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【怖い話】 まだなんとかなる 【「禍話」リライト98】
廃墟に人を置き去りにしかけた、という話である。
「面白い心霊スポットがあるって、男友達が言うもんですから」
Hさんは顔をしかめつつ語る。
「それで私は友達のIちゃんと。で、その男友達がふたり連れてきて……」
つまり男3人に、HさんとIさんの女ふたり、計5人の面子である。
「興味はあんまりなかったんですけど。まぁ気まぐれ、みたいな?」
車中で言い出しっぺの男がハンドルを握りつつ言うには、
「これから行くのはさぁ、廃ホテルってやつなんだぜぇ。山奥にある、結構デカいホテルでさぁ」
彼いわく、オーナーが夜逃げしたらしい。
とは言えいきなりではなく、徐々に傾く経営に困っての夜逃げだった。
必要最低限の義理は果たしての逃亡だったという。
事故や殺人、土地の祟りなどのせいではない。
それなのに、ホテルには「一家」が住み着いている、との噂があった。
ホームレスなどではない。「そういう存在」である。
「カワムラさん一家」と呼ばれている。
お父さんらしきもの、お母さんらしきもの、それに子供らしきものがいるらしい。
こういうことがあった。
侵入した若者たちが、手を繋いでボロボロの廊下を横切る母と子を見た。
え、と追いかけたが姿はない。
こんなこともあった。
外についている階段から、子供が「わあぃ」「あはは」とはしゃぐ声が聞こえる。子供だけではない。大人の足音もする。
外に面したドアが少し開いていて、外階段を子供を肩車した父親が上っていくのが見える。
まさか、とドアを開くと、階段は錆び落ちて、ぶつぶつと途切れていた。人が昇降できる状態ではなかった。
そういうさぁ……幽霊の家族が……住んでるんだよなぁ……
運転手はおどろおどろしく語った。
女友達のIさんは「え~っ怖い~」と身をすくませている。
が、当のHさんは
「ふぅ~ん……」
だった。
というのも第一に、今は昼なのである。
「夜は……怖いじゃん?」と言ったのは男たちの方だった。
第二に、男3に女2、という編成がどうにも気になる。というか気に入らない。
心霊スポットで女子を脅かして楽しもう、みたいな計画なんじゃないの?
そんな風にHさんは邪推していた。
山道をそれなりの時間走って、ホテルに到着した。
ホテルは想像よりも大きく、そしてかなり痛んでいた。
権利がややこしいことになってて、放置されてんだってさ、と男子が言う。
割れた窓から入り、中へと歩を進めた。
窓が少ない。昼なのに薄暗い。
明るさをアテにしてきた男たちも及び腰で
「お、おう。暗いな……」
「雰囲気が、あるな……」
などと言っている。かなり怖がっている。誘ったのは男たちの方なのに。
Hさんも怖かったが、
「その手は喰うもんか、って気持ちでいましたよ。簡単にビビるもんかって」
行ってやろうじゃん、と心に決め、Iさんと一緒にどんどん奥へ、先へと進んでいく。
遺棄された建物で、しかも山奥にあるからだろう。
どこかの誰かが持ってきたらしい家具や家電が、やたらと放置されている。
ホテルに不釣り合いの物品が暗がりに並んでいて、不気味さに拍車をかける。
思った通り、男たちはやたらとこっちを怖がらせようとしてきた。
「うわっ! あれ!」
「えっ、何!」
「なんかでっかい扇風機が捨ててあるぞ!」
「……やめてくんない? そういうの」
「うわぁ、あれは!」
「だから何?」
「古いタンスが置いてある!」
「……うん、普通のタンスだけど。あのさぁ」
「おいあれ何だ!」
「…………」
「粉々になったマネキンがある!」
「………………」
こいつらは、この程度か。
何度も「わぁ!」だの「あっ!」だの言われたHさんは、そう思った。
こいつら、このホテルの話だけ聞いて、ノープランで来てるな。
仕込みとか絶対してないわ。
特にアレンジもなく「わぁー!」「あーっ!」という低レベルの驚かせが続く。
Hさんに続いてIさんも「そういうのやめてくんない?」と慣れてしまっている。
しつこい男たちを適当にあしらいつつ、2階、3階へと移動していった。
2階から上は、廊下の両壁に客室がずっと並んでいる。
ほとんどのドアが閉じている。
老朽化した床がギシギシ鳴る。外に面した窓からわずかな昼の明かりが射している。
男たちのおどかしはともかく、ホテル自体は確かに気味が悪い。
4階にさしかかった時だった。
「あれっHちゃん……みんなは?」
「え?」
男3人がいない。HさんとIさんだけになっている。
「えっ、どこ行っちゃったんだろ……?」と体を寄せてくるIさんに、Hさんは言う。
「これさぁ、アレじゃない? どっかで先回りしてるんじゃない?」
かまうことなく、4階の廊下を進んでいく。
「たぶん廊下の先とかさ、5階で待ち伏せしてるんだよ」
「そ、そうかなぁ……」
「で私たちが来たら、ワーッ! ってやるんだよ。そんくらいのドッキリだよ」
「……でも、怖くない?」
「いやビックリはするけどさぁ、そんなの怖くないじゃん?」
「そうじゃなくてさ。私たちとは別に、不審者とか変な人とかがいたら……」
「あっ」
Hさんは立ち止まった。その可能性は考えていなかった。
そっちの方が怖い。と同時に、男たちに腹が立ってくる。
「そうだよねぇ! そういう危険もあるのに、女ふたりきりにしてさぁ。ひどくない? そもそも誘ってきたのは」
Hさんが男たちへの不満を吐き出しはじめた時だった。
「うわああああああああああああああ」
下の階から、男の絶叫が聞こえてきた。
車を運転してきた奴の声だった。
一瞬びくりとしたものの、Hさんは言う。
「ほ、ほらコレじゃん。これが合図なんだよ。これで私たちが走ると廊下の先で、」
「でも、Hちゃん」とIさん。「なんか……長くない?」
「え?」
Hさんは口をつぐんで聞いてみる。
階下の叫び声は、確かに長かった。異様に長い。
「あああああああああああああああああああああ」
上階まで響く、喉から血が出そうな大声だ。
息の限り叫んだかと思うと、一瞬だけ息を吸いまた叫ぶ。
「あああああああああああああああああああああああああっ、ああああああああああああああああああああ」
スピーカーから発されている感じではない。生の声だ。身をよじるような叫びだ。
──ドッキリや脅かしでも、こんなに長く大きく叫ぶだろうか?
わぁ! とか、あっ! と言うのが関の山だった男たちが、身を削ってこんなことを?
「こんなの……声嗄れちゃうよ? 喉、潰れちゃうじゃん?」
Iさんも同じことを思っているようだ。困惑した顔でHさんを見やる。
Hさんはまだ半分、疑っていた。
Iさんを落ち着かせるためにわざとゆったりと言う。
「いやぁ、これは怖いよねぇ。気持ち悪いよね、あいつらも結構考えてこういう……」
Hさんはまた口をつぐんだ。
「ああああああああああああああああああああああ」
声が足の下で、移動している。
自分たちの真下あたりから前方、階段に向かって歩いている。
「ちょっ、ちょっちょっと……!」
Hさんもゾワゾワしてきた。何かがおかしい、というのが肌で感じられる。
Iさんも「ねぇヤバくない? これホントにまずいやつじゃない?」とおろおろする。
廊下の先に逃げようかと思った。しかし先に逃げ道があるとは限らない。
外階段は錆びて落ちているという。行き止まりだったらどうしようもない。
「あのさ、ドア」Hさんは小声で言った。
「客席のドア、開けてみて。ちゃんと開いて、鍵がかかって、チェーンがある部屋。探して」
ふたりは音を立てないように左右のドアを開け閉めする。
歪んでいるのか開かないドア、ノブが壊れているもの、チェーンが切れている所。
探しているうちにも、
「ああああああああああああああああああああああ」
声は近づいてくる。階段に足がかかって、こっちに上がってくる。
「Hちゃん、ここ!」
Iさんがドアのひとつを開けていた。
飛び込んでノブについた鍵を回す。チェーンもかけた。
ベッドのある、部屋の奥まで逃げる。
「ああああああああああああああああああああああ」
絶叫は階段を上りきり、廊下にさしかかろうとしている。
このドア一枚向こうに、来る。
「どうするの……?」
「しずかにして……」
と。
叫び声がぷつんと、糸が切れるように止んだ。
「……あれ?」
ふたりは摺り足でドアまで行く。耳を立てる。
人の気配も物音もない。
ドアから離れた。ため息のような声で会話する。
「Hちゃん、いまの何……? 先輩の声だよね?」
「そうだけど、いや……」
「やっぱりドッキリなの? ここから出た瞬間にワッ、って」
「いやぁ、そんな作戦立ててないと思うよ……。扇風機だぁとかマネキンだぁ、ってでっかい声出してただけの奴らが……」
「でもさぁ、でもさ? そうじゃなかったら、なんなの?」
「わかんないよ……けどウソでもさ、あんなに叫ぶ? 喉とか潰れちゃうじゃん?」
「じゃああれ、本気で叫んでる、ってこと?」
「……本気で、ってそれ、どういう」
「あのぅ」
知らない声が割り込んできた。
えっ、とふたりでドアの方に目をやる。
ドアの外から聞こえてきた。
「あのう、すいません。救急車、呼んでもらえますか。まだなんとかなると思うんです」
ドアの向こう側から、中年の女がのっぺりとした口調で言う。
「すいません。救急車、呼んでください。まだなんとかなると思うんです」
冷静さを取り戻したHさんは、これは大変だ、と思った。
たぶん自分たち以外にも、ここを探検しに来たグループがいたのだろう。
一緒に来た人が転ぶか落ちるかして、ケガをしたに違いない。
女の声が40代ほどに感じるのは引っかかる。それにこの平たい調子、人がケガをしているという感じではない。
いや──人が助けを求めているのだ。躊躇している場合ではない。
Hさんは大丈夫ですか? 開けますよ? と声をかけつつ、ドアノブを握ろうとした。
その服の裾を、Iさんが掴んだ。
「え、どうしたの」と振り向くと、Iさんは真っ青な顔になっている。
口を真一文字に結んで目を見開いて、ぶるぶると首を振っている。
「なに、どしたの?」
Hさんが尋ねると、Iさんは見開いた目をドアのに向けた。顎を使ってドアの低いところを示す。
ドアの、下の方?
Hさんは黙って、その位置に視線をやる。
やがて、気がついた。
「あの、すいません。救急車、呼んでもらえますか」
と言っている女。
その声の発されている位置が、低い。
「電話して、呼んでください。まだなんとかなると思うんです」
声は、Hさんたちの太股の高さからしている。
膝立ちしたよりも低い。
幼稚園児よりも低い。
しかし声は大人の、中年の女の声だ。
「あのう、すいません。まだなんとかなると思うんです」
女はずっと一本調子で、不自然に低い位置から、ほとんど同じ文章を繰り返し、繰り返し、呟き続けている。
感情も抑揚もない。
「あのう、すいません。救急車、呼んでください。まだなんとかなると思うんです」
ぞっ、とした。
人ではない、という直感があった。
HさんとIさんはふたりで部屋の奥へと逃れた。小さなビジネスホテルの一室だ。ベッドの脇、窓のそばへと行く。
ドアのあちら側では小さく、
「あのう、すいません。救急車、呼んでもらえますか」
と繰り返している。
震える手でスマホを取り出した。脅かしとかそういうものではないと確信していた。
しかし、ふたりともに電波が入らなかった。
他の誰とも連絡が取れない。
ふたりは身を寄せあって、口をしっかり閉ざしていた。
10分も経っただろうか。
ふつり、と女の声が止んだ。
しばらくは動かずにいた。やがて、HさんはIさんに囁いた。
「行ったと思う?」
Iさんは首を振る。「わかんない……」
窓の外の陽は傾いている。夕方の気配があった。
スマホも通じないとなれば、廊下に出るしかない。
「……わたし、出ようか?」とHさんが言うと、うぅん、とIさんは答えた。
「私が見るよ。頭ちっちゃいから、パッと開けて一瞬だけ顔出して、右と左を……」
「大丈夫?」
「一瞬だけだから。その……向こうもどうこうできないと思うし」
向こう、と表現した時のIさんの顔はこわばっていた。Iさんも、さっきの声の女は人ではない、と思っている。もちろん男たちのイタズラでもない。
このホテルにいる、なにか。
「覗いてみるからさ、私のそばにいてくれない……?」
Iさんの言葉に、Hさんは頷いた。
幸い部屋の床にはカーペットがあり、足音はしない。
すり足でドアまで行って、Iさんがドアノブのカギ、Hさんがチェーンをつまむ。
同時に外して、左右を伺って、閉める。これを数秒でやるつもりだった。
瞳を合わせて、無言で「せーの、」と息を合わせた。
カギとチェーンを外す。
ドアを開ける。
左、右に目をやった。
「あ」
Iさんが短く呻いた。
ドアを閉める。カギとチェーン。
ロックしたIさんの手、身体全体が震えている。口に手を当ててどこも見ていない。
どうしたの、と尋ねたHさんは腕をひっ掴まれ、奥、窓のそばへ。
「やばいやばいやばいやばいやばい」
Iさんは小声で呟いている。
何が? ねぇどうしたの、大丈夫?
Hさんが恐怖を殺して幾度も静かに問う。
ようやく、Iさんは少し落ち着いた。
「ひ、左は、なんにもなかったの。廊下がずっと続いてて」
「うん。うん。じゃあ右は? 階段のある方の」
Iさんは首を強く振る。答えたくないらしい。
「誰かいたの……?」
肩に手をやって尋ねると、Iさんが口を開いた。
「マネキン」
「え?」
「マネキンがね、あったの。右の廊下の真ん中に」
「それって、下にあったマネキンじゃない? 男たちが持ってきて廊下に」
「ちがうの。だって足音とかしなかったでしょ? それに下のは壊れてたし。でも廊下のは綺麗で、か、髪があって」
Iさんが大きく目を開く。
「黒くて長い髪で、こっちに背中を向けてて、手は、手はわかんなかったけど、足がないの。腰から下が無いみたいで」
涙目になりはじめた。
「あの、あの高さってさぁ、ちょうどドアの向こうで声がした、あの高さだったと思う……」
聞いたHさんの体の芯がぎゅっと冷えた。
「わかった。わかった」わざと力強く言う。「私も確かめてみるから」
「ダメだって! ダメだよ!」袖を掴まれる。
「だって見直してさ、マネキンがあったらどうするの? あるだけじゃなくてさ、」
Iさんは畳みかける。
「動いてたら、真ん中から端に寄ってたりしたら、こっち向いてたりしたらどうするの? こっち向いててさ、もしも顔が、」
Iさんは身震いした。
「顔がマネキンじゃなく、人間だったらどうする?」
ぞわっとした。
Hさんの足が固まってしまった。
Iさんはいきなりベッドのカバーを引っぱった。埃が舞う。
「カバーと、布団とか結んでさ、この窓から降りよ?」
「ダメだよ!」Hさんは声を抑えつつ叫ぶ。「ここ4階だよ?」
「でも廊下に出れないし、スマホもダメだし、もう窓しかないよ。ここから出るしかないよ。ほらもう夕方だよ?」
窓の外はわずかに赤くなりつつある。
「ねえっ、このまま夜になったらどうするの? 真っ暗になったら、帰れなくなるよ!」
取り乱すIさんをなだめつつ、Hさんは混乱しながらも考えた。
男たち3人は、まだホテルの内外にいる。
叫んでいたひとりを除いても、あとふたりはいる。
夕方になってしまう頃には、誰かが探しに来てくれるはずた。いや、絶対に探しに来る。
Hさんはそう自分に言い聞かせる。
「Iちゃん落ち着いて……ほら、こんな高さじゃ降りらんないよ」
と言いつつ見た窓の下には、植込みの先に駐車場が広がっていた。5人で乗って来て停めた車も見える。
「ほら! ほらっ! 車あるよ!」
「あっ……ホントだ……」
「電話は無理でもライトとかつけてさ、みんなが車に戻ってきたら、呼ぼうよ。ね?」
「でも、気づかれなかったら」
「おっきい声で呼べば届くって、絶対! ほら窓も開くよ!」
転落防止だろう。窓は半分も開かない。しかし声は届きやすくなる。
「だからここでさ、誰か戻るまで待ってようよ!」
車を見て安心したのか、Iさんは無茶はやめる、と言った。男たちが下に現れるのを待つことに同意した。
時折窓の外を眺めつつ、ふたりはまんじりともせずに、誰かが来るのを待った。
おそろしく長い時間を待ったように感じた。
30分ほどした頃だった。
下から話し声がした。
「あっホラ、来た!」
駐車場に、一緒に乗ってきた男2人が歩いてきた。
階下で叫んでいた先輩の姿はない。
しかめっ面で頭を掻きながら喋っている。口の動きや表情で、「先輩も女子もどこ行っちゃったんだぁ?」といった会話をしているらしいのが伝わってきた。
窓を限界まで開ける。
スマホのライトを点けて、おーい! おーい! と叫びかけた。
へ? ん? と見回していた男たちが、こっちを見上げた。
「えーっ? ふたりとも、どーしたのー?」
一方が口の脇に手を当てて大声を出す。
──本当のことを言ったら来てくれないな、とHさんは考えた。
「あの、あのさー! なんか、ドアが開かなくなっちゃってー! 歪んでたらしくてー!」
「マジでー? ふたりとも大丈夫ー?」
「大丈夫ー! スマホも電波入んなくて、困っててー!」
「わかったー! そこ4階ー?」
「うん! えーっと」ベッド脇のテーブルに数字がある。「406号室ー!」
「わかったー! いま行くから、待っててな~!」
叫んでいた彼は、グループ内でいちばん年下の後輩に車のキーを投げた。「先にエンジンかけといて」と指示したらしい。男たちはみんな車の免許を持っている。
一方は車の中に入り、Hさんとやりとりした方は「待ってて~」と言い残して、ホテルの陰に消えた。
「よかったぁ……」
HさんとIさんは力が抜けて、ホコリまみれのベッドに座り込んでしまった。
叫んでいた先輩の行方は気になるが、まずは自分たちの脱出が先だ。
5分もしないうちに階段を昇る足音、続いて床のギシギシしなる音がした。「うわ、この階もボロいな」とぼやく声もする。
来てくれた……!
HさんとIさんはため息をついた。
ふたりはドアまで出向いた。まずチェーンを外す。扉の向こうから「406……ここか」と聞こえた。
こんこん、と控え目なノックがした。
「ふたりともここ~? 大丈夫~?」
「うんそう! ゴメンね来てもらって! あの……」
何の変哲もない声音だったが、一応尋ねた。
「廊下に、へんなものなかった?」
「変なもの? なにが?」
即答だった。
「マネキン」は、もうないようだ。
二度目の安堵の吐息が漏れた。
「いや、いいのいいの」
Hさんはドアノブのカギをそっと開ける。
「立て付けが悪くて開かないみたいでさぁ! そっちから開けてみて?」
「わかった~」
ノブが回って、ドアが開いた。
「あ~大丈夫だよ! 開いた開いた!」
言いながら、彼が入ってきた。
黒い髪のマネキンのようなものを背負っていた。
恐怖が振り切れた。
HさんはIさんの腕を掴むと同時に、目の前の彼をドン、と突き飛ばして廊下に走り出た。
Iさんも無言で、足を止めることなくついてくる。
躊躇なく走り続けて、1階の玄関まで出た。
外に出て駐車場の車まで行くと、助手席のドアが開いている。
叫んでいたとおぼしき先輩がげっそりした顔で座っていた。
うわっ、とHさんとIさんが驚くのを、先輩が力なく見返す。
「あ~、来たんだぁ……」先輩の声は砂利のようにざらついていた。
「せ、先輩、どうしたんですか……?」
Hさんが聞くと、運転席にいた後輩が代わりに答える。
「なんかさぁ先輩、俺らと別れ別れになっちゃって、うろついてたらポコッと記憶、飛んじゃったらしくてさ」
先輩は黙って頷いている。
「そんで、気づいたら1階にいて、メッチャ疲れてて、ずっとロビーのソファに横たわってたらしくて。で今、出てきて、風に当たってんの」
先輩はウンウン、とまた頷く。
「いやぁ……運転で……疲れたのかな……」
ざりざりした声でそう呟く。
「そ、そうなんですか」
「お疲れ様です……」
ふたりはそれだけ言った。
先輩は、3階あたりで絶叫しながら移動してきたことを覚えていないらしかった。
他の男ふたりも、あのすさまじい叫びを耳にしていない様子だ。
そこを追及しようとは思わなかった。
運転席から後輩が身を乗り出す。
「あれぇ? 迎えに行ったんじゃなかったっけ? まだ?」
ふたりを助けにきた彼のことを言っているのだ。Hさんが突き飛ばしてきた彼である。
「う、う~ん、あのねぇ」
Hさんは小首をかしげつつ答える。
「なんか、もうちょっとかかる、みたいなことを……ね?」
隣のIさんも「そうそう!」と目を泳がせつつも同意してくれた。
後輩は「しょうがねぇなぁ」と呟きつつスマホを取り出す。
「ここ電波入りづらいんですよぉ。次にどこか行く時は、もっと海とか町とか……あれっ」
液晶を覗きこむ。
「あれっ、ここ入るわ。え~さっきまでダメだったのに……かかるかな? ちょっと電話してみますね!」
タップして、耳に当てる。
「……あ、かかった……あっ、もしもし?」
電話が通じたようだった。
「もしもし、今どこですか? 女の子ふたりとも、こっちに着いてますけど。夕方なんで早く帰りま……はい?」
後輩は、向こうの話すことを聞いている。「はぁ」「そうですか」と短く返事をする。
やがて電話を切った。腑に落ちない、という顔つきをしている。
「どうしたの……?」Hさんは尋ねた。
すると後輩は、首をかしげながら言った。
「よくわかんないんですが、『もうちょっとかかる』って話でした。
『まだなんとかなると思う』って、言ってたんですけど……どういう意味ですかね?」
…………………………。
HさんとIさんは先輩の座る助手席のドアを閉めた。
自分たちは後部座席に乗り込む。
Hさんは運転席の後輩の肩に手を置く。
「出して」
「は?」
「車、出して」
「えっ?」
手に力を込めて、脇から後輩を覗きこむ。
「早く、車、出して」
「アッ、はい」
Hさんの形相に押された後輩は車を出した。
助手席の先輩はぐったりしつつ、「えっ……ちょっ……待てよ……」とかすれた声で言う。
HさんとIさんはまっすぐ前を向いて、無の境地で座っていた。
3分ほど走った。
さすがにまずいのではないか、と思った。
山中の、廃ホテルである。
このまま帰ると文字通りの「見殺し」になりかねない。
横にいたIさんも「ちょっと……」という顔をしていた。
「あの……やっぱり戻った方がいいかな?」
「当たり前じゃないですかぁ!」
ハンドルを握る後輩に叱られた。
ゆるゆると山道を戻りつつ、Hさんは起きたことを説明した。
前部に座るふたりは「えぇ……」「なにそれ……」などと言い、青い顔をしている。
特に先輩は真っ青な顔で、「いや……おぼえてない……」と喉をしきりにさすっている。
やはり仕込みやドッキリではなかった。
運転席の後輩、助手席の先輩の顔に、「やっぱりこのまま帰ろうか……?」という気持ちがよぎるのを、Hさんは幾度か見た。
幸いなことに、ふたりを助けに来て突き飛ばされた彼は、ホテルの玄関まで出てきていた。マネキンは背負っていなかった。
ただし。
顔面は涙や鼻水で濡れていて、目も口も頬も丸めた紙のようにクシャクシャになっていた。言葉もろくに話せない。
この10分ほどの間、ずっと号泣していたらしかった。
まだ涙目で息の荒い彼を乗せて、暗くなりはじめた山道を、車は下りていった。
落ち着いた彼に泣いていた理由を聞いても、「わかんない」「おぼえてない」としか言わなかったという。
その後は、HさんにもIさんにも、男3人にも、変事はまったく起きていない。
「カワムラさん一家とか何とか言ってましたけど……。やっぱり噂ってアテにならないんですねぇ。っていうか心霊スポットとか、行っちゃダメですよ、ホント」
Hさんはしみじみとそう言うのだった。
ホテルはその後、権利関係のゴタゴタが片付いたらしく、いちど更地になった。
今では山に似つかわしくない、やたらと広い駐車場になっているという。
そこに車を停めた人がドアの外から、
「あのう、すいません。救急車、呼んでもらえますか」
──と言われたりしないよう、ただただ祈るばかりである。
【完】
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ヘビーリスナーで編集・ライターでもある某氏💀が手掛け、「禍話」からも8話ほどが収録されてしまった怪奇ホラー児童書、
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☆本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」、
シン・禍話 第二十八夜 より、編集・再構成してお送りしました。なお本文中の名前はすべて仮名です。
★「禍話」とは何か? につきましてはこちらも無料・本当にいつもありがとうございます・ボランティアで運営していただいている「禍話wiki」をご覧ください。
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