【怖い話】 蔵の箱 【「禍話」リライト⑯】
戦後しばらくして、と言うから、今から五十年ほど前になるのだろうか。
Aさんは、「あなたにしかできないことをやってもらいたい」と、ある屋敷に呼び出された。
相手方はその町の、ひと昔前は庄屋とか名主とか言われていた大きな家である。
「あなたにしかできないこと」とはいかにも大仰で、Aさんが特別な存在であるかのようだが、そうではない。
Aさんはここから離れた地域にひっそりと住んでいる、ただの女性である。神通力も霊能力もない。
ただ、この家とは関わりがあった。強いような弱いような、そんな曖昧な関わりである。
Aさんは、この家の当主と、その愛人との間にできた子供だった。
「本家」に直接出向くのははじめてであったし、父親である当主はもうとっくの昔に死んでいる。
では何の用があって、「本家」は彼女を呼び出したのか。
ある “儀式” を、してもらうためである。
「ひとりで蔵に一晩閉じこもって、木の箱を開ける」のである。
年に一度、「本家の血の濃い者」が、ひとりでやらなければならないのだという。
血筋云々を除いても、様々な決まりごとがあるのだそうだ。
そんな決まりごとのめぐり合わせもあって、困ったことにこの年、儀式を行える者がいなくなってしまったらしい。
そこで、なかば無理に白羽の矢が立ったのが、「死んだ当主と、愛人の間に出来た娘」のAさんだったのである。
本家との交流も全くなかったAさんが何故、屋敷に出向いたのか。今となってはわからない。
泣き落としか、「養育費は送ってやっただろう」と恩着せがましく言われたのか、あるいは脅しじみた発言があったのか。
とにかく彼女は、そのよくわからない儀式に参加するはめになった。
指定されたその日、本家の屋敷に行った。
庄屋とか名主と呼ばれただけあって、相当に広く大きな屋敷だったそうだ。
まず長男と長女が、Aさんを出迎えた。しかし「あぁ、あんたがそうか」「じゃあよろしく」といった無礼な調子で、先方はさっさと奥に引っこんでしまった。
すると、次女と三女が現れた。この二人はAさんに、「決まりごと」のせいで、自分たちは今年は参加できないのだと言った。
ごめんなさいね。私たちができないからって、わざわざ来てもらって。ありがとうね……。長男と長女の非礼を打ち消すかのような丁寧な応対で、Aさんの不快感は薄らいだ。
奥座敷に通される。現在の当主に当たるのであろうおばあさんが、布団に横になっていた。
病気なのか老いのためなのかその両方なのか、おばあさんは起き上がったものの布団からは出ず、Aさんにひどく弱々しく挨拶をした。
……どうやらこの家、今は長男、長女、次女、三女しか「血の濃い者」がいないようである。このおばあさんが含まれるのかどうかは不明だ。
おばあさんはこの弱り具合からして除くとしても、四人もいればどうにかなりそうなものだが、実は儀式の決まりによって、長男長女は元より参加できない。
だからここ最近までは、次女と三女の二人きりで儀式を毎年持ち回りしていたのだろう。
詳しくは知らないが、たとえば妊娠したなどの理由が重なれば、儀式が立ちゆかなくなるのも道理であったろう。
それからAさんは、夜に行う「儀式」について、使用人だか親類だかの人々から説明を受けた。
やることは、
「ひとりで蔵に一晩閉じこもって、木の箱を開ける」
本当にただ、これだけだという。
木の箱の中身は、誰も知らない。長男長女はもちろん、使用人も親戚縁者も知らない。
箱は庭にある蔵に厳重に保管されていて、使用人や町の人が週に一度、蔵の内外を掃除する時も決して開けられない。
奇妙なことに、儀式をしたことのある次女や三女も、何が入っていたか「覚えていない」そうだ。
何故か。
蔵に行く直前に、酒を飲むことになっているのである。
よほど強い酒なのか、一杯飲んだだけでくらくらする。その状態で蔵に行き、箱を開ける。
酩酊状態であるからか、箱を開けたせいか、そのあたりから記憶が曖昧になる。
開けるだけなら数分で済むはずだが、まる一晩、真っ暗な蔵の中に、箱と一緒にいなければならない。
「酔った状態で、蔵に入って、箱を開けるんですよね?」
「そうですね」
「それで、箱の中身は覚えていない、と」
「ええ」
「その人が……私が、本当に開けたかどうか、どうやって判断するんですか?」
「あぁそれはね、大丈夫なんですよ」
身体に痕が残りますから、と言われた。
「…………あと?」
「そうです。腕とか肩にね、握られたような、引っかいたような痕が残ります」
「………………」
これは、とてもまずい状況なんじゃないか?
Aさんは思う。
元よりろくな儀式ではないだろうな、と想像はしていたが、箱を開けると何かに掴まれるとか引っかかれるとか、そんな現実の埒外にあるほどとは考えてもみなかった。
しかも箱の中に何が入っているのかは、全くわからない。
「でもね、その痕もたいしたものじゃあありません。それ以外は怪我もなんにもしないんですよ、安心してください」
そうは言われたが、Aさんは安心などできなかった。
夜になって月が出た。
「ではこちらに」と促され、座敷に移動する。
そこで、服を着替えるように言われた。
運ばれてきたのは古びた着物である。その上にはなんと、鬘(かつら)が乗っていた。
着物を着させられ、頭には鬘を乗せられる。
例年、蔵に入る者がいつも身につけているのだろう。
「同じ人物が、毎年蔵にやって来ている」という形にしてあるのかもしれない。
何のために?
たぶん、箱の中のものを騙すために。
「では、こちらを」
注がれた酒を出された。使用人らしき人たちは酒瓶やAさんの服を持って、襖の向こうに一度退いた。
いよいよこれを飲んだら、蔵に入らなければならない。
今から隙を見て逃げ出すこともできなさそうだ。
Aさんは一気に酒を飲もうと、器を口に近づけた。
途端にうっ……と気分が悪くなった。
これは、酒ではない。
酒とは別の、よくない匂いが鼻を突く。
これから蔵に入るのだから毒ではないだろう、しかし。
その時ふと、先の説明を思い出した。「一杯飲んだだけでくらくらする」「記憶が曖昧になる」「箱の中身は覚えていない」
これは、そういった作用のある薬物なのではないか?
私はこんな妙なものを飲ませられて、さらに蔵に閉じこめられるのか。
それは…………嫌だ。
Aさんはそっと立ち上がって、静かに障子を開けて外廊下に出て、「酒」を庭先に捨てた。
準備ができたか問われたので、酔っているように装って浮わついた口調で返事をした。
足元がおぼつかないふりをしていると、庭の蔵の前まで連れてこられた。
蔵は、ごく最近出来たかのような綺麗な姿でそこに建っていた。
二階建ての外壁が磨かれたように白い。足元には雑草もない。どうやら外壁や周囲までこまめに掃除をしているらしい。
押し込まれるように中に入れられ、背後で重たい扉が閉まり、鍵がかかった。
「酒」でふらついているふりをやめて、Aさんは中を見回した。
蔵の中はしんと静まっていて、薄暗かった。
ここもやはり掃除が行き届いており、床には塵芥のひとつまみも見当たらない。
顔を上げると、二階へと登る梯子があった。
あの上に、自分が開けなければいけない箱がある。
Aさんは及び腰で梯子を登った。
小さな明かり取りの窓があるようで、うっすらと月の光が入ってきている。その中をゆっくり進んでいく。
二階の奥の方、そこに件の箱は置いてあった。
…………その箱は、女性の肩ほどの横幅があって、高さは膝に届かない。さほど大きくはないが、がっしりとした作りの木の箱だった。
Aさんは箱のすぐそばまで来た。
これを開けないといけないのか。
見たところ、邪悪な雰囲気は受けない。
まず一度、触ってみようかと思ったが、手で触るのはためらわれた。膝頭でぐっ、と押してみる。
重い。
「ああ、この中には、人が折り畳まれて入っているんだな」
Aさんは思った。
思った直後、「えっ……なんでそんなこと……?」と自分をいぶかしんだ。
こんな蜜柑箱並みに小さな箱に、人間が入れるわけがない。しかも、「折り畳まれて」とは。どういうことか。
しかし理屈ではなく、計算でもなく、ふっとそんな考えが頭に浮かんだそうだ。
箱そのものよりも自分がそう直感してしまったことに怖くなったAさんは、梯子を降りて扉のあたりまで戻った。
とてもではないが、あの箱は開けられない。
しかし、「開けたら身体に痕がつく」という話だし、開けないわけにはいかないのだろうか。
でも、たいした痕ではない、と説明された。
最初に顔を会わせた次女や三女の手足にも、そういう痕はなかった。だからおそらく、せいぜい数日とか数週間で消えるような痕なのだと思う。
…………腕を自分でぎゅっと握って痣のようにするとか、引っかいて軽い傷をつけるとか、そういうやり方でごまかせないだろうか?
そうだ、一晩中起きて、腕を力いっぱい掴んでおけばいいんだ。
翌朝ふらつく姿で蔵から出れば「お酒に似せたものを飲んで酩酊していた」ように見せかけられるし、箱を開けた証拠として「誰かに握られたような痕」も偽装できる。
徹夜で起きているのはつらいけど、今夜はその策で乗りきろう──
夜に蔵の中に入れられたとは言え、時間を潰せそうなものは特にない。かと言って眠るわけにもいかない。
Aさんはおそろしく退屈な時間を過ごした。
夜の暗さがひときわ濃くなったので、今は二時か三時といったところか。
考え事や空想でやり過ごしていたが、そのうち腹が立ってきた。
何度も謝ってくれた次女や三女や、体の調子が悪そうだったおばあさんはいい。
問題は本家の長男長女、その周りの人間たちだ。明らかに私を軽く見ていた。
こう言うのも何だが、せっかく「来てあげた」のに、あんな態度はないだろう。
そもそも私はこの家とは交流も何もない。当主の愛人の娘というはぐれ者なのだし、こんな儀式に馬鹿正直に付き合う必要なんて、元から──
ガタッ
二階で音がした。
Aさんがぎょっとして顔を上げると、
ガタッ ガタッ
何かが動いている。
見たくないが、見なければ想像ばかりが膨らんで、もっと恐ろしい。自分はここにもう数時間いなければならないのだ。
扉から離れて、ゆっくりと、できるだけゆっくりと、梯子に足をかけて、一段ずつ登っていく。
どんなものがいても梯子から落ちないように、と腹を決めて、二階にさしかかっている部分から、そっと頭を覗かせた。
箱が、
奥に置いてあった箱が、こっちに移動してきている。
ガタッ ガタッ
箱は音を立てながら、歩くように跳ねるように、少しずつこちらに向かってくる。
「 あけないのか 」
とAさんに尋ねるように、こちらに向かってくる。
息を呑んだAさんは梯子から落ちるように降りて、再び扉の前に戻った。
音は、箱が動く音は、まだしている。
Aさんは階下で息をひそめることしかできない。
扉はぴったりと閉じられている。外から鍵もかけられている。蔵から逃げ出すこともできない。
隠れられそうな場所もない。
二階に行って、箱を開けるなどもっての外だ。あんなもの絶対に、絶対に開けたくない。
先ほどとは考えが変わっていた。「徹夜しよう」ではない。「起きていなくてはいけない」のだ。二階にかかる梯子を見据えておかなければ、あの箱がやって来るかもしれない。
背骨を伝うような恐怖を、痣をつけるために腕を掴む力に変えて、身を縮めながら起き続けた。
幸いなことに、箱のがたつく音はそれからしばらくして止み、こちらに進んでくるような気配もなくなった。
暗さの峠を越え、夜が明け始める。しかしなおAさんは気を抜かず、目を開き続けていた。
とうとう朝が来た。
蔵の扉が向こうから開けられた。本家の人間が外にいる。長男と長女もいるようだったが、寝不足の目がかすんでよく見えない。
心身の疲労でもつれる足を動かして、Aさんは蔵から出た。
ほぼ一晩握りしめ続けて、少しだけ色が変わっていた腕を一瞬だけ見て、本家の人間は「はい、開けたね」とだけ言った。
それから座敷に上げられて、流れ作業のように着物と鬘を剥がされて、それらを丁寧にしまい込むところまで終えてから、元の服を渡された。
「はい、ご苦労様。帰っていいよ」
それだけだった。
一晩あんな目に遭った人間への、それも無理に呼んだ人間への言葉ではない。
Aさんは憤慨したが、眠気と疲労のせいで、怒鳴る力も残されていなかった。無意識に、睨むくらいのことはしたかもしれない。
「何? 終わったから帰っていいよ」
先方の態度は変わらなかった。
やり場のない怒りを抱えながらふらふらと屋敷を出ようとした。すると、次女と三女がやって来て、頭を下げた。
「本当にご苦労様でした。一晩、大変だったでしょう……」
「私たちの代わりに、ごめんなさいね……」
ようやく優しい言葉をかけられて、Aさんは心にあたたかいものを感じた。
考えてみれば、長男長女とは違って、この人たちも幾度か蔵に閉じ込められているはずだ。
この二人は、自分の味わった怖さを知っている。だからこうやって同情してくれるのだ。
そう思うと、箱を開けなかった自分が思い出されて、心が痛んだ。
この人たちはちゃんと、あの怪しいお酒を飲んで、箱を開けて、嫌な目を見ているのに。自分は卑怯な真似をしてしまっている。
怒られたり、告げ口されたりすることも十分にありえたが、良心と睡眠不足のせいで「言わないでおく」という判断ができなかった。
絶縁されてもいい。でもこの二人には、ほんとうのことを言っておきたい。
Aさんは申し訳なさそうな顔をしている二人に向かって、よそに聞こえないようささやいた。
「あのう、実は私…………」
「どうかした…………?」
「箱、開けてないんです…………」
ごめんなさい、でも怖くて、とつけ足した。
驚かれるだろうか、叱られるだろうか、と二人の反応を待ったが、次女と三女は「あぁ……」と一言呟いて、互いに顔を見合わせた。
それから、同じくらい小さな声でこう言った。
「大丈夫、私たちも開けてないの」
「えっ?」
…………次女も三女も、いつぞやから儀式に呼ばれていたが、箱を開けたことは一度もない、と語った。
去年の担当だった次女も、やはり箱を開けていない。
この十年ほど、箱は開けられていないことになる。
だって怖いもの、あの箱。
何が入ってるのかわからないけど、開けちゃいけないって気配がするでしょ。
夜になると動いたりするし。
聞けば、彼女たちも酒のような飲み物は飲まずに捨てていたと言う。
Aさんのように庭に捨てたこともあれば、便所に捨てたこともある。
「あれ、変な臭いがしたでしょう」
「はい……」
「あれ絶対お酒じゃないもの。よくない薬か何かよ」
身体につく「痕」も、やはりAさんのように自分で自分の腕を握ったり、引っかいたりしてでっち上げたものだったそうだ。
「変なものを飲ませようとしたり、儀式だって言って蔵に閉じ込めたり」
「本家の人たち、長男長女じゃないからって、私たちやあなたを人身御供みたいにして……ねぇ……」
次女と三女の口から、ぽろぽろと本家への不満がこぼれ出てくる。
「そもそも長男長女が参加できないってのも、『跡継ぎに怪我でもされたら困る』っていう」
「つまり本家側の都合だと思うのよね」
「ああ、そういうことなんですか……」
「あのね、あの儀式があるせいで、私たち結婚できないの」
「……そうなんですか?」
「付き合ってる人はいるんだけど、本家から結婚はするな、って言われてるの」
「それだけじゃなくて、この屋敷にも住まわせてもらえなくて。次男次女以下は、離れた場所に住まなきゃいけないのね」
「……………………」
でも、とAさんは口を挟んだ。
「そうなるとここ十何年か、ちゃんと儀式をやってないのが続いてる、ってことになりませんか」
「そうねぇ……」
「それって、大丈夫なんですか……?」
二人は数秒、目を泳がせてから、さらに声をひそめてささやいた。
「…………あなた、ここに来てすぐ、おばあさんに会ったでしょう?」
「えぇ、布団から出ずに、体だけ起こして、私と挨拶を…………」
「あの人、両足がないのよ」
「えっ……どうしてですか?」
二人はその質問には答えなかった。
しばらく黙ってから、こう言った。
「…………要するに、認めたくないんでしょうね」
「…………?」
「もう儀式として成立してないのに、やめるわけにはいかない、っていう」
「やろうと思っても長男長女はやってはいけないことになってるし、どうしようもないんでしょうね」
「せめてもう少し、私たちに優しく接してくれてたら、まだ信用できたんだけど…………」
儀式が、儀式ではなくなっている。
眠気も疲れも失せてしまったAさんは、昨晩とは別の恐怖に付きまとわれながら屋敷を出て、家へと帰った。
翌年の、同じ時期のことである。
「儀式」の決まりを詳しくは聞かないまま帰ってしまったので、もしかしたら今年も自分が呼ばれるのではないか、とAさんは心配になった。
自分の順番でなくても、あの次女や三女の番になっているかもしれない。それはそれで気にかかる。
本家とは別に、次女の連絡先を教えてもらっていたので、電話をかけた。携帯電話などない時代なので、自宅への電話である。
呼び出し音が数回鳴って、相手が出た。男性の声だった。
ああこれが、去年言っていた恋人なのかな、と考えながら、次女に電話を代わってもらう。
型通りの挨拶を済ませると、次女がだしぬけに、
「私、結婚したんです」
そう告げた。
Aさんがえっ、あのう、去年、結婚はできない、って、と混乱しながら確認しようとした。
次女はこう静かに言った。
「本家は、なくなりました」
Aさんが二の句も継げず絶句していると、「ああ、そうそう……!」次女が続ける。
「あなたにも遺産を分けることになってるから、ちゃんと連絡しなきゃと思ってたんだ。
ごめんなさいね、本家がなくなったのが最近で、ばたばたしてたから……」
そちらに行こうか、こちらに来てもらうか、と尋ねられたので、Aさんは出向くことにした。旦那さんを紹介され、遺産の話をした。
あの屋敷と、蔵と箱についても説明された。
“その筋の人”に相談したところ、本家の屋敷はあのままにしておいた方がよい、という。
血縁の誰かが住んでしまうと、また儀式をしなくてはならなくなる。
血縁でなくても、あの屋敷には人は住まない方がいいだろう。
むしろ放っておいて、廃墟にしてしまった方がよい。
ただしあの蔵と箱、あれは放っておくわけにはいかない。
蔵の外側も内側も箱本体も、綺麗に掃除しておかなくてはいけない。
その掃除も月に一回程度では駄目で、毎週やらなければいけない。
今までの掃除も、本家の人間がやっていたわけでなく、町の人を呼んで「やらせていた」らしい。
その作業は次女や三女やAさんがわざわざ週一で来訪せずとも、町の人がそのまま引き継いでくれることになった。
……あるいは、蔵や箱をそのまま放っておくと、町全体にも障りがあるのかもしれない。
「こっちとしてもどうしようもないから、そうやって丁寧に扱っておけば大丈夫。
あとあの『箱』、あなた方は開けてないんでしょ。
それならもう関係ないから。なくなった本家とは縁が切れたものと思いなさい」
“その筋の人”はそう言ったそうだ。
Aさんは話の合間に何度か次女に聞いたのだが、本家がどんな形で「なくなった」のかは、ついぞ教えてもらえなかった。
……………………………………………………………………
──以上の話は、まさにその町で、今現在も蔵と箱を掃除し続けている方から聞いた話である。
残念ながら、 その方から直に聞いたわけではない。彼から話を聞いた人がいて、さらにその人から、話を聞いたのである。
又聞き。「知り合いの知り合いの話」というやつだ。
上記のAさんの体験や本家の顛末は、おそらくだいぶ昔にAさんが町の人に語ったものであろうと思われる。
町の中で、「こういう因縁があって、我々はこの蔵を掃除してるんだよ」と語り継がれているのかもしれない。
だから、その蔵は今も、ぴかぴかに磨き上げられた姿で建っている。
すぐ横には荒れ果てて、朽ちた本家の邸宅がある。
草まみれで崩れかけた本宅に対して、蔵の外も中も綺麗に掃除されている。周りに雑草もない。
箱も、その蔵の二階にそのまま残されている。町の人たちは怯えつつも、週に一度、その蔵の内外を掃除する。箱も、布で拭いてやったりするという。
「そんなすごい場所があるのか。ためしに行ってみたいから、どこなのか是非教えてもらいたい」
そう聞かれても、当方としてはお答えしかねる。
場所は伏せられているし、おそらく細かい部分も変えて、特定されないように語られているだろう、と思われる。
たとえば箱ではなく長持かもしれないし、蔵ではなく、離れかもしれない。
場所が明らかでないのは、「騒がれてほしくない」こともあるが、それだけではない。
それなりの理由がある。
……………………………………………………………………
つい最近、数年前に起きたこと。
町の人たちが昼、週に一度の掃除をしていると、どうも「まっとうではない」感じの男がやってきた。
変なのが来たので誰何すると、「取材をさせてほしい」と答えた。
「ここって、妙な蔵があるんですよね?」
TVや心霊DVDなどではなくて、雑誌に記事を売り込みたいのだ、と言う。おそらく裏社会もののような、あやしげな雑誌だろうと予想された。
近隣の町や市には伏せてあるが、そういう話はどこからか洩れてしまうものである。
縁が切れた次女、三女、あるいはAさんの線から遠回りで伝わったのかもしれない。
「どうですかね? 取材させてもらえませんか?」
ぐいぐい押してくる男を何度も断った。しかし彼は引き下がらない。
「場所はもちろん隠しますよ」「じゃあ写真は撮りませんから」「ここで何があったのか教えていただけませんか」「では世間話だけでも」「一言もらえません?」
どんどん譲歩しつつも、断じて撤退はしない。
しばらくの問答の末、「じゃあわかりました、帰ります」と男は折れた、かに見えた。
「取材はしませんし、記事も書きませんけど、じゃあせめて、せめてここに来たっていうね、記録だけでも残したいんですよね!
だから数枚、写真だけ! ね! これももう記事には使いません! 自分の中の記録として取っておくだけなので! 記念に撮影させてもらえませんか?」
…うさんくさい口ぶりではあったが、これ以上揉めてあることないこと書かれるよりはましだろう。
町内の人たちも仕方なく、撮影に許可を出した。もちろんそこまで信用はしていなかったから、蔵の鍵はしっかりかけた。
しかしやはり、筋金入りの輩である。
しばらくは蔵の外観だけ撮っていたものの、町の人が目を離した数分を利用して、どこからか脚立を持ってきた。
面の皮が厚いと呼ぼうか図太い根性と呼ぼうか、それを蔵のそばに立てて、二階の壁にある小さな明かり取りの窓に手を伸ばして、中をぱしゃぱしゃ撮影した。
「ちょっと! 駄目だよ!!」
町の人が怒鳴ると、
「あっ、すいません~! でもこれただの記念、記録なんで、大丈夫です! すいません~!」
作り笑顔で脚立を降りた。
「いやどうも、いい経験になりました、ありがとうございました!」
男はすたすたと去っていった。
その夜。
掃除組は念のため、変な奴が来て、蔵の中を撮っていった件を町内会長に報告することにした。
町内会長の爺さんはその話を聞いて腕を組んだ。
「んー、中まで撮るのは、よくないなぁ」
「そういう手合いはまぁちょくちょく来たけどなぁ、日によっては外側を撮るだけでまずいんだよな」
「ええっ、まずかったなぁ……すいません……」
「俺らはほら、『掃除しよう、綺麗にします』ってんで触ったり入ったりするから、その分にはいいんだよ」
それから、いやなことを思い出したようにうぅん、と唸る。
「……だいぶ昔に、似たような奴が来たことがあるんだけどなぁ。取材じゃなく、趣味でな。
そいつも強引に撮影していったんだけどな、人目を盗んでさ、蔵の扉まで開けて、中まで入って撮っちゃったんだよ。
掃除するでもなく中に入っちゃいかんのだけどなぁ。まぁ一度帰ったんだが、数日経ってから謝りに来てな。
その後もこのあたりで必死こいてお祓いを受けてたらしいんだが、まぁそいつも、あちこち無くなったよ」
「…………あちこち無くなった、って…………」
「二回目に来た時なぁ、そいつ左手をこう、骨折したみたいに、肩に巻いた布で吊ってたんだわ。
で、三回目か四回目か忘れたが、その時は手を吊ってるでもなく、左の袖がひらひらしててな。
ないんだよ、片腕。
まぁあれだな、あれは肩からごっそり、腕を無くしちまったんだろうな。手の先から無くしはじめたのかもしれんけどな」
「……………………」
あの人、この先の安い民宿に泊まる、とか喋ってたから、教えてあげた方が、と話し合っていると、どんどんっ、と戸が叩かれた。
「あのう……あのう……すいません…………」
外から情けない声が聞こえてくる。
戸を開けると、果たして今日の昼に写真を撮っていったあの男だった。
「あのう……あのう…………お祓いとかしてくれる神社とか…………このへんにありませんか…………?」
泣きそうな顔でそう言うので、とりあえず上がらせた。
男はやはり、民宿に泊まったという。
「一仕事」終えた解放感に包まれていた。食事をして、風呂に入り、少し酒を飲んだ。
まだ夜の10時で寝るには早かったが、疲れていたので電気をつけたまま、畳に寝転がる。
疲労感と酔いをゆったり味わっていると、
横になっている頭の上に、気配を感じた。
誰だろう、民宿のおばさんが入ってきたのかな。
首をぐるりと曲げて、寝ている頭の先に目をやる。
床の間に、木の箱があった。
ここにこんなもんあったかなぁ、と彼は記憶を辿る。飾りとして置くには大きすぎる。
それなりに幅があって、高さは膝より下くらいだろう。さほど大きくはないが、がっしりとした作りの、木の…………
あれ? これって、昼間の蔵に置いてあった、箱……
さっき確認した写真に、似たような箱が、写っていたような、
ガタッ
箱が身じろぎした。
体を起こそうとしたが、すぐそばに箱がある。急に動くとこいつを刺激するのではないかと危惧して、横になったままでいた。
だが、怖くて箱は見ていられない。
体は動かさないように、箱から目をそらして、ゆっくり首だけを動かす。できるだけ逆方向に、視線を移したい。
彼はおびえながら、顔を、足元へと向けた。
自分の足元には、おんながひとり座っていた。
着物を着ていた。
正座をして、両手の指先と額を、畳にぺったりとつけていた。顔が見えない。
俺に頭を下げているのか? 彼は最初そう思ったが、どうやら違う。
頭を下げている直線上には、床の間の箱があった。
箱はまだ ガタッ ガタッ と揺れている。
おんなはそれに向かって頭を下げているのだった。
頭の方にも足元にも、どちら側にも、恐ろしいものがいる。
彼はねばつく汗を感じながら、改めて動くこともできず、おんなの姿を見るしかなかった。
そのうちに、おんながぼそぼそと何か呟いていることに気がついた。
「ど……………なお…… ……していた……ま……」
自分に対してではない。箱に対して、頭をこすりつけながら、何か言っている。
かすかな声だった。注意して聴いていると少しずつ、言っていることがわかってきた。
「どこ…………なお…… ……していただ…ますか」
「どこから……なおせ… ゆる…ていただけますか」
「どこからやりなおせば ゆるしていただけますか」
全てが聞き取れた瞬間、おんなが顔を上げた。
そこには、顔がなかった。
顔面に、えぐれたような穴がボコボコと開いていて、顔のほとんどが存在していなかった。
かろうじて残った口のあたりから、
「どこからやりなおせば ゆるしていただけますか」
すがるような小さな声が漏れ出ていたという。
「気づいたら箱も女もいなくて……俺、絶対これ、昼間の蔵のせいだって思ったので……それでその、謝りにきたんですけど…………どうしたら…………」
男はそう言って震え続けている。
爺さんがぽつりと、男に聞いた。
「その女な、足元にいた」
「はい……」
「どんな様子だった?」
「いや、俺、着物とかはよくわかんないもんで……頭を下げててよく見えなかったし……
顔もあんなことになってて……あっ、でも、口から下だけ残ってて、そのあたりにほくろがあったのは……」
「口の下に? ほくろ?」
「はい、それだけ覚えてます」
爺さんがあー、うわぁー、と天を仰いだ。
「それなぁ、昔、本家が『なくなった』時の、長女だわ…………」
その場に持って来ていたカメラごと、写真は燃やされた。
取材班の男には、爺さんがお祓いのできる場所を紹介してやったらしいのだが、彼がどうなったのかは、わからない。
その「蔵」も「箱」も、まだ日本のどこかに、ある。
(完)
☆この記事は、禍話 小ネタ祭り 2019年1月14日放送分
https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/519225734
より、読み物とするため大幅な加筆・補正等を行い、文章化したものです。本文の文責は筆者にあります。なお画像はイメージです
サポートをしていただくと、ゾウのごはんがすこし増えます。