
しかし全身から発される、人を圧するような雰囲気は隠しきれません。
立てた襟から覗く目は鋭く、こちらを値踏みするような視線です。
男は、店の奥に顔を向けました。
「ご店主さんよぉ、お客さんが来たぜ」
横柄な言葉遣いでしたが、奥から割烹着姿の若い男が出てきました。
正子より年下で、二十歳ほどの青年です。
身を小さくして「いらっしゃい……」と小さく言います。
蕎麦屋には似つかわしくない、元気のなさでした。
「あそこの蕎麦屋、あんまり旨くねぇんだぜ正子ちゃん」
「ボソボソしててな。まぁ盛りがいいのはえぇんじゃが」
「店主がやけに若いんや。とにかく、昼休みに工場から遠く歩いてくような味じゃあねぇで」
休憩中の雑談を、正子は思い出しました。
なので、この店に来るのは今日がはじめてです。味も知りません。
けれど、今はもう、ここしかないし……。
気づけば正子の両脇に、ヒロシとツトムも入ってきています。
ヒロシが後ろ手に、引き戸をピシャリと閉めました。
しばらく、沈黙がありました。
雪の大晦日です。
外には誰もいません。
ダルマのストーブの中で燃える、炎の音だけが響きます。
「あの」
正子は怖くなって、小脇にしていた風呂敷包みを胸に持ってきて、ぎゅうと抱きしめていました。
「三人、なんですが……」
「えぇ、はい」
蚊の鳴くような店主の声です。
正子は壁のメニューに目をやります。
やはり、かけそばひとつしか頼めません。
正子は申し訳なく思いつつも、
「かけそば……一人前なのですが……よろしいでしょうか」
と聞きました。
すると、若い店主の顔がサッと硬くなりました。
「三人で、かけそばイチ、ですか」
「えぇ……」
正子はみじめな気持ちになりました。
左右にいる子供たちの「そば、ひとつなの?」という視線も感じます。
テーブル席にいるヤクザ者の目つきも、先ほどより厳しいものに思えました。
きっとみんな、私にお金がないことに、驚いとるんやろな。
店主は驚きというより、うろたえていました。
紙切れを出して、広げます。
何事か呟いたかと思うと、「す、すいません」と言い残して、店の奥へと引っ込みました。
母子は事情が呑み込めないまま、しばらく立ち尽くしていました。
店の奥、調理場の隅には椅子があり、そこにも恐ろしげな男が足を組んで座っていました。
すぐ脇に具材があるのに、タバコをふかしています。大きなサングラスをかけています。
「山田さん」と若い店主は男に声をかけます。
「おぅ、どうしたんなら」
くわえタバコを歯でぐい、と持ち上げて、男は言います。
「これに当てはまる客が、来たんですけれど……」
店主は紙切れを差し出しました。
【 31 夜11/三 カケ1 】
男は立ち上がって店主の頭を叩きました。
「ボケ。来たとさっさと言わんかい」
「でも、あの」
「なんじゃ。日付に時間、人数、それに注文の符丁……いつも通り、向こうさんの符丁じゃろうが。おぅ?」
「あの、母親と子供ふたりなんです……」
言われて男は「母親? 子供?」と繰り返しました。
数回アゴを撫でてから、「ははぁん、なるほどのぅ」と呟きました。
「向こうも考えたもんじゃ。カカァとガキを運び屋にするとはのう」
「は、運び屋?」
「ほうよ。最近は町のポリの目ェも厳しくなっとるやろがい。ほんな中をお前、スジモンがブツ持ってノコノコ歩くんは危ないわ」
「でも、親子ですよ?」
「服、見たか。貧乏そうな親子やったろ?」
「服装は確かに……。あと、疲れていて、背中を丸めてて」
「ほぅれ言うた通りじゃ。貧乏人に銭やって、ひと脅ししといて、コレを運べ、言うてやらせるんじゃ」
男は灰皿にタバコを押しつけました。
「ポリを混乱さすために、運び屋が何人かででリレーしたりもするそうや。イタリヤの手口やと組長が言うてたわ。でぇ、荷物は?」
「風呂敷をひとつ、大事そうに胸に」
「チッ、ほやったらどう考えても間違いないじゃろが。このボケ」
男は紙切れをひったくり、店主の目の前に突き出します。
「31日、夜11時、三人、かけそばイチ。ビッタシじゃろうが。おう? まず第一によ!」
また店主の頭を叩きます。
「かけそばひとつで! 三人分の! メシがなんかしら! 買えるわい! 東京モンには! 脳ミソがないんか! このクソボケ!」
言葉の切れ目ごとに叩きます。
「カカァとガキが! かけそばひとつ! 喰うために! 大晦日の晩に! こがいな寒い中をほっつき歩くわけ! なかろうが! ダボが!」
店主は叩かれながら、すいません、すいませんと謝るばかりです。
「ほしたらワシが荷物の確認するけぇ。おどれは茶ァでも淹れろや。デカいヤマの運び屋さんじゃ。オマケにかけそばでも作ったれ!」
男は足元にあった書類鞄を持つと、店内へと歩いていきました。
「よぉう! 寒いところをご苦労じゃったのう!」
店の奥から出てきた男を見て、正子はぞくりとしました。
サングラスをかけています。
こちらも、カタギには見えません。
それがサラリーマンが持つような四角い鞄を持って、ニヤニヤ笑いながら、早足にやって来るのです。
「まぁまぁ、上着脱いで座らんかい。坊主らはほれ、あっちであったまれや。おうお前!」
コートの男を指さします。
「座っとらんで奥、手伝ったれ! あのダボが茶ァ入れてソバ茹でとるわい!」
コートの男はへい、と新聞を置いて、奥へと向かいました。
上着を脱がされて座ったテーブル席、そのはす向かいに、男は座ります。
子供たちも引きずってきた椅子に座り、ストーブに当たりつつも不安そうな顔をしています。
「大晦日の雪道じゃ、大変じゃったろう。ワシらもちぃと心配してたが、着いてよかったわい」
「はぁ……どうも……」
「しかし向こうも考えたもんじゃ。あんたらみたいなのに運ばせるとは……ま、それはえぇわい。ほしたら先に、」
男はドン、とテーブルに鞄を置きました。
「お互いに、ブツの確認じゃ」
確認? と聞く前に正子の手から、風呂敷包みが抜き取られました。
「あ」
代わりに正子の目の前に、四角い鞄が滑ってきます。
「使い古しの風呂敷に包むとはよう考えたもんじゃ。おっ、こらぁえらく、固ァく結んであるよってに……」
正子の口から「何かの間違いでは」という言葉は、出てきませんでした。
呟きながら結び目と格闘している男のそばで、正子はなぜか自分の芯が震えていることに気づきました。
何が起きているのはわかりません。
しかし、何かが繋がりかけている、という気がするのです。
あと幾つか、ひとつかふたつ明るみに出たら。
自分にとって重大な意味を持つことがわかる。
そんな気がしてならないのです。
そのうちのひとつが、この四角い鞄の中にあると、そう思えるのです。
震える手で、正子は鞄の留め金を触りました。
ピン、と小気味良い音を立てて、鞄は簡単に開きました。
鞄には、札束がぎっしりと詰まっていました。
お金。
正子は首の後ろが冷たくなるのを感じます。
ひとつ、手に取りました。
手か信じられないくらい震えていたので、めくる必要はありませんでした。
全部が全部、本物の紙幣なのが見てとれました。
なんぼ?
なんぼあるんや。
これは、何のお金?
「あァ? なんならこらァ」
向かいの男が素っ頓狂な声を上げました。
風呂敷を開いて、中のものをぺろり、と床まで広げています。
正子が仕事中に着ている、ススや油で汚れたツナギです。
「姉ちゃん、間違うて持ってきたんか?」
正子の身体の震えが止まります。
いま、何かがわかる、という確信。
「間違った、言うて、なにと?」
「決まっとろうが! ヤクじゃ、ヤク!」
ばちん。
正子の頭の中で全てが繋がった。
隣にあった丸椅子。
掴んで横ざま、男の耳に叩きつけた。
男はコンクリの床にぶっ倒れる。
丸椅子を握ったまま立つ。
床の上で男は悶絶している。
割れたサングラスの破片が床に光る。
「ヒロシ! ツトム! こっから逃げぇ!」
正子の怒声は店全体を震わせた。
「走って長屋のおじちゃんたち呼んでこい!」
呆然と立ったままのツトムの胴を、抱え込むようにしてヒロシは駆け出した。
戸を開けて逃げ出る。
びしゃん、と戸が閉まる。
「こっ、このアマぁ! 何さらすんじゃあ!」
割れたサングラスを捨てて男が立つ。
奥からコートの男。手に蕎麦を切る包丁。若い店主は顔だけ出して怯えている。
正子は、上半身をまっすぐ起こした。
寒さとひもじさと疲労で身を縮めていたが、正子は身長175センチ。
肩は広く身体は厚く、腰も腕もがっしりとした女である。
夫の働いていた造船所、その内側と外で、鉄と格闘し荷物を運んできた女である。
時には工員たちの荒事にも参加し、力の限りを尽くして、心と体を大きくしてきた女である。
正子は己の血管が沸騰しているのがわかった。
体内の臓器が燃えているのがわかった。
心臓が鳴っているのがわかった。
こめかみに血管が浮く。
奔流していた。
負の感情が全身を走っている。
悲しみはなかった。一片もない。
怒り、憤り、義憤、殺意。
それらが血に代わり正子の身体を駆け巡る。
「おどれらか」
正子は言った。
「この町にクスリ持ち込んで、ウチの人を死なせたんは……おどれらか!」
PULP ADVENT CALLENDER2022 presents
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「なんじゃこのアマ! おいタク! ハジキはどこじゃ!」
「勝手口のそば、棚の上に置いてあります」
コートの男はゆっくり言う。
「お前このアマ、ブチ刺したれ! ワシがハジキでトドメ刺すけん!」
言って後ろを向いた男の足に、正子は椅子を投げた。
「ぎゃあ!」
足を押さえてひっくり返る。
コートの男が包丁を振りかざす。
正子は腰をかがめて突撃し、腹にぶつかった。
男が吹っ飛んだ。
柱に激突する。
ずっ、と柱がズレる。
屋根がきしむ。
ここ、ほんまに柱ふたつきりで屋根、支えとるんか。
頭の隅で正子は思う。
「このアマ……」
男は包丁を持ち直す。本気だ。目に殺意。
正子はもうひとつ、丸イスを持ち上げた。
「来んかい」
イスを振る。
「鉄工の女ァ舐めたら、死ぬで」
男が上段に構えて走ってきた。
脳天に包丁を振り下ろす。
正子は避けず、投げず、イスの上部でがっしりと受けた。
食い込んだ。
捻る。
包丁の刺さったイスは床を転げた。
間髪入れず前蹴り。
男はよろけた。
正子はテーブルを両手で掴む。
歯を食い縛る。
軽い、と自分に言い聞かせた。
分厚い木のテーブルが持ち上がった。
男の驚愕の目。
その真上から、叫びながら脳天に叩きつけた。
天板は真っ二つに割れた。
全てがばらばらになって落ちた。
男の体もぐにゃりと曲がり、冷たいコンクリの上に潰れた。
頭から血。
白眼を剥いて、泡を吹いている。
「ふッ!」
正子は息ひとつで呼吸を整えた。
調理場への道を見る。
もうひとりの男が奥へ消える瞬間だった。
「待たんかい!」
頭も体も熱いまま追う。
男の息切れと、箸や鍋が落ちる音。
正子は一度、カウンターから中を覗く。
暗い勝手口、その脇の棚。
「どっ、どこじゃ!」
調理器具を払いのけながら男はうろたえている。
「ハジキ! ハジキじゃあ! おい青木ィ!」左を見る。「ワシの、ハジキ……」
そう言って固まった。
正子も左を見た。
若い店主が拳銃を握っていた。
ぶるぶる震えて、銃口を男の方に向けている。
「や、山田さん。俺もう、嫌です。もう取引とか、そういうの。もう」
「あ、青木ぃ、青木よぅ! そがいなことしたら、切ないじゃろうが! やめとけ! な!」
がちり、と撃鉄が起きた。
ヒッ、と男が腕で頭を隠す。
「こ、こらえてくれや! なぁ青木! 俺とお前の仲やろうが!」
「仲ってなんですか。俺とあんたの仲ってなんですか」
若い店主の言葉に怒気が混ざる。まだ幼さの残る頬が紅潮する。
「ふざけんなよ。どんだけ虫ケラみたいに扱われたか……。ふざけんなよ! 許さねぇぞ俺は! 許さねぇ!」
細い腕が伸びる。
「こっ、こらえてくれや! こらえてつかぁさい! 頼む!」
「うるさいッ! お前なんか、お前なんか!」
「やめときんさい」
風のように、女の声が割って入った。
正子はカウンター越しに、店主に声をかけていた。
「やめときんさい、あんた」
優しい声だった。
「こがいなチンピラ撃っても、何もならん。あんた、極道やないやろ」
すっ、と調理器具を指す。
「蕎麦の職人さんやろ? そがいな若い身空に泥がつくんは、私、見とれんよ。町でそういう奴を大勢見てきたけん」
「そ、そうじゃ。そん通りじゃぞ青木」
「代わりに私がこいつ殴ったるけぇ」
「ひぇ」
男は短く叫んでしゃがんだ。
「そうじゃから、その銃は……」
正子は店主に目を戻した。
心臓が止まりかけた。
銃が、正子の方に向いている。
店主はさっきよりも怯え、震えている。
「あんた、どうして」
「う、うしろ」
店主の口が開いた。
「うしろ、ガラスに、ひ、人影──」
ガラガラッ、と背後で戸が開いた。
三人の男が、暖簾を分けて入ってきた。
縦縞のスーツ、パンチパーマ、頬や額に傷がある。
手に鞄。
「遅れて悪いな広島サン。わしら三人で、かけそばひとつ……」
真ん中で言った大柄な男が、目を見開いた。
「何やこれは……どないしたんや!」
割れたテーブル、倒れた男。
イスがふたつ放り出してあり、ひとつには包丁が食い込んでいる。
床の書類鞄から、札束がこぼれている。
カウンターの前にはほつれた前髪、古びたセーターの女。
女の、正子の目はぎちぎちと血走っている。
だが男たちは、それに気づかなかった。
「どないなっとんねや……。なぁ姉ちゃん、これはどういう」
「その鞄」
正子は答えず、聞き返した。
「ヤクが詰まっとるんやね?」
「そ、それは……」
鞄持ちがそっと後ろ手に隠す。
その動きで充分だった。
「ほうか。わかったわ」
正子の瞳が光った。
「あんたらも、ブチ殴らんとあかんな」
そこから数秒のうちに。
数多のことが起きた。
怯えていた男が勝手口を開けて逃げ出した。
わけのわからなくなった若い店主が引き金を引いた。
正子は「いけんッ」と叫んで、左手を出した。
弾丸は小指の下あたりをえぐり、まっすぐに飛んでいく。
銃に気づいた客三人は屈んだ。
が、弾は鞄持ちの肩に当たった。
腕が前に出て、鞄は店の中に弧を描いて落ちた。
三人はガラス戸を蹴り倒す。撃たれた者を引きずって外へと逃げる。
車に向かって走る。
「舐めくさりよってアホが! あのふたりィ、ブチ殺したる!」
罵声が、11時半を回った大晦日の雪道にこだました。
罵声を耳にした正子は、のしのしと調理場に入ってきた。
左右を見渡す。
湯気の立つ鍋に目を止めた。
その脇には、銃を握る店主。
正子は店主の肩を掴んだ。目の高さはほとんど一緒だった。
「あんた、頼まれてくれるか。さもないと私ら、ナマスにされて、穴だらけじゃ」
若い店主はがくがくと頷く。
「俺、何を?」
「いっぺんしか言わん。よう聞けよ」
男三人は車から得物を取ってきた。
肩を撃たれた男は長ドスを握り、背の低い男は短いドス。大柄な男は銃を手に取った。
大柄な男は周囲を見渡す。
蕎麦屋は空き地にぽつん、とあって、他の家からは少し離れている。
「えぇ立地や」
後ろのふたりに言う。
「隣と距離がある。車が停めやすうて人目につかん。中で取引もしやすい。万が一、荒事になっても、よほどのことがないと聞こえん」
冬の風が冷たく鳴った。
「ましてや大晦日や。ちぃとやかましくても、酔っぱらいが騒いどるとしか思わん。おいお前ら、よかったな」
銃身をかしり、と引いた。
「今夜は、女をブチ殺すいう、珍しい体験ができるで」
三人が破れた戸口へ進むと、「来るなあ!」という裏返った声がした。
「こっ、こっちには銃がある! 撃つぞ!」
「銃がある、撃つぞ、やと。へっ、東京モンかい。こっちにも銃はあるわ」
銃を上げて男は呟く。
「しかし兄さん、撃ち合いは……」
「わかっとる。さてどうしたろか」
その時、ぱん、と軽い音。
壁に小さいものが食い込む響きがあった。
「こっちは本気だぞ!」
「チッ……おい、車回して、店ン前に停めろ」
男はドスを持つ男に言った。
「あっちはふたりともカウンター裏に隠れとる。こっちも身ィを隠さんとな」
──カウンターの奥、勝手口の戸が開いていることに、三人とも気づいていない。
へい、と返事した小柄な男は駆け足で、前方の道路に停めた車へと向かう。
鍵を取り出して、ドアを開けた。
「よう、おっちゃん」
呼ばれて、振り返る。
冬の月明かりの下、黒い影が立っていた。
男の背丈。だが体の線は女。
その手には鍋。
湯気が──
「寒いやろ。あったまるで」
びしゃあっ。
鍋の中身が男にぶっかけられた。
さっきまで煮立っていた熱湯。
絶叫が港町の空に響いた。
正子は顔面を押さえてのたうつ男の手からドスを蹴り払う。
雪道、鍵を拾って車に乗る。
キーを回した。エンジンがかかる。
「おんなじや、おんなじ。クレーンやらなんやらとおんなじや」
ギアをガキガキと入れる。職人の勘。
アクセルを踏む。
動いた。
勘は当たった。
車は蕎麦屋の正面、まっすぐ前。
男ふたりが走ってくる。
思い切り踏み込んだ。
最初に長ドスをはねた。
ボンネットに乗った男はフロントに長ドスを突き立てた。
刃が、正子の左腕を切る。
「つっ!」
だが足は緩めない。踏み続ける。
長ドスの男が滑り落ちて下。
ごとんと踏みつけるのと、大柄な男が乗り上げてきたのは同時だった。
「このクソアマァ!」
車のワイパーあたりをひっ掴んでガラス越し、男は銃口を向けた。
引き金。
銃声が数発。
正子の体から血が散る。
死んだと思った。
生きている。
まだ踏める。まだ。
アクセルをめいっぱい、足の下で押しつける。走れ。走れ。
「ブチ殺したる! 殺したるぞ!」
がつん、と車が跳ねる。
店の敷居。
車の前、男の後ろに二本の柱が迫る。
「頭ァ撃ち抜いて、ブチ殺し──」
車と全身にすさまじい衝撃。
車がぶち当たった柱と男は、奥へ飛んだ。
天井が落ちた。
正子の目の前が真っ暗になった。
潰れた蕎麦屋、その板屋根がメキメキと持ち上がり、中から人が現れた。
正子だった。
セーターには血がにじんでいる。銃弾が何発もかすった。それにドスの刃、激突の衝撃に、十二月の身を切る寒さ。
体験したことのない痛みだった。
背後が明るい。
ストーブがぶち壊れ、空き地の雪の上で広がり、燃えている。
柱にぶつけた時に撥ね飛ばし、後ろの壁を突き抜けたらしい。
腕を押さえ、眉をきつく寄せ、ゆっくりと立ち上がる。
その姿をカッ、と照らした光があった。
「うっ……」
正子はまぶしさに顔を隠す。
「おぅ。どえれぇことをしてくれたのう」
低く、静かで、冷たい声だった。
正子は前方、道の方に目をやった。
黒塗りの車が五台、停まっていた。
ヘッドライトが正子を照らしているのだ。
逆光の中、十数人の男の姿。
そのど真ん中にいる男が、また口を開いた。
「ここはウチの身内の蕎麦屋でのう。結構な売上があったんじゃ。取引先とのお付き合いもあった場所や」
歩み寄ってくる。
正子が最初にイスで殴った男の姿が、背後の暗がりにちらりと見えた。
おやっさん危ないですよ、という周囲を手で制して正子のそばに来たのは──
広島千友組・二代目、栗栖組長であった。
太い眉と黒目の大きい瞳、四角い顎、コートのポケットに手を入れている。
「姉さん。ワシの言うてる意味、わかるやろな」
「……ふん、蕎麦屋は表向きで、ほんまはヤクの取引場所やろ。隠れ蓑やんか。閉店した後や裏手で、何をしとったもんか」
「賢しい口を叩きよる。おぅ、ワシらはここでシノギをやっとったんやぞ。そこを潰されたからにゃあ」
「やるんかい。ウチはまだまだ元気いっぱいやで」
「そら結構やのう。こっちにはハジキとドスと……おォい!」
ライトの中、組員に引きずり出されたのは、蕎麦屋の若い店主だった。
正子は唇を噛んだ。
ヤクザを引きつけたら裏から逃げろ、と言っておいたのである。
「この雪ん中を歩いとったけぇ、保護してやったんじゃ」
「……すんませんッ」
「こいつはのぅ、借金こさえて東京から逃げてきて、こっちで捕まえて、返済代わりにこの店で蕎麦ぁ打っとった、健気な若者じゃ」
正子の唇が震える。
が、声は出ない。
「お前がこの店ェ潰してもうたけん、もう役立たずじゃ。それにうちの若いモンやら取引先も──おう! どけてみぃ!」
ぞろぞろと脇を抜けて、組員たちが屋根や壁を取りのけはじめる。正子は押されるように、栗栖の前に出た。
「おやっさん、タクがいました。頭ァ割られてひどいケガですわ」
「こっちに見かけん顔がおります。生きとります。外で倒れとったふたりの身内でしょう」
「向こうさんの持ってきたブツ、ありましたで!」
「札束があります! たぶんこん下に鞄もありますわ!」
「死人は出とらんようじゃ。今ンところはな」
栗栖は正子をねめつけた。
青年は、青い顔でへたりこんでいる。
正子は絞り出すように言った。
「……この兄ちゃんは助けたってくれ。なんもしとらん。ウチのことは、煮るなり焼くなり」
「煮て焼くだけで済む思うとるんか」
セーターの襟ぐりを掴んで引き寄せる。
「このボケ! 極道のシノギ場ァ潰したモンがどうなるんか、じっくりと教えたる!」
「おう! ワシらン身内、どうしよう言うんなら!」
闇を吹き飛ばすような胴間声が響いた。
正子と栗栖と店主、それに組員たちは一斉にそちらを見た。
黒塗りの車のさらに後ろ、人影が並んでいた。
道いっぱいに並んでいる。
十や二十ではない。
百を越えている。
男が多いが、女もいる。
どれも体格がよく、顔が焼けている。
その中央、ひときわ色黒の中年男は肩に木刀を乗せていた。
「ウチら鉄工長屋のモンじゃ! おぅおどれら! どこの極道モンじゃい!」
鉄工長屋の親分、菅山だった。
ちっ、と栗栖は舌打ちする。
「このアマ、鉄工モンか。道理で……」
手を離す。
菅山は木刀を担いだまま、車の脇、ヤクザの隣を通り、堂々と歩いてくる。
ゆっくり近づきながら、鷹揚に言う。
「おーっ、栗栖の組長さんやないですか。お久しぶりですなぁ」
「…………」
「なんや、正子さんの子ォふたりが長屋に駆け込んできましてなぁ。ヤクザやたらヤクやたら言うて、大晦日にえらい騒ぎで」
栗栖は黙っている。
「ほんで駆けつけたら、あんたがたがおらっしゃって、なんや物々しい雰囲気ですなぁ。おーっ? こらなんやろ?」
組員の手にあった札束を抜く。
「ひゃあー、お金や。こらぁぎょうさんあるわ。おやーっ? こっちは何や、白い粉持ってはるなぁ!」
別の組員から、白い袋を取り上げる。
「小麦粉かいな? 組長さん、あんたんとこは小麦粉を札束で買うんですかのう?」
札束と小麦粉を、栗栖の足元に放った。
「菅山ァ。ワシとコトかまえる気か」
ぬめるような声で栗栖が言う。
「やる言うんならやりますけどな。そっちゃ今二十人。こちとら長屋のモンが全員来とりますけ、百五十はおります。まぁ……」
木刀で、地べたの袋を突いた。
袋が破れて、粉が散る。
「死人がどんだけ出るかはともかく、あんたは確実に死にますわい」
何をッッといきり立つ組員を、栗栖が手で制する。
「……何が望みじゃい」
「わしらは呼ばれて、駆けつけただけですけぇ。望みは、こん人に聞いてくださいや」
菅山は腕を伸ばし、正子に手を貸す。
「正子さん、大丈夫か」
正子は頷き、「ありがとう」と言って立つ。
「ツトムちゃんに聞いたで。食うもんがなけりゃ相談してくれや。水くさい……。で正子さん、どうする」
正子は白い息をひとつ吐いた。
「そやな……。まず、荷物は置いていってもらおか。この若い兄ちゃんと、鞄はふたつとも」
「欲かくなこのアマ!」
栗栖の眉が上がる。
「お金の方はウチの治療費やら、長屋連中の残業代の名目で、もろておきます」
「図太いことを……粉はどうする気や。おどれらにさばけるんかい」
「要らん。海にでも捨てたる」
「す、捨てる? なんぼのカネになる思うて……」
「粉モンには恨みがありましてな。海にでも沈めたらんと、気がおさまりませんのや」
栗栖は頬をびくびくさせる。
が、ちらと鉄工長屋の人々に目をやった。
皆、鉄パイプや金槌などを持っている。
チッ、と舌打ちした。
「……おどれ、覚悟しとけ。極道にケンカ売ってメンツ潰したんや。わかっとるやろな」
「わかっとります」
「はいはい、こっちもわかっとりますけぇ」
菅山が割って入る。
「こがいな騒ぎになってもうたら、お宅さんらも粉モンの取引はやりにくぅなりますわな。まぁ、競艇やらでガマンしてくださいや」
「舐めた口を!」
「長屋のモンに手ェ出してみんさい。おたくの事務所にダンプが突っ込むなんて悲惨な事故が起こるかもしれませんで」
栗栖はふたりを交互に見た。頬と目の脇が痙攣している。
「おぅ女! どこぞに旅ぃ打つんやろが、必ず見つけるぞ……よう覚えとけ」
栗栖は踵を返した。
「お前ら! 今夜は引き上げじゃ!」
栗栖が言うと、不承不承に組員たちが車へ戻りはじめる。
「組長さぁん! よいお年を!」
菅山が木刀を掲げて叫ぶ。
車を取り巻いた長屋の連中も口々に、「よいお年を!」「えぇ年にせぇや!」「鉄工長屋ナメよったらあかんで!」と叫ぶ。
栗栖は車に乗り込んだ。
ドアが思い切り閉まって、黒塗りの車は走り出した。
長屋の連中が走り去る車に悪口を投げつける中。
おかぁちゃん! と叫びながら、子供ふたりが群衆から走ってきた。
雪道に足をとられつつ、正子の懐に飛び込んでわんわんと泣いた。
「よかった……あんたらが無事やったらもう……」
正子の目からも涙がこぼれた。
「あの、正子さん……すんません! ありがとうございます!」
若い店主が地べたに正座して、頭を下げた。
「でもなんで俺まで……俺まで助けてくれたんですか?」
「ふふ。言うたやろ」正子は照れ臭そうに笑う。「若い身空に泥がつくんは、見とれんのや」
あっ、と店主は叫んで、正子の左手を取る。
小指の下がえぐれて、血が固まっていた。
「俺が撃ったせいで、こんな怪我まで」
「気にせんと! 鉄工仕事には傷はつきもんや! ……それよりもあんた、ここからが勝負やで?」
子供を脇に置き、青年の肩にしっかりと、手を乗せる。
その時、遠くから鐘の音が届いた。
寺の鐘である。
0時。
新年がはじまった瞬間だった。
「新しい年や。私らも、新しい人生の年になるわ」
正子は地面に落ちた札束を拾う。
「これ持って、私ら家族とあんた。別に逃げなあかん。長屋の人には迷惑かけれん。極道に見つからんよう、遠く、遠くにな。人生のやり直しや」
「でも俺、何もできんですよ……」
「何を言うとる!」
正子は脇を見た。
吹き飛んだストーブの炎が明るく照らしているのは、蕎麦屋だったものの残骸だ。
隙間に、調理器具が光っている。
「あるやないか。やり直せるものが」
◆◇◆◇◆
──数十年の時が流れました。
町の鉄工業は徐々に力を失い、ついにこの年の春、最大の鉄工所が閉鎖されることが決まりました。
五十年以上燃え続けていた炉が、消えるのです。
旨味のない土地には、暴力団もいません。
以前はこのあたりを牛耳っていたヤクザたちもすっかり、鳴りをひそめました。
特に「広島千友組」という組織は、昭和の終わりに二代目が死んでからはあっという間に無くなった、といいます。
鉄工所の閉鎖に合わせて、町のはずれにある蕎麦屋も、店を畳むことになりました。
この店の店主は平成のはじめ頃にやってきて、ひと昔前に蕎麦屋があったという土地に、立派な蕎麦屋を建てたのでした。
日本を転々として修行を重ねたという店主の蕎麦は格段に旨く、遠方からも客がやってくるほどでした。
町の名物として三十年以上、愛され続けたお店でした。
閉店のことはニュースにもなり、その味を惜しむ人が続々と訪れ、店は大変な賑わいを見せていました。
けれど、老いた店主の顔には、どことなく陰があるのでした。
何かを待っているのに来ない、というような……
蕎麦屋の、最後の営業日のことです。
近所の人々がたくさん集まって、蕎麦をすすっています。
時刻は6時。あと二時間もすれば閉店です。その後はもう、暖簾の下がることはありません。
昔話に花が咲いています。
賑やかな中にも寂しさのある、不思議な時間が流れていました。
その時です。
カラカラッ、と戸が開けられました。
「いらっしゃい!」
暖簾に目をやった店主の口から、「あっ」という声が洩れました。
暖簾をめくっている皺だらけの手。
その小指の下の肉が、不自然にえぐれているのです。
店主は調理場から出てきて、戸口へと走りました。
「なんじゃ青木さん」「転ぶで」「誰が来たんや?」と、客が口々に言います。
老いた店主が戸口へとたどり着くのと同時に入ってきたのは、店主よりも一回り老いた、腰の曲がったおばあさんでした。
おばあさんは見た目に似合わぬハッキリとした声で、こう言いました。
「あの、三人なんですが……よろしいでしょうか?」
店主は頷きます。目に涙を浮かべています。
「いらっしゃい……」小さな声で言います。
「私、ずうっとここで、待っとりましたよ……」
おばあさんの左右からお爺さんがふたり、店内に入ってきました。店主より少し若い、といった年齢です。
「君たちは……」
年嵩の老人が頷きます。
「はい。その節は僕らと母が、お世話になりました。先日ニュースであなたと、この店のことを知って、北海道から……」
「家族三人で、苦労したやろ……」
「幼い頃は各地を転々としたんですが、成人してからは僕が自衛隊、兄は警察官になりまして。そこからはだいぶ、楽になりました」
年下の老人が返事をしました。
「そうか……そうか……」
店主は手を差し出して、兄弟と握手を交わしました。
「よかった……本当によかったのぅ」
それから、震える手を、真ん中のおばあさんに向けます。
「あなたも……苦労なさったじゃろう」
出された左手を、おばあさんは左手で握りました。
「なぁに。追っ手は怖かったが、多少のお金と、鉄工のツテがあったし……あの頃の、人並みの母親の苦労ですよ……」
握り返された手の力には、昔の強さを感じさせるものを残していました。
「それにしても、あんたは変わらんねぇ」
おばあさんは言います。
「何がです?」
「その気弱な声、顔……あの大晦日の晩とそっくりや」
言われて店主はへへ、へへっ……と若者のように笑って、涙を拭きます。
「でもね、俺、旨い蕎麦を作れるようになりました! これは自信を持って言えますけぇ!」
「そうかい……じゃあ注文、お願いしようかねぇ」
「はい! 何にしましょう!」
「かけそば、ひとつ……」
おばあさんはいたずらっぽく微笑みます。
「じゃなく、みっつお願いします」
はいっ! かけそば、三人前で!
店の中に、いえ、外にまで、店主の嬉しそうな声が響きました。
夕刻の春の風が、暖簾を揺らしております。
暖簾の上には、大きな看板がつけてありました。
「鉄正亭」
鉄工の、正子。
それが、お店の名前の由来です。
【おわり】
🎅本作はnote創作界隈のお祭り、「パルプアドベントカレンダー2022」参加作品です。
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