17歳のジャーナリスト
大学を卒業後、本格的に英語を勉強し始めると、教材だった欧米メディアの新聞・雑誌やテレビのニュース番組がとてもおもしろいことを知った。タイム誌にしても当時から日本で見ることができたCBSニュースにしろ、吸い込まれる感じだった。
そこで、米国大学院でジャーナリズムを学ぼうと考えたのだが、もちろん、そんな簡単にはいかなかった。TOEFLやGREといったテストの点数を上げなくてはならなかった。4つの大学院に出願し、ここは確実に入れるだろうと思っていた大学院からまず断りの手紙が来た。その後、第1、第2希望の大学院から続けて、入学を認めないという連絡が来た。結局、最後の望みであるミシシッピ大学が入学を許可してくれて、ディープ・サウスと呼ばれる南部のミシシッピ州のミシシッピ大学大学院でジャーナリズムを学ぶことになった。
ミシシッピに行ってから気が付いたのが、学生が運営している新聞Daily Mississippianが大学にあることだった。しかも、毎日発行していて、スタッフはほとんどジャーナリズム学部の学生であった(日本の新聞と異なりすべて署名記事)。自分もこの新聞のスタッフになって記事を書いたことが、大学院の授業と同様、ほんとうに役に立った。日本ではメディアで働いたことがなかったので、自分にとって、この学生新聞がジャーナリズムのスタートとなった。
授業でも顔を合わせることがあったので、スタッフの名前と顔はほとんど一致していた。しかし、ある年のサマースクールが始まる6月になると、今まで見たことのない名前の学生が一面の記事を書き始めていた。しかも、1日に2本記事を書いている日もあった。しかも、どれも申し分ない記事だった。優秀な学生がスタッフになったのだろうと思っていた。
数日後、自分が書いた記事を新聞のコンピューターに打ち込むため、大学のニュースルームに行くと、ひとりの少年がコンピューターに向かっていた。彼は何をしているんだろうと思っていたら、こちらに気付き、挨拶してきた。このサマースクールから大学に入学したのだという。名前を聞いて驚いたのは、その少年はあの1面記事を書いていた学生で新聞の新しいスタッフだという。まだ、17歳!
私が驚いた様子で、なぜ、高校卒業したばかりであのような記事を書けるのか、と聞くと、「そんなの当たり前だろう」というような薄ら笑みを浮かべ、彼は高校3年間、地元の新聞社でインターンをしていてからだと答えた。彼はその新聞社で実際に記事を書いていたし、高校(公立)でもジャーナリズムの授業があった。アメリカの高校はほんとうにさまざまで美術や音楽の授業もない学校もあれば、そのような学科に加えてジャーナリズムを教えるところもある。また、アメリカでは小さな町にも、その町の新聞が存在していることがある(最近は減少傾向だが)。彼が住んでいた人口1万5千くらいの町でも存在していた。学校ではジャーナリズムを教育、町の中心ではジャーナリズムを機能させる。アメリカはジャーナリズムの存在感が大きい国だ。
彼のように高校のうちから新聞の記者として、現場で経験できるということはとても貴重なことだ。実力と経験を得ることができるのはもちろんのこと、取材を通してさまざまな人と知り合うので、視野も広がるだろう。
日本のように報道機関に入って、「記者」の仕事を記者クラブ(なかには警察の記者クラブ!)で学ぶこととは大違いだ。約20年前にアメリカから戻ったとき、「記者クラブはジャーナリズムではないよ」とか、「日本の報道機関で働く人々は会社員であって、ジャーナリストでない」とよく欧米メディアの記者にささやかれたものだった。
(写真は当時のミシシッピ大学)