【怪奇夜話】 神も仏も多すぎる 【短編】
「これっ! その祠を壊してはいかん! 壊せばおそろしいことが起きる! あっ! そこの石像もいかんぞ! そっちのご神木にも触ってはならん! ああっ! その岩にも触れてはならぬ! そっちの御札も剥がすではないぞ!」
こぢんまりした野原に二十名ほどいた男たちは一斉に手を止め、その老人の方を見た。
ツギだらけの服を着た、頭の剥げた老人だった。白い髪が耳の上にちょろちょろと残っているばかりで、顔には深い皺が数え切れないほど刻まれているのに、鼻の下と顎にたくわえた白髭は豊かであった。腰は曲がって、大ぶりな杖をついている。一本の木から削り出したとおぼしき、手作りの杖だ。
ははぁ、この近くの村に住んでいるじいさんだな、と全員が思った。
山奥の集落にはこういう迷信深い老人がまだ一人や二人、いるものだ。
老人は男たちの目が自分に注がれていることに満足したように、大きく頷いた。
「ほれ! 作業をやめたな! よいことじゃ! お主らそのまま帰った方が身のためじゃぞ!」
右から左に左から右に、杖を振りながら怒鳴り続ける。
「しかも今夜は『シロバサマ』の日じゃでな! よそ者が山におると、『シロバサマ』がお怒りになるやも」
「じいさんよぅ」男の中のひとりが進み出ながら言った。「俺たちゃあ偉いさんの許可をもらって働いてるんだぜ」
背は高くなく若くもなかったが、どっしりと頑丈そうな体格だった。顔は真っ黒く日焼けしていて、腕も胴も太い。力仕事を何十年とこなしてきた風格がある。実際、最年長でも役職に就いているでもないものの、この男はここの親分みたいなものなのであった。
「ここにはな、道ができるんだよ。立派な道がな。そうすりゃ爺さんの住んでる地域も住みやすく……」
「……お主!」
「なんだよ?」
「石板を踏みかけておる。足をどけんか」
「おおそりゃ悪かった……って何が石板だよ! 平たい岩が埋もれてるだけじゃねぇか!」
「それは神代の時代から伝わると言われている岩で、昔そこで跳びはねて遊んでいた子供が突然」
「そんな昔話はいいんだよ!」男の目付きが鋭くなった。
「こちとら今日からやらねぇと間に合わねぇんだ!」
「そんなことはわしは知らん。ただここのモノをむやみに動かしたり触ったり、ましてや壊したりすれば、おそろしいことが」
「何がおそろしいことだ! 祟りだの災いだの、江戸時代みてぇなこと吐かしてんじゃねぇよ!」
「…………まだわからんのか?」
「何がだ!」
「周りを見ればわかるじゃろう。ここは触れてはならぬ土地なのじゃ……」
老人はまた杖を突き出して、右から左に振った。男はつられるように振り返り、右に左にと後方の情景を改めて見直した。
確かに異様な場所ではあった。
まずおかしいのは、神やら仏やらがやたらに多いことだった。
山奥や川際にぽつん、と古びた祠だの石仏だのが置いてあることはままある。男も長年の仕事でそういう不気味な遺物を見たことは一度や二度ではない。
しかしここには、そういうものがあまりにも多すぎた。
子供が五、六人走って遊べるくらいの開けた場所だ。そこに祠、石像、石碑、石仏、道祖神らしきもの、「ご神木」だという木などがひしめいている。卒塔婆を思わせる木の板が幾枚か地面に刺さっている脇に、縄を巻かれた岩が鎮座する。その隣には札で封のしてある石棺のような箱が横たわる。それにさっき男が踏みかけた、神代の時代から伝わるとか言う石板も。
ちょっとした広さしかない土地に、「そういうもの」がみっしり立ち並んでいる。
次におかしいのは、草木が生えていない部分があったことだ。周囲が鬱蒼たる森林なのにここだけぽっかりとひらけて、草の背も足首ほどしかないのも変と言えば変だが、こういう空間は経験上、ないでもない。
だがここは、周りから切り離されていた。
鬱蒼たる森林とこの野原の境に、ちょうど親指一本ぶんくらいの幅だけ、ぐるりと草が生えていないのだ。そこだけ綺麗に地面が露出している。
男は自分の足元を見た。来たときに不審に思ったその境界線のすぐ「内側」に、例の石板が埋まっている。ここからがこの場所だ、とでもいう風に。
その線の「外側」ギリギリに、一定間隔で杭が打ってある。村人たちが打ったのだろう。その間には綱が渡っている。入るな、という意味だ。
男たちは「なんだこりゃあ、気味が悪いな」「祟りでもあったりしてな」「構うこたぁねぇや」と口々に言って、ちょっと気味悪がりつつもこれをまたいで入っていったのである。
「ほうれ、あんたは気づいたようじゃのう」老人は静かに言った。
「ここはそういう場所なんじゃ。入り込むだけでも危うく、触れたり壊したりなぞもってのほかなのじゃ……」
ふと男の胸の内に得体の知れない冷たい予感が差し込んできた。だが彼は頭をブルブル振って追い払った。
「バカバカしい!」
今までもこういう現場で、そういうものを動かしたり壊したりしてきた。祟りだの呪いだのは発生しなかった。具合が悪くなるなんてこともなかった。二日酔いを除いて健康そのものの人生だ。
「バカバカしいぜ!」
男はもう一度怒鳴った。
「何が『そういう場所』だ! ええっ? 一体どんなことが起こるってんだ? 熱でも出るのか? 手足が腐るか? バケモノでも出るのかよ!」
「そんなもんではない……もっともっとおそろしい……」
「おそろしいことなんてねぇ! おいお前!」すぐ脇にいた若い奴に手を差し出した。「その道具貸してみろ!」
若い奴ははい、と及び腰でツルハシを渡した。
「おやめなされ……おやめなされ……! おそろしい目に……」
「うるせぇぞジジイ! 『おそろしい、おそろしい』の繰り返しかよ!」
男はツルハシを振り上げた。目指すは足元の「神代から伝わる石板」とか吐かす、ただの岩だ。
「…………実はのう、わしは知っておるのじゃ。どんなおそろしいことが起きるのかをな……」
老人の声は低く、暗くなった。
「あぁ?」
「しかしあんた方には、よう言えん。どうおそろしいのか、うまく言えん……言うたところで、あんた方が信じるとは思えん……」
老人の言葉には深い悲しみが宿っていた。顔の皺の奥にある瞳が深い哀しみをたたえていた。
「……へぇそうかい! 言えないってんなら仕方ねぇや! どうなるもんか! どんなおそろしいことか! 俺が試してみようじゃねぇか!!」
男はツルハシを渾身の力で振り下ろして、石板に突き刺した。
「…………その男というのがのう、このわしなのじゃ。もうずいぶん、昔のことになる…………」
田中の前にいた老人は、そう言った。
「それでおじいさん、おそろしい目には遭ったんですか?」
田中はタブレットに「地元の老人と遭遇」と入力しつつそう聞いた。
「おそろしい目に遭うたからここにおるんじゃ」老人は溜息混じりに言う。「これ以上、ほれ、『被害者』というのか。そういう人を増やさぬよう、この近くの村に住んでおる……」
老人は息をついて、杖に寄りかかるように体重をかけた。大ぶりな杖である。ずいぶんと年季の入った、手作りの杖だ。
田中は杖の下に目をやった。老人の話の通り、親指一本ぶんほどの幅で、帯状に草が生えていない。それがこっちからあっちまでずっと、田中の立っているこの野原を囲うように続いているらしい。それに沿うように杭が打ってあり、綱で囲ってある。
田中の背後には祠があり、神木があり、岩があり、石仏があり……。綱が比較的新しくなっているくらいで、今の老人の話と一緒だ。この区画は、当時と変わりないらしい。
「ほれ、そうじゃからお若い人、そこから出てきなさい。何をしに来たのかは知らんが……」
「おじいさん、僕は工事に来たんじゃないんですよ!」
田中は愛想笑いを浮かべて手をひらひらさせた。
「僕は調査に来たんです。こういう神様や仏様の研究をしてましてね。もしよろしければ、私の書いた本を……ほら、この画面に出てるのが表紙で……」
「それには及ばん。だがのう、工事やら土地開発なんぞよりはだいぶましだが、そこが、その内側がよくない場所であることにゃあ変わりない……」
先ほどの話の中では立派な体格を自称していた老人の体は今や萎びて、まるで力を感じられなかった。
「その板切れを落として石仏に当たったり、岩に足をひっかけたりしただけでも、どうなるか……」
「そのへんは注意しますし、神様も故意じゃなければ、大目に見てくれるんじゃないかなぁ」
老人は「大目に見てくれる」と言った途端、皺の中に埋もれた小さな目を見開いた。
「あんた、まるでわかっておらん! ……いや、わからんのか……わからんで当たり前じゃ……不幸なことじゃ……」
老人の全身に一瞬みなぎった力が、一瞬でしぼんだ。
「とにかく、わしがここに来たのも何かの縁じゃ。幸運じゃ。調査などやめてそこから」
「いやいやおじいさん、大丈夫ですよ。壊すわけじゃなし、触るわけでもないですから……もう少しだけ、あの祠や卒塔婆だけでも……文字でも書いてあったら記録していきたいんです」
「そんなものはないと思うがの……」
「ほう、ご覧になったんですか?」
「いいや。しかしわしにはだいたいわかるんじゃ。おそろしい目に遭うたからのう……」
「その……おそろしい目というのは……?」田中は学術とは別の部分で興味を引かれた。
「……わしの話の中で、爺さんも言うておったじゃろう。『よう言えん。うまく言えん。あんた方が信じるとは思えん』と……同じじゃよ、わしも……」
「そうですか……でもおじいさん、失礼ですが見たところ、五体満足で生きておられるようですが?」
「……確かにわしは生きておる。無事にあれから生還しておる。この齢になるまで、腰が曲がって膝が痛い他は病気というものからも縁遠い……じゃがのう、あれはそういうものではないんじゃ。嗚呼、あの爺さんの言うた通りじゃったわい。高熱でも、手足が腐るでも、バケモノでもなく……おそろしい……」
老人は身震いした。
田中は話を打ち切るように、肩にかけたカバンを持ち直した。
「じゃあ、わかりました、さっき言った通りにあの祠、あれの外側の飾りなんかサッと確認して、あとはあの板の文字を撮影して終わりにしますから」
「………………」
「心配していただけるのはありがたいし嬉しいんですけど、僕もこういう研究で生活してるもんでね」
「……似たようなことを、昔のわしも言ったわい……」
「そんなに心配なら、そこで見張っててください。僕がバチ当たりな、悪いことをしないようにね」
「……………………」
老人は無言で頷いた。半分諦めたような表情だった。
「じゃあ、さっさと済ませてしまいますから! これが終わったら土地のお話を聞かせてください! 『安全な場所』でね!」
田中は向きを変えて、祠や石仏がみっしり立ち並ぶ方へと歩いていった。
「…………何事もなければよいが…………ナンマンダブ…………」
老人の独り言が聞こえた。
昭和の時代じゃあるまいし、と田中は思った。
彼はまず祠へと足を向けた。祠はおそろしく素朴な作りで、屋根にも壁にも下部にも装飾もなく、扉や持ち手も簡素そのものだった。特徴がない。子供の工作みたいにも見える。
長年、風が吹きつけたせいか、小さな扉が少しだけ開いていた。昼の太陽光が射し込んで中が見える。しめた! とばかりに田中は覗いてみた。
中はからっぽだった。
祠の作りにもどこかの地域や宗教を思わせる特徴はなく、文字が書いてあるとか書いてあった形跡もなく、おまけに中はからっぽだ。
これじゃあ、ただ祠を建てておくために祠を建てたようなものじゃないか。
田中は首をひねりながら考えた。
「おぉい、気をつけなされよ」
境界線の外側から、老人が声をかけてきた。
田中は「大丈夫ですよ」とばかりに手を挙げてやった。まったく心配性な年寄りだ。
次に卒塔婆らしき木の板に近づいた。これにはきちんと文字らしきものが書き付けてある。
ところがこれが読めなかった。くずし字や漢字にもある程度精通している田中がまるで読めないわけがない。かと言って西洋文字やハングルやタイ語などのようでもなかった。
ちょうどそう、マンガの遠景に書いてある看板の文字のように見えた。何かが書いてあることがわかればそれでいい、意味を持たない、点と線の並びのような、そういう…………
そんな意味のない点と線を、どうして板に書いて立てておく?
俺に読めないはずがない。
いささかムキになった田中はさらに近くで見ようと一歩足を踏み出した。
肩にかけていたカバンが大きく揺れ、木の板の一枚に当たった。
「あっ」
木の板が地面から抜けて、草の上にぱたん、と倒れた。
その瞬間、田中は見たこともないところにいた。
真っ白いところだった。
そこには物体がなかった。
さっさまでそこらじゅうにあった祠も神木も石像もなく、草木の一本もなかった。空も地面もない。太陽もなければ光も影もない。
「なんだこれは?」
田中は思わずそう呟いたはずだったが、自分の声が聞こえなかった。
「そうれ……わかったじゃろう……わしの言うていたことが…………」
どこかひどく遠くから、あの古老の言葉が聞こえた。
「ここはのう、神も仏も…………祟りも関係………… 入らぬよう……見せかけの………… ちょっとした刺激…… おそろしい………… わしは100年………… …………どれだけ続くか…………気を確かにの……………………」
声はしぼむように小さくなり、聞こえなくなった。
田中がふと自分の足元を見ると、足がなかった。膝も腰もない。必然のように胴体もなく、腕も手も指もなかった。おそらく首から上もないに違いなかった。だが意識だけはあった。
無限に続く白さにあっては、もはや左右の別もなく、上下もなく、奥行きも高さもない。
太陽がなければ朝も昼も夜もなかった。明るいも暗いもなく、時の刻みもなかった。ただどこまでも白いだけだった。
そこには空間もなく、時間もなく、本当に、文字通りに、なにもないのだった。
意識だけが残る、空間も時間も感覚もないその空白が延々と、延々と、ただ延々と、続いていくのだった。
なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない
──ギルバート・K・チェスタトン
【終】
サポートをしていただくと、ゾウのごはんがすこし増えます。