砂脈
あの日のことはよく憶えている。
平成から令和になった年の師走、私は14歳だった。
学校からアパートに帰ってきた私の鼻を、シチューの匂いがくすぐった。母が台所で鍋をかき混ぜている。
「おかえり紗智。あのね、買い忘れたものがあって……」
鍋を見てて、と母は言う。
私は外出の用もなく、読みかけの漫画もあったから承知した。
火を弱めてから食卓の椅子に座り、漫画を読む。時折ガス台へ行き、焦げないように混ぜる。つまみ食いもした。人参はまだ硬かったが、母のシチューはコクのある甘さで絶品だった。
何度目だったろう。
ページを眺める視界の隅に影が現れた。
え、と目を向けると、ガス台の前に人が立っている。
黒髪が膝の裏まで伸びた、細長い女だった。
女は鍋に左手を入れてゆっくりと動かしている。料理の真似事をしている、となぜか思った。
女はゆっくりと振り返った。
その顔──
全てが茶色い。
目も鼻も口も頬も、砂粒が集まって形作られていた。
その一粒一粒がぞわぞわと動いている。
女は鍋から手を出した。白いシチューがべっとりと付着し、湯気を立てていた。
「ごはん、できたわよお」
女は大声で言った。
茶色の唇から砂がこぼれる。
白くなった腕を振り上げながら女は、
「ごはん、できたわよお」
「ごはん、できたわよお」
と繰り返す。
私は動けなかった。
腕のシチューがぼと、ぼと、と床に落ちる。
「ごはん、ですよお」
女の全身がこちらを向いた。
体が跳ねた。私は一直線に自室へ走り込み、鍵をかけた。
布団を被って震えていると、玄関が開く音がした。
「なぁにこれ……紗智? 紗智?」
声に安堵して部屋を出ると、母はじっと床を見ていた。
いくつも垂れたシチューの白に、砂粒が浮いている。
「今日、何日だっけ」
いきなり母が尋ねた。
「と、十日……」
答えると母は「あ~、そうか」と呟いてから舌打ちし、床を蹴った。
それからスマホを出して、電話をかけた。
「あ、母さん? ごめん、見つかっちゃったみたい」
【つづく】