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二千万の穢れ #逆噴射小説ワークショップ

「おい行くぞ!」
 “黒人”がコンテナの壁を叩いた。運転席の真後ろだ。返事はなく、代わりにエンジンが唸りトラックが走り出す。タイヤが山道を噛む音がする。
 その自暴自棄な速さに、私はよろめいた。思わず木箱の縁に手を置く。天井で揺れる電球が、箱の中身を照らし出す。

 札だ。
 無数の紙幣だ。
 1ドルから100ドルまで種類はバラバラの紙幣が、紙クズのように乱雑に、隙間なく詰まっている。
 いったい全部で何枚あるのやらわからない。総額もはっきりとしない。だが彼らの予想が当たっていれば。
「1箱あれば1000万ドルは堅い。どうだ、やるか?」 
 数日前に聞いた“黒人”の、太く確信に満ちた声色が甦る。
 それが横並びに2箱ある。
 つまり、軽く2000万ドル──

「おいセンセイ。倒れてもいいが、それにはしがみつくなよ」
 顔を隠していた白い仮面を持ち上げて“黒人”が言う。
「倒されでもしたら散らばって困る。倒れるときは一人で倒れな」
「ええ、わかってます」
 私は手を離しつつ、そう答えた。だが目は離せなかった。
 
 逃げる車は左右に揺れ上下に跳ねる。それに合わせて電球も揺れる。紙幣の緑色の印字と肖像画が蠱惑的に光り闇へと消える。私はしばらくの間、それに目を奪われ続けた。
 確かに100ドル札が多い。1ドルや10ドルも散見されるが、圧倒的に100ドルが多数を占める。
 これは、2000万どころではない。もしかしたら、2500万、3000万──

 危うい熱が頭に入り込む直前、私の目に赤いものが飛び込んできた。いや赤ではない。赤黒いものだ。
 電球が揺れ戻ってくると、それははっきりと見えた。
 紙幣の中の一枚に、べったりと赤黒いものが付着していた。
 血だ、と思った。
 私はぞっとした。血そのものにではない。血の背後に横たわるもの、紙幣にこびりついた物語にである。
 無数の暗い過去を持つカネが、この木箱2つにみっしりと収められている──
 
「なぁセンセイ、たまらねぇよな」
 その俗な言葉で思考の暗がりから引き戻された。
「そんな札の山なんざ見たことないもんな。夢にだって出てきたことがねぇや」
 コンテナの後方、冷たく硬い金属のドアの覗き窓から後方を見ていた“歯抜け”が言って、白い仮面を上げながらこちらを振り向く。 
 ぱさついた長髪の中から不健康な肌の笑顔をよこした。彼の上の前歯は2本ともない。
「見とれるのもわかるよ。へへへ」
「いいから黙って見張ってろ」
 そう言った“黒人”は足を広げて腕を下げ、堂々たる姿勢だ。さっきの走りはじめにも、このガタガタ揺れる荒っぽい運転にも微動だにしない。
 そして手には、拳銃を握っている。
「警備員と重役は縛ったし警報は切ったし追っ手なんざ来ねぇよ。来るとしたって30分はかかる。へへへ。最高にオイシくてチョロい仕事だったな。おい、こういうのが『ミッドナイト・ラン』ってんだろ?」
 “歯抜け”は早口で喋る。前歯のない口からスカスカ抜けるように言葉が出てくるので聞き取りづらい。
「口を閉じろ。仕事中にそういうクソみてぇなお喋りはやめろと何度も言ってるはずだ、アホめ」
「お前は口が悪いな。そちらのセンセイの前で悪態はよくねぇぜ。バチ当たりだ。汚い言葉を使ってると口が腐って落ちるんだ。子供の頃に習ったろ。なぁセンセイ?」
 言われて思わず“黒人”の顔を見た。出会ってから現在までずっと不機嫌そうに寄せられていた彼の眉が冗談めかしてクイッと上がった。額の大きな傷もつられて上がる。「これは失礼」と言っているようだった。
 私は、「いえ、別に」と答えることしかできなかった。

「まったく口が悪いのはよくねぇよな。グリーンベレー時代に偉いさんからさんざっぱら罵られた恨みを晴らさんばかりに──おっと」
 “歯抜け”は口をつぐんで、気まずそうに白い仮面を下ろした。何事もなかったかのように、覗き窓の向こうに目を向ける。
 私は再び“黒人”の顔を見た。先ほどの気安い表情は消えて堅牢な無表情に戻っている。
「今の、聞いたか?」
 静かに押し潰すようなトーンの声だった。銃を持っている方のヒジがかすかに動く。
「いいえ」
 私は即座に首を振った。
「そうか。それならいいんだ。もし聞いていても忘れることだ。たとえばあの馬鹿はピーターという名前だが、それも忘れてくれ」
「おい!」
 “歯抜け”──ピーターは仮面を上げて叫び、乱暴な運転に足をもつれさせつつこっちに近づいてきた。いつの間にか腰から銃を抜いている。私は身を硬くした。
「名前を言いやがったな? おい! 名前を教えたな?」
「これでおあいこだ」
「ふざけんな! 経歴と名前じゃ大違いだぞ!」
「この世界に『ピーター』が何人いると思う。それにこのセンセイはうまいこと忘れてくれるだろうから」
「この野郎」ピーターは銃を持っている右手を持ち上げて“黒人”の顔を指差す。「都合のいいことばかり吐かしやがって。顔の傷を増やしてやる」
 銃口がちらちらと私の方を向く。腰が抜けそうだ。気が気ではない。
「そんなことはいいから早くあっちに戻れ」
「おいおい、今そんなことって言ったか? わざと俺の名前を教えておいてそんなことってか?」
「お前の名前以上に『そんなこと』と呼べるものがこの世にあるか?」
 挑発する“黒人”と喰ってかかるピーターの間に割り込むように、私は口を挟んだ。
「あの、私、大丈夫ですから。ぜんぜん、何も聞こえませんでした」
 二人が私の顔を覗き込む。両者とも私より背が高く、葦のように平べったい私に比して体もぶ厚い。二人に一発ずつ殴られたら死んでしまいそうだ。
「あの、この、運転がとてもハードでしょう。雑音が多くて、まったく何も聞こえなかったので、どうかお二人とも、気を鎮めて、お静かに、仲良く」

 そこまで言った瞬間だった。  
 コンテナの後方がビシビシと鳴った。
 見れば指で突いたように、ドアが内側に向けて出っぱっている。

 弾丸だ。

「来やがった」“黒人”が叫んだ。
 ピーターは舌打ちして「まだ5分だぞ? どこからどうやって……クソッタレ……」と呟いた。それから私の方を見て「失礼!」と謝り、一瞬で後方に飛んでいった。
 “黒人”は木箱に膝を乗せて壁を叩く。
「おい追っ手だ! 後ろから……おい何台来てる!」 
「3台」ピーターが短く言う。
「3台来てる! もっと飛ばしてくれ!」
「聞こえたかい。よろしく姐さん」
 仕切りの向こうからくぐもった若い男の声、さっき手際よく木箱のフタを開けた“工員”だ。
「ねぇ4台じゃないの? でかいワゴンも来てるけど!?」
 その脇から“運転手”が怒鳴る。酒焼けした女の声だ。
「おい! 4台なのか?」 
「ん? まぁそういう見方もあるな」
「ふざけやがって、この──」
「俺を罵る前に、箱に布でもかけてくれ」
「なに?」
「追撃が激しい時はここを開けてブッぱなすだろ。分け前が風に巻かれて飛んでいくのは勘弁だからな」
 私は驚いた。へらへらしたジャンキーにしか見えないこのピーターという男、いざ事が起こると冷静になるタイプのようだ。
「まぁ本当にヤバい時にゃそちらの『人質』のセンセイを盾にでもするからよ。文字通りの人間の盾ってやつだな」
 ピーターはまったく冷静に、ごく軽くそう言うのだった。
 私は胸に手を当て、誰にも聞こえぬ声で「神よ」と呟いた。

 車は速度を増し荒っぽく曲がり、時折未舗装らしい道を走る。がっしりした2人と違って、私は幾度となく倒れそうになる。相当に無茶な運転だ。しかしおかげで後方から来る車に追いつかれる様子はない。
 中くらいとは言えコンテナを引き、目いっぱいのカネと男三人を乗せたトラックである。“運転手”のハンドルさばきに驚嘆していた矢先、ばちん、と何かが吹き飛んだ音がした。
 コンテナの壁の向こう、運転席と助手席で、
「サイドミラーが撃たれた」
「見りゃわかるよ」
「どうやって後ろを確認すんだよ」
「直に振り返ったらいいでしょ」 
「危ないだろ」
「まぁ死ぬかもね」
「よくもそんなことが言えるな」 
「早くやってよ」
「このアマてめぇ」
「何、やる気?」 
 こんな口論が繰り広げられているのが聞こえた。私は再度胸に手をやり、神に祈った。

 覗き窓から追っ手に弾を撒いていたピーターが言う。 
「ああそうだ、念のためセンセイに武器を渡しておいてくれ」
 息が止まった。私が武器を?
「そうだな。おいセンセイ、これを渡しておく」
 “黒人”は腰からリボルバーを抜いた。小ぶりで、黒い。メーカーも何もわからない。リボルバーは確か、弾は5発か6発だったろうか。混乱している。私は銃器に触ったことがない。
 差し出されるそれを受け取れずにいると、またもやドアにビシビシと弾が当たった。凸凹がどんどん増えている。今にもどこかに穴が開きそうにも見える。
 私は人質として、強盗に連れ去られた。「そういうこと」になっているのだ。
 逃げる際もピーターが仮面の下から「こいつは人質だ」と宣言した。警備員も重役連中も、確かに聞いていたはずである。
 その私の命にかまうことなく、無数の弾がまっすぐ飛んでくる。
 つまりは、見捨てられたのだ。
 そしてさらに今、強盗の一団から銃を差し出されている。


 大変なことになった。


 膝の力が抜けて、思わずまた箱の縁に手を乗せた。
 “黒人”は困ったな、と言いつつ拳銃を私の黒い服のポケットに突っ込んだ。ポケットは大きく深いから、拳銃くらいならたやすく呑み込む。 
 箱にはしがみつくなと言われたが、一度こうなってしまうともう立てない。車は轟音を立てて左右に揺れている。
 せめて箱から手を離そうと思った。床に座り、箱の側面に背を当てた。
 その時だ。


 つん、と鉄の臭いがした。
 それと一緒に、耳の下あたりに言葉にしがたい気分の悪さが膨らんでくる。

 これは。
 しかし、まだ昼の2時だ。太陽がいちばん高い時間だ。
 あまりにも早すぎる。

 目をやれば、数えきれぬほどの紙幣が箱の中から生えている。
 その中から、黒い煙のようなものが細く上がっている。
 赤くない。赤黒くもない。どす黒い。
 犯罪よりもおそろしいものの狼煙だ。彷徨う者の息吹だ。
 札と札の隙間から、ヌッと指が出た。
 爪が剥がれ、先がボロボロになっていた。


 これは本当に、大変なことになった。  


 私は“黒人”を呼ぼうとした。彼は銃器を取り出してカラになったバッグをナイフで切っている。広げて箱をふさごうというのだろう。
「ちょっと、あの。すいません、あなた。あなたです。あなた」
 どう呼びかけていいかわからず、このように声をかけざるを得なかった。「そこの黒人」だの「軍人さん」だのと呼ぶことはできない。必然、声も小さくなる。
 トラックはタイヤの悲鳴と共に蛇行する。断続的に響く着弾音と、散発的に鳴る反撃のマシンガンの銃声で私の声は届かない。彼の背中を叩こうにも距離がある。箱から体を離した途端に急角度で曲がったら、どこかにぶつかって首の骨を折ってしまうかもしれない。
「ちょっと……あの………… おい! お前!」
 我慢できなくなった私は絶叫した。相手は黒い顔に汗をびっしょりかきながら振り向いた。
「クソッなんだ! このクソ忙しい時に一体──」
 彼の不愉快そうな顔が一気に凍りついた。
 例の無表情ではない。
 見たことのないものを見た時、人間が必ず浮かべるあの表情だった。
 彼が何に恐怖しているのか、私には十分にわかっていた。
 耳のあたりにわだかまる嫌な感じは吐き気に近くなってきた。こめかみから汗が垂れる。
 私が寄りかかっている木箱から、鉄の臭いとそれに、魚の腐った臭いがしはじめた。


 いるのだ。出てきている。
 私の背後に。姿を現している。
 紙幣を満載した、黒い棺のような形の木箱から。
 棺のような形の木箱はある意味、ほんとうに「棺」なのだ。

「おい、なんなんだ、それは──」
 彼は木箱から出てきているものから目を離さない。 
「お会いした時に言ったはずです。『これは本当に危険なカネです』と」
 そう言いながら私は、ゆっくりと振り返った。


 木箱の中に、女が立っていた。 
 ふた昔ほど前に流行ったドレスを着ている。
 生きている女ではない。
 体が透けていて、後ろが見える。
 頭が半分吹き飛んで無くなっている。
 ぐちゃぐちゃになった口元が動き、なにがしかを呟いている。呪詛の言葉だろう。箱のどこかにある幾ばくかの紙幣のために自分を殺した何者かに対する、呪いの言葉だ。


「まさか、本当に、カネに、悪霊が」
 “黒人”がきれぎれに呟く。子供のように震えている。

 私は着ていた黒い服──司祭服の前ボタンを一気に全て外した。
 胸を開いた。50近い内ポケットにぎっしりと「仕事道具」が入っている。ちいさな十字架をふたつ取り出した。

「いいですか。これが動き出して取り憑かれたらおしまいです。間違いなく半狂乱になります。とりあえずこれを。ピーターさんにも渡してください」

 ふたつとも彼の手の中に押し込めて、今度は大きな十字架と聖水の入った小ビンを出す。大丈夫だ。できる。一体ならば難しくない。

「私は今から、これを祓います。皆さんはできるだけ早く追っ手を撒いてください」
「こっ、こういうのは普通、夜に出てくるもんじゃあないのか?」
 今更ながらもっともな質問だったが、私は首を横に振った。
「普通はそうです。しかし現れました。とにかく今はまず、この一体を」
「おい! 誰だその女?」
 ピーターがマシンガンの弾倉を変える手を止めて、口を開けてこちらを見ている。現状を理解できていない。
「サイモン、知り合いか?」
 サイモンと呼ばれた黒人は、無言で首を振った。
「じゃあセンセイの知り合いか?」
「違います。でもこういうモノには慣れっこです」
「慣れっこってあんた、おいその女、頭が半分。まさか本当に、悪霊」
 全部言い終わる前に、コンテナのドアをガツン、と細長い金属が貫いた。
「なっ、なんだぁっ」
 ピーターが叫ぶ。合わせたかのようにこちらに突き出た金属の先が三つに分かれた。
 運転席側からも絶叫が響いた。
「ちょっとアレ何? あれってクジラとか獲るやつじゃないの!?」
「おい! あれが刺さったら後ろがひっぺがされるぞ!」

 クソッ、とサイモンが毒づいた。
「もう遅い」

 モーター音と共に銛が引かれ、あっと言う間に両開きのドアの左側が吹き飛んでいった。陽光がコンテナの中に差し込み一瞬、目がくらんだ。
 視界の先に、黒いものがいた。
 黒塗りの、一目で防弾とわかる車が3台に巨大なワゴンが1台、ぴったりついてきている。
 車の窓からは火器を持った男たちが身を乗り出している。しかしワゴンが先頭にいるためか、銃は下向きにされていた。
 ワゴンの天窓は開いていて、銛の発射台が設置されている。
 台のアームを握っているのは──

「何者だ、あの女」

 サイモンが呟いた。

 女は黒いスーツを着ていた。肌の見えている部分は手首から首筋までタトゥーが入っている。兵士のような坊主頭だ。  
 箱に寄りかかる私と目が合った。
 彼女はウインクした──ように見えた。
「助けに来た」ではない。「殺すけど許してね」というウインクだった。
 

「あの銀行の用心棒です。裏社会の人間だそうです」
 私はサイモンに答えるでもなく、独り言のように言った。
「ああ、とんでもない女が来てしまった」


 ドアを半分失った後方から風が舞い込む。札が幾枚かコンテナの中を舞った。
 その風に巻かれながら、私は木箱の中の女がガサリ、と動く音を耳にした。


 


【続く】

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