【連載版】106つ、または107つ、ないし108つのジョー・レアルの生首 55&56
●55
ダラス氏は押し黙ったまま、奥方の言い分をずっと聞かされていた。目の端にさっきの冷や汗とは違う液体がたまっていて、顔が真っ赤になっていた。
たぶん、トラブルが起きるたびに、いや会話を交わすたびに、ほぼ毎日こういうやりとりが繰り返されているのだろう。
奥様が文句を言う。旦那が反論する。しかし奥様は「あなたが旦那様なのだから」と言って、自分の責任を回避する。どれだけ自分が悪くても、だ。
それを思うと、俺も目を閉じて首を振りたくなった。結婚が人生の墓場なのではない。結婚相手が自分を墓場に突き落とすのだ。誰もいなくて、一人で横たわるしかない墓場の中に。
しばらくそのままにしていたが、ウエストが馬車の上についた荷物を投げ落とす音でハッとした。こんな犬も喰わないやりとりで時間を浪費したくない。
あのなぁお二人さん、と言おうとした直後に「あらっ!」と奥方が叫んだ。今ウエストが投げ落とした大きな鞄を指さす。
「あれに入ってるドレス、あれは昨日買ったものなの」
「そうなんですか」
思わず丁寧に答えてしまった。
「……ねぇ、その最新の一着だけでも、残していってくださらない?」
「………………」
「すごくいいドレスでね。ほら、ドレスなんて、奪っても仕方ないでしょう……? だからあの中の一着だけでも……ねぇ?」
「………………」
今度は俺たちが黙る番だった。驚いたのもあるが、呆れてモノが言えなかった。厚顔無恥とはこういうことを言うんだろう。
こいつ、怒鳴るかぶん殴ってやろうかと思った直後、隣の席から強く、太い声がした。
「…………あなた方にお願いがあります」
ダラス氏はつっかえずに、決然と言った。
「私をあなた方の仲間にしていただきたい」
●56
奥方も俺たちも全員が言葉を失った。
何を言い出すんだこいつは、と俺は思った。俺は強盗で、こいつは身ぐるみ剥がされる側だ。それなのに仲間にしてくれと言う。
俺たちの脇ではウエストが上から落っことしてくる荷物がドサドサ言っている。なのでこの変な沈黙が余計に際立った。
ダラス氏は言い継ぐ。顔はバカ正直なくらい真剣だった。
「お金なら差し上げます。持ってるものは何でもあげます。知識も情報も何もかも。銭勘定もできます。なので私を仲間にしていただきたい」
「……おいあんた」珍しくモーティマーが尋ねる。
「どういうつもりだ? 気でも触れたのか? 何を企んでいる? 持ってるものを俺たちにみんな渡して、アウトローの仲間になったとしよう。それで、あんたが得るものは、一体何だ?」
奴がこれだけ長く喋るのは久しぶりだった。だが長いだけあって、俺の聞きたいことは全部含まれていた。
ダラス氏はキッとした表情で俺たちを見ながら、こう言った。
「あなたがたがその稼業をやっているのと同じ理由です。私は──私は、自由が欲しいのです──」
ダラス氏の両目の端に、膨らむように涙が溜まった。
自由。
久しく聞かなかった単語だった。その一言は俺の胸に確かに刺さった。
「私は、私はね、生まれてこの方ずっと、不自由に生きてきたんです。身も心も厳格に育てられ……やりたくもない勉強にいそしみ……親の願った手堅い職について……そして紹介された相手と結婚……!」
ダラス氏の顔が赤くなりはじめた。だがさっきの耐えている錆びた赤色ではなく、爆発しているような鮮やかな赤だった。
「あなた方にとっては金持ちの、安定した、まともな人生で、バカな冗談に聞こえるかもしれませんが! 私は、私は今まで生きてきてね! 幸せだと感じたことがないんですよ! これでよかった、これでいいんだと思ったことが! 一度も!」
ダラス氏の目からついに、ぼろぼろと涙がこぼれはじめた。それを太い指で拭いてから、
「……だから、これは機会だと思ったんです。護衛を外したすぐあとに、あなた方のように話を聞いてくれる、腕の立つアウトローの集団に出会えたこと…… これは、天が与えてくれた、自由になるチャンスだと、そう思ったんです……」
涙も言葉も出し終えたらしいジョン・ダラス氏は鼻をすすりながらうつむいた。そして最後にこう一言だけ、付け加えた。
「夢なんです…… ……勝手気ままに……自由に生きるのが……」