生きることの曖昧さ〜わからないままで/『EUREKA ユリイカ』(青山真治)

 この映画は、バスジャック事件に遭い、目の前で何人も人が死に、自身の命の危険も感じたことがありながら生き延びた直樹と梢の兄妹とバス運転手の沢井の物語である。シネマスコープで撮影された本作は、逃げ走る人を横に追いかける移動撮影が鮮烈なバスジャック事件のシークエンスに始まり、その後の本編でもバス、電車、自転車などが何度も画面を横切ってその広さを感じさせる。しかしそれは決して爽快なだけではなく、セピア調で切り取られた九州各地の風景は、広大さのあまり虚しく物寂しい。

死の予感

 映画は死の予感に満ち溢れている。兄妹が──四人家族のうちこの時点で死んだとはっきりわかっているのは父親だけであるにもかかわらず──庭に作る四人分の墓、兄が切り刻む庭の植物。その切り口から滲み出る植物の汁は、セピアの画面であるにもかかわらず人間が赤い血を流す様子を容易に想像させる。酔い潰れた沢井の帰宅後の脱力した足のワンショットも、まるで死体のようである。最後山頂で梢が死んだ人の名前を順に叫びながら石を投げるシーンでも、その面々の最後にはまだ死んでいないはずの沢井と梢が連なる。町を発ち、逮捕やバスから降ろされることで登場人物がだんだんと減っていくことは、そのまま物語の終わりと死を予感させる。
また、この映画の底に沈むあやうさややるせなさは、視覚的な揺らぎによっても表象される。母が家出するときに映る水で左右に揺れるオブジェや、沢井が部屋で電灯をつけたり消したりすること、兄妹の作った墓の昼のショットの直後に夜のショットが来ることも、生死のゆらぎを暗示しているようにも思われる。
 さらに、連続殺人事件の犯人が沢井であるかどうかは意図的に曖昧にされ、というよりむしろ観客は刑事役の松重豊と同様に沢井を疑うように誘導される。このプロットのつくりも観客の心を不安定な宙吊りの状態にする。

生死の揺らぐ場としての海

 直樹の「海に焦がれる子ども」という役柄は、『大人は判ってくれない』のアントワーヌ・ドワネルを彷彿とさせる。ドワネルの親にも学校教員にも冷たく当たられるという境遇は直樹の孤独にも重ねられる。寄るべなさをそのまま波は引き受ける。『こちらあみ子』でも、海は終末の場、此岸と彼岸の境界として描かれていたように思う。

「大津波が来る」

 それが梢であるとのちにわかる少女のクローズアップと彼女の「大津波が来る」というナレーションで映画は幕を開けるが、このセリフはこのあと一切出てこない。風景からラストショットの山頂だろうと推測され、梢のクローズアップもあるが、そこではセリフは入らない。ただ梢が沢井に向かって歩み出すところのスローモーションだけが他のショットと明らかに差別化されて不気味に際立ち、観客は初めのショットをそのときとはまったく違った感情でそれを思い起こさざるを得ない。「帰ろう」という沢井も、彼のもとへ向かう梢も、それだけであれば事件の傷から立ち直りつつあるように見えるだろう。しかし「大津波が来る」のであり、どんな希望を持ったところで、人間は死んでしまうのだ。梢が沢井のもとへ歩いていく間の束の間のカラー映像は、希望の儚さを感じさせてあまりあるものだった。


授業の課題で書いたものを成績確定後に公表しました

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