【怖い話】 扇風機の家─前編 【「禍話」リライト⑳】
大学生の夏休みは長い。
Tさんは実家から大学に通う地元組だった。
ある年の夏休みのこと。
引っ越してきて通学している友達はあらかた実家に帰ってしまい、地元の学友はみんなよそへ遊びに行き、高校以前の同級生は大学のある地域から帰ってこない。
そんなことが重なって、Tさんはしばらくの間、一人ぼっちになってしまったそうである。
ヒマ潰しがてら短期のバイトでもしようか。そう思ったが、
「なんか親がいい顔しなくて。俺たちが稼いでやってるんだから働かなくていいだろ、みたいな。俺、実家暮らしだから逆らえないし」
しかしながら金もあまり持っていない。一日中家にいるのも嫌だし、図書館かマンガ喫茶で日がな一日過ごすのもつまらない。
ちょうどそんな時、大学の友達の一人から連絡があった。
ひとりか? ヒマか? と問われたのでウンすっげーヒマ、と答えた。
友達は隣の町で、親戚の家の留守番をしているのだという。夏休み中はほぼずっと、そこに住むらしい。
その親戚は毎年夏、この時期に旅行をするため、まるっと1ヶ月ばかり家を空けるのだそうだ。
1ヶ月も家をカラにするのはどうしても防犯上気になる。だが留守番としてわざわざ人を雇うわけにもいかない。だからあまり親しくないものの、近場に住む親戚の彼に声がかかった。
「高級住宅街でさ、すげぇ屋敷なんだよ。俺昨日から来たんだけど、こう…………あんまり、広すぎてさ、一人じゃさびしいんだよなぁ」
お前、ヒマならこっちに来ないか? ゴージャスな家だぞ。酒もゲームもあるぞ。留守番するだけだから、ほぼ一日中遊び放題なんだぜ。何日間かこっちに、どうだ?
断る理由などどこにもない。これっぽっちもない。
厳密に言えば「留守番のバイトの手伝い」ということになるが、お金はもらわないわけで、つまり「友達の家に泊まりに行く」ようなものである。親もそこまでは目くじらを立てなかった。
声をかけてきた友達がTさんの両親と顔見知りだったこともラッキーだった。あまり先方ではしゃぎすぎたりしないようにな、とだけ釘を刺されて、Tさんは喜び勇んで隣町へとバスで向かった。
それが始まりだった。
〈1日目〉
昼過ぎ。Tさんがバスから降りたのは、隣町の一等地だった。
デザインと空間にこだわったとおぼしき様々な家が、高い塀の向こうに建っている。
白や黒や茶色の、汚れのない塀が長い。一軒一軒の土地がとても広いのがわかる。空気が澄んでいるように思える。Tさんが進む道路も普通の道路より綺麗に見えてくる。
これは錯覚なのだが、どこからかいい匂いがしてくるように感じた。パンの焼ける匂いとか、芝生の青く湿った匂いとか、そういう快い匂いが漂ってきそうな街だ。Tさんは思った。
会社も夏休みの時期なのか、塀の向こうでお父さんと子供がはしゃぐ声がする。
こちらの塀の低い家の庭では、ご主人と犬が戯れている。
ご主人の服は高そうで、決して980円とか1980円のランクではない。犬の毛並みも艶があり、女性モデルの髪のようだ。
…………ここは、アメリカか? ビバリーヒルズとかか?
そんな住宅街を歩いていたTさんは、自分の服装があまりに場違いなので、徐々に恥ずかしくなってきた。
俺がここにいていいのか? 大丈夫か? そろそろ着くと思うんだけど、俺、通報されないかな?
「おぉーい、こっちこっち」
ある屋敷の門から、Tさんを呼んだ友達が手を振っていた。彼も「こっち側」に近い服装なので、安心する。
門まで早足で行き、「ここ、すげぇなぁ」と本心から呟いた。
「そうだろ? すげぇだろ? でもここのウチもすごいんだぞ?」
導かれて、むやみに巨大な門をくぐった。
庭が広い。おそろしく広い。子供どころか大人が元気に芝生の上を走り回れる。見れば庭の真ん中に、山に建ってたりする屋根つきの休憩所のようなやつもある。
「なにあれ! あれじゃん! 山に建ってたりする屋根つきの休憩所!」
「アズマヤな」
「アズ……マヤ…………?」
「あれアズマヤって言うのな。ヒガシに屋根のヤで、東屋」
「…………なんでそんなものが庭にあるの?」
「お金持ちだからじゃね?」
「こんな家が犯罪行為なしで建つの?」
「不動産業だってさ」
「あぁそう……そうか…………そうかぁ…………」
あるところにはあるもんだな、とつくづく、しみじみ思いながら、Tさんは友達と家の中に入った。
トイレや風呂の場所をさっと説明されてから居間のドアを開けると、天井にゆっくり回る羽根がついていて、ゆっくり回っている。
「うぉーっこれアレじゃん! 天井で回るやつ! 空気をかきまぜる! お金持ちの家にあるやつ!」
「まぁ、お金持ちだからな」
居間とキッチンの間には小さなカウンターがあり、後ろに酒瓶のたくさん並んだ棚がある。
「うぉーっこれちっちゃいバーじゃん! お金持ちの家にあるやつ!」
「まぁ、お金持ちだからな」
庭に続いて部屋もいちいち広く、絨毯もソファーもフカフカだった。自宅の布団より柔らかいかもしれない。
うおー、うわー、と感嘆の声を上げ続けるTさん。
「それから、これ」友達が長方形の紙の束を見せてくる。「しばらくの生活費だって」
「ええっ?」
一万円札だった。パッと見では何枚かわからないほどの数がある。
「これ、留守番のバイト代とかは、どうなってるの?」
「これとは別にバイト代がもらえるんだ。これだけで純粋に、留守番中の生活費」
「マジで?」
「あとさ、この棚にあるお酒とか、自由に飲んでいいらしいから」
「ホントに?」
「ゲーム持ってきたから、このテレビにつないで遊ぼうか」
「テレビ……でかい!」
「寝るときは寝室じゃなくここで寝てくれ、だって」
「あっ、床で寝るの?」
「いやこのソファーを引っ張ると、ほらこういう風に、ベッドに」
「ふえぇ!?」
全てが自分の常識を越えてくる。
「これが……金持ちの家というやつか…………!」
Tさんは次々と繰り出される、冗談のような世界に驚くばかりだった。
夕方、食事時になった。今日の分は適当に買っておいたと友達が言うので、大きな冷蔵庫を開けて食べるものを出す。そして豪勢にも、ピザを頼んだ。
モリモリ音を立てるように食べながら、早速バーに置いてある酒を飲んでみる。旨い。よい意味で、学生が飲む味ではない。
俺はここに泊まるのか。ウソだろ。ここは天国なんじゃないか? もう下界に戻れないんじゃないか? あんな下々の世界には……
Tさんと友達は浮かれながら飲み食いし続けた。
そろそろゲームでもやろうかとなった夜の7時過ぎ、友達がふとこう言った。
「あっ、そうそう。あのさ、ひとつだけやっといてくれ、って言われた妙なことがあってな。
毎晩23時……夜の11時頃になったら、奥の和室に置いてある扇風機をつけといてくれ、って話なんだよ」
扇風機をつける?
「なんか、動物でもいるの?」
「いや、いないよ」
「美術品でもあって、こう……湿気を散らすとか?」
「いや、美術品とかもない。家具と小物があるくらい」
「……そんな部屋の扇風機をつけるの?」
「そう。しかもでかいやつ。2台」
「2台?」
「部屋の隅っこに置いてあるんだよな。それをつけておいてくれ、って」
「……よくわかんねぇなぁ。どうしてそんなことするんだ?」
「さぁなぁ……。一応、いま見ておくか?」
「うん」
居間を出て廊下を少し行くと、果たしてその部屋はあった。
襖を開けても、ごく普通の和室だった。
一般的な和室よりも広めだが、畳敷きに机がひとつと背の低いタンスや棚があるくらいで、目を引くような家具はない。
小綺麗に掃除してあって、ホコリっぽくはなかった。だが生活感がないので、しばらく使われていないようではある。その証拠に障子戸が一ヶ所破れていた。
部屋の隅と隅、対角線上に、場違いに大きな扇風機が1台ずつ置いてあった。
「な? ペットもいないし美術品もないだろ?」
部屋の中に入りながら友達が言う。
「昨日、そこの押し入れも開けてみたんだけど、気になるようなもんは入ってないんだよ」
Tさんは友達の様子を横目に見ながら、机や棚の上が気になっていた。
いろんなものが乗っているのである。
「お祭りの時の、射的の屋台みたいだな」とTさんは思った。
どうでもいいような品物が、たくさん並べられている。
食玩の小さい人形みたいなの、安っぽいダルマ、紙で作ったようなよくわからない筒、折り紙の鶴、お菓子の箱っぽいもの、百均で売ってそうな写真立て、ちっぽけなぬいぐるみ、プラスチック製の動物…………
そういうものがガチャガチャとひしめいていた。
「これ、ナニ?」
「よくわかんない。俺が昨日来たときから置いてあった」
「これさ、こんなでかい扇風機をつけてたら、風でグーッと飛ばされて落ちたり倒れたりしないの?」
「落ちたり倒れたりするよ。夜中にトイレに行ったら廊下にまで音が聞こえたし」
「それは、それでいいの?」
「いいんだって。翌朝7時とか8時に扇風機を止めるんだけど、落ちてたものはその時に元に戻してくれればいいから、ってさ」
「………………?」
全く合点がいかない。
空気を撹拌したり、モノに風を当てたりしなければいけないわけでもないのに、どうしてこんな大きな、業務用みたいな扇風機をオンにしなくてはいけないのか。それも一晩中。
その旨を友達に聞いたが、「さぁ……」首をひねるばかりだ。
「まぁ勝手に想像するとさ、ここ、お金持ちの家だろ?」
「うん、お金持ちだねぇ」
「そういう人たちってゲンを担いだり、風水に凝ったりするじゃん」
「あー、自己啓発的な?」
「これもその一環なんじゃないかな、って想像してるんだよね。ホラ『運気をめぐらせる』とか言って」
「なるほどなぁ」
「ただ…………」
「ただ?」
「……いや、なんでもない」
部屋に戻って再び酒を飲みピザなどを食べ、ゲームを始める。バカみたいにはしゃいでいるとあっという間に時間が経ち、11時近くになった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
友達と立ちあがり、例の和室に移動した。
戸を開けると何故かすでに1つ2つ、棚の上から物が落ちていた。どこかから風でも入るのだろうか。
それらを拾ってから、友達は扇風機をつける。弱でも中でもなく、最大の「強」にセットして、首を振らせた。大きな羽根が回り、相当に強い風が生まれはじめた。
早速、机の上の軽い小物がズリズリ動き始める。プラスチックの玩具が倒れそうになり、折り紙はもう飛んでしまいそうだ。
これ、これでいいの? 目で質問したが、うん、これでいいんだって、と目で答えが返ってくる。
電気を消して部屋から出て、友達が襖を閉めた。
「こうやって扇風機をつけて、部屋から出たら、もう朝まで入っちゃいけないんだってさ」
「…………?」
「襖を開けて覗くのもダメ、って言われてるんだ」
「……………………」
Tさんはうすら寒くなりはじめた
こわい気がする。変な儀式というか、風水や運気などでは収まらない、危ない宗教みたいな気配がする。
「変だよな。俺も変だとは思うけど、そういうことになってるから」
「…………そうかぁ」
「…………まぁさ、コレ以外にやんなきゃいけないとかやっちゃいけないことはないから、あんまり気にしない方がいいよ!」
「…………そうだな! じゃあ戻るか! 戻ってゲームやっか!!」
Tさんは、余計なことは考えないようにしよう、と心に決めた。
たぶんコイツも、こんな妙なことをしなくてはならないので、気味が悪かったのだろう。不安だったのだろう。
じゃあ事情を知らない友達としては、そんな役回りを演じてやった方がいい。明るくバカみたいに振る舞ってやった方がいい。
酒は飲めるしピザとか喰えるし、こんな贅沢な家で遊んでいられるのだから、お返しではないけど、その程度のことはしてやろう。そう思った。
部屋に戻ってまた酒を入れ始め、無限のようにゲームをやり続ける。
日付が変わり1時を回り2時になろうとした頃、友達があくびをした。
「ちょっと俺、もう寝ようかなぁ……」
「おう、いいよ」
ソファーベッドを二台引き出す。友達は横になったが、Tくんはクリアしておきたい部分があったので、ヘッドホンをつけてしばらくゲームをした。
コントローラーを握って敵と格闘し続けて、数十分。
はぁーっ
首の後ろにぬるい風が当たった、ような気がした。
集中が途切れた。いまのは? 空調が当たったわけでもない。夏だから冷房をつけているし、天井のグルグル回るやつの角度のせい、というのでもなさそうだ。
生あたたかくて、人の吐息みたいにも……そんなわけないよな。
そのおかしな風はそれきりだったので、Tさんはゲームをやりこんだ。やっておきたかった部分までは達成したのでセーブをして、部屋の電気を消して、ソファーベッドに滑り込み、目を閉じた。
静かな夜だった。
〈2日目〉
酒のせいだろうか。そうに違いない。
Tさんはトイレに行きたくなって、朝の6時に目が覚めた。
ダラダラした学生生活である。夏休みならなおさらだ。普段はそんな時間に起きない。
うーっ、オシッコオシッコ……と起き上がってみると、友達はもう目を覚ましていた。
「…………おお。お前、早起きだな」
言うが、友達はベッドに身を起こして、
「…………あぁ、うん。そうだな」
と生返事をする。
友達は、居間のドアをじっと見ていた。
そこにはくもりガラスがはまっていて、廊下の様子は完全には見えない。物があるとか人がいるとか、その程度しかわからない。
彼はそこをじっと見ていた。
寝ぼけてるのだろうか? こいつが健康志向だとか眠りが浅いとか聞いたこともないし、目覚めるとしばらくこの調子なのかもしれない。
友達はいま夢から戻ってきたような、まだ夢を見ているような、ぼんやりした口調で続ける。
「そうだよな。お前、ずっとそこで寝てたもんな。他の部屋に用事とか、ないもんな。そうだよな」
「……なぁお前、どうしたんだよ」
「なんでもない」
寝起きでボーッとしてるのか。Tさんは考えた。ベッドから這い出て居間のドアを開け、トイレへと向かった。トイレは廊下へ出てすぐそこである。
一度閉めようとした居間のドアの向こうから、「きのう…………」と呟く友達の声が聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
Tさんも友達も、幸いなことに二日酔いにはなっていない。予定通り7時過ぎに、扇風機を止めに行った。
襖を開ける。扇風機は昨晩と同じように「強」で稼働し続けている。畳の上にポテポテと、どうでもいいような小物がいくつも落っこちている。
友達が扇風機を止めた。小物を拾い上げて元の位置あたりに戻しながら、Tさんは言った。
「やっぱこうなるよなぁー。こんなでかい扇風機動かしてたらさぁ」
「うん、そうだな」
「しかしもうちょい重たいモンでも置いておけば、朝こんな作業しなくていいのになぁ~。めんどくさいよな!」
「まぁ、そうだな」
友達の反応が鈍い。ちらりと見やると、昨日までの明るさに陰りが差している。
小物を置きつつ部屋の床や壁や天井に、確認するように視線を投げる。無論、昨晩から変化などない。
部屋を出ても、居間に戻ってゆっくりしていても、友達の怪訝な顔は続く。
Tさんはそのことについては尋ねまい、と自制した。
ともすると考え込もうとする彼に、Tさんは明るく切り出した。
「この留守番のバイトさ、ずっと家にいなきゃいけないの?」
「……いや、そういうわけでもないよ。昼のうちに少し出るくらいなら、ってOKはもらえてる」
「よかった~、いくらこんな家でも、外出禁止だったらイヤだもんね~」
「そうだな」
「じゃあさ、あんだけ生活費をもらってるわけだし、こらへんにありそうな、高級志向の店に行って買い物しない?」
「……おぉ、うん、そうだな。そうだよな。今日の昼と夜に喰うものがないんだよ。ここの家の人さ、冷蔵庫を空っぽにして出かけたからさ。じゃあ、行くか?」
「行こう行こう」
高級住宅街の端にある、普段は立ち寄りもしないタイプの店に入った。
「うおぉッ、この肉は」「見たこともない野菜が」「何故オレンジジュースがこんなにも高いんだ」「俺たちの知らない世界がここに」
そんな風にはしゃぎ合いながら色々と買い込む。興奮しながら商品を手に取りカゴに入れるが、ふと友達の顔が曇ることがままあった。
家に帰ってきた。いちいち料理するのも面倒なので、ややこしいものは買ってこない。
昼寝などしてダラダラとヒマを潰し、こんな時刻からお前たちは、と世間から叱られそうな時間帯からチビチビやりはじめた。酒にゲームにテレビにバカな話と、時間は飛ぶように過ぎていく。
気づけばもう10時を半分回っている。そろそろ和室に行かなくてはいけない。
友達が「あぁ……もうこんな時間かよ」と呟いて腰を上げた。
襖を開けて、電気をつけた。
小物が、いくつも畳の上に落ちていた。
──扇風機は、回っていない。朝から扇風機はつけていないのである。
それなのに、どうして落ちているのだろう。昨日も落ちてはいたが、個数が増えている。スキマ風ごときでは動かなそうなものまで倒れている。
「あーなんか、ここ、欠陥住宅とかなのかなぁ? ナナメってんじゃない?」
Tさんが敷居を跨ぎながら軽い口調でそう言うが、友達はほとんど押し黙るような調子で「うん……」と答えるだけだった。
2人で小物を元に戻してから、扇風機をオンにした。
やはり紙製の物はツルツルと移動し、食玩は風にあおられて振動する。昨晩と変わりはない。
和室を出て居間に戻る。Tさんがゲームの続きをしようか新しい酒を開けようかと友達を見やると、彼は腕を組んでしばらく考え込んでいた。
「ゴメン、ちょっと俺、電話するわ」
腕をほどいてそう言う。夜の11時である。「こんな時間に?」「明日の朝でよくない?」Tさんは忠告したが、彼は居間の隅にある固定電話へと足を向けた。
「俺さ、ここの奥さんに電話するから、ゲーム、やってていいよ」
そう言われては仕方ない。Tさんは大きなテレビの前に陣取り、電話の邪魔にならないよう音を絞ってプレイを続けた。
後ろから友達の声が聞こえてくる。全部ではない。部分的にだ。
「もしもし………… はい、夜中にすいません……あっ、はい、…………です……大丈夫です。…………えぇ、特に…………過ごしてます……こちらも、えぇ…………
あのう、夜にいきなり………… ……息子さんって………… 婚約………… あの人って、詳しく………… ……差し障りなければ…………結局あの…………
いや、その本人じゃなくて、別のひとで………… なんか、恋人が………… いえ、ちょっと………… いえ深い意味はないんですよ。…………あぁ、はぁ…………」
深刻な声色で話すので、その場に居づらくなった。ちょうど用か足したくなったので、「おれ、トイレ!」と宣言してから、廊下に出る。
例の和室までは廊下で一直線だ。その途中にあるトイレに向かおうとしたTさんの耳に、扇風機の回る音や小さい物品が揺れ動く音が入ってくる。
閉めてあるけど、ここまで聞こえるもんなんだな。
トイレから戻ると、通話は終わっていた。だが友達は電話の前で、受話器を置いた手つきのまま立ちすくんでいる。動かない。
「絶対ウソついてる……」
彼の口から漏れ出た一言に、Tさんは気づかないふりをした。
「…………どーした? なんかあった?」
「…………」
「あれっ、なんか、悪いことしちゃったかな俺たち? 怒られた?」
「いや」
「棚の酒とか結構手ぇつけちゃったけど、いいのかな? 飲むとマズいのを飲んじゃったとか、ないかな?」
「いや、それはいいんだよ」
軽佻浮薄に話しかけようとするが、友達の口は重い。眉間に皺を寄せて、頭の中にある疑念を観察しているように見えた。
夜も深くなり、今日は2人一緒のタイミングで寝ることになった。
と、友達は無言でソファーを持ち上げて、昨日とは別の位置に移動させてからベッドの形に展開し、そのまま横になって「じゃあ、おやすみ」と挨拶してから、あちらを向いた。
最初これがどういう意味なのかわからなかったTさんだったが、
「こいつ、居間のドアが直接見えない角度にベッドを動かしたんだ」
そう気づくと、不安が恐怖に変わった。
えっ……誰か……誰かドアの外にいるの?
Tさんは怖くてソワソワしてきた。友達の視線、言動、電話の内容が繋がるようで繋がらない。それがまた怖い。
…………そうだ。自分は、この家について全然知らないのだ。
家族構成も、年齢も、顔も、何も。
手がかりになりそうなものはないかと首を巡らせると、棚に置いてある数枚の写真に意識が向いた。3人家族が写っている。
数日泊まるだけだから詮索するのもおかしな話だと無意識に思っていたのか、こんなわかりやすい位置に家族写真があるのに一度も確認していなかった。
Tさんは改めて、並べてあるそれらを眺めた。
こちらの端にあるのは、赤ちゃんと父母らしき3人。隣のは、幼児と父母である。
ははぁ、これは何年かおきに、家族で記念撮影をしているんだな。やっぱりお金持ちの発想だ。
Tさんは途中をすっ飛ばして、もう一方の端に据えてある写真を見た。
すっかり中年になったお父さん、お母さん、それに社会人になったくらいの青年がそこにいる。服装の感じからして、おそらく2、3年前に撮ったものだろう。
3人とも、面やつれしていた。
隣の5年ほど前かと思われるの写真と比べるまでもない。頬はカクンとへこみ、目の下に隈ができている。どことなく笑顔もぎごちない。不健康なやつれ方だった。
ここ数年で、この家庭に何か起きたんだな。何かが。
現段階でわかるのはそれくらいだった。怯えてもどうしようもないようだ。
Tさんはとりあえず、ソファーベッドに潜り込んで、眠りについた。
サポートをしていただくと、ゾウのごはんがすこし増えます。