ある光景

 男はこれから取材しに行くとある研究の情報を、手帳を読み読みざっと復習していた。ええと、網目状の組織を形成する菌類の一種を、ある特定の条件下において観察した時の反応の広がり方が...なんだこの字?よく読めない文字がある。手帳を持ち直して角度を変えたり、顔に近づけたりしていたが、結局諦めてしまった。綺麗とは言えない字だが、男が自分で書いた文字なのに、今はどうしても忘れてしまっている。妙に心がざわついて顔を上げた。電車の中はやや混んでいたが、人の隙間から外の景色が見えた。大方晴れといった感じの空模様に照らされて、どこまでも広がる住宅の海。それらを複雑に結んで張り巡らされた道を、両側一車線で歩道分離帯付きの少し太い道路が束ね上げていく。大通り沿いにだけ点在する3から5階建て程度の建物や、立体駐車場を備えたスーパーなどが代わるがわる窓を通り過ぎていく。大都会と田舎のちょうど中間。これこそが日本の原風景だろう。日本では大多数の人間がこのような街で生まれ育つことになっている…。

 気が付くと発車ベルが鳴っていた。扉の上の液晶に映る駅名を見て、慌てて電車を降りる。軽い人ごみの浸透圧でいきおいエスカレータを駆け上がると、正面にはお茶漬け屋が口を開いて、木でしつらえたにこやかな店内に手招きしていた。隣に大きなかき揚げの暖簾を垂れたうどん屋も並んでいた。動物の習性を利用したそれらの狡猾な罠に反発するようにぐるりとU字を描いて中央改札を出る。人ごみの半分と別れ、もう半分とともに左へ歩いていく。広い空間でようやく自分の速度で歩けるようになる。コンコースの両側に並ぶ、どこの駅にもあるコンビニ、花屋、パン屋などを横目で追いながら屋外へ出た。そこは二階部分のまま空中に伸びている遊歩道だった。アルミとガラスの手すりで縁取られた、どこか新しくどこか古臭くもある立体的な歩道はバスロータリーに覆いかぶさって、いくつかある階段のどこからでも上り下りできるようになっていた。正面右手に百貨店の建物があり、その奥には駅密接型の家電量販店の建物が並ぶ。駅前通りは駅の正面とは少しずれたところにまっすぐ奥まで続いていたが、遠くまで眺めていくと、建物の高さはある地点から急激に失速して、そこを通るバスや乗用車が次々に何もないただ広い道へと投げ出されていた。いまやあらゆる都市近郊や地方の中心駅の周りはこうなっている。もしここが名物の食べ物や城、湖など何かしらの観光資源がある土地なら、この通りに土産物屋が入ったり、この空中の遊歩道の目につく場所に、大きな観光MAPの立て看板と名物に関係する銅像が乗っかったりするだろうが、それ以外の要素はほとんど変わりない。男は一番手前の階段から地上に降りると、通りを逸れて早速人通りがほとんどなくなった道を進んでいった。ビル裏のような雰囲気はすぐになくなり、住宅街がそれに置き換わった。ギリギリ一周と呼べるだけのランニングコースを備えた公園を横切り、狭くはないもののおみくじは置いてない程度の神社の角を曲がると、少し開けた通りにでて、目的の建物が見えた。クリーム色のタイル張りの古い雑居ビルで、入り口の横に二階 〇〇研究所と書かれていた。ふと横を見ると白衣の男が立っている。
「こんにちは。こんどのWeb記事の記者の方ですよね?」白衣の男はなんとかという名前を名乗った。
「駅までお迎えに上がろうと思ったんですが、急に手が離せなくなってしまって。ごめんなさいね。」
 菌だかを見るのに忙しいもクソもあるかと男は思ったが、駅からここまで20分も知らない人間と世間話を交わすのを免れたことには安堵した。
「いえいえ。菌の観察よりも優先すべきことなどありませんからね。」驚いたことにひどい台詞が口をついて出た。慌てて白衣の男の顔を見たが、気にしている様子はなかった。興奮気味の熱意ある記者とでも思ってもらえているのだろうか。白衣の男は黙って階段を上っていくので、後を追った。階段は人二人分ほどの横幅で、白いペンキを塗った壁には一つだけ採光のための窓があったが、砂っぽくなって外はよく見えなかった。窓の明かりに照らされて、一段一段の床の隅に埃がたまっているのが見えた。上がりきると開きっぱなしになっている薄い緑青色の扉が一つだけあった。
「これが私たちの研究所です。両側の床にたくさん物が置いてあるので気を付けてくださいね。なんだか少し薄暗いですね。ブラインド開けましょうか。さ、こちらにおかけください。もう机にも物がありすぎですね、どかすので少しお待ちください。」
「あいや、お構いなく。机にはレコーダーだけ置かせていただければ、あとは手帳に書くので…」
「お飲み物をお出ししますね。私昨日××から出てる紅茶のバラエティパックというのを買ってみたんですが。飲んだことありますか?どれが美味しいでしょうかね?」
「あんまり…ないですね。どれでも大丈夫ですよ。ありがとうございます。」
 男は早くもこの白衣の男が嫌いになりそうだったが、なんとなくこの会話がうまくいかないのは、どちらかというと自分のせいであることも分かっていたので余計に嫌になった。部屋の一角にある応接用のソファからは研究所が一望できるようになっていた。図書館の本棚のようにメタルラックがずらりと並び、天井の高さまで様々な機材や資料が乱雑に搭載されていた。その奥で白衣の男がお湯を沸かしている。研究所には他に誰もいないらしかった。応接用スペースは部屋として区切られてはいないものの多少広々としており、ソファの目の前にはやはり書類や機材が載った低い机が、その奥には向かい合うように同じソファがあった。
「こうして話していてもアレですし、早速問題の粘菌を持ってきますね。少しお待ちください。はいこれ、紅茶です。どうぞ。」
「あぁどうも、ありがとうございます。おや、もう見せていただけるんですね。楽しみです。」男は先ほどの熱心な記者という設定を信じてもらうために、そういう態度を貫くことに決めた。白衣の男は今自分で置いたばかりの紅茶もろとも机を横にずらすと、隣にあった別の台を引きずってきて、棚のほうに消えた。ガサゴソと音がして、幅1.2メートルほどはある巨大な四角いお盆のようなものを持ってきて、台の上に載せた。
「こちらです。」
 お盆の上には四角く縁取られた大きなシャーレのようなものが載っていた。シャーレの底には半透明の寒天が敷かれていて、菌の培地になっているらしい。培地全体に蚕の繭を半切りにしてかぶせたような組織がいくつも点在し、細い網目がそれらを結ぶように張り巡らされている。網目はやがていくつかのミミズほどの太い線に合流していく。それに従って繭の密度も上がる。ミミズは何本にも束ねられ中央部分に注がれた。繭どうしはやがて連結し、列をなして一つになったり大きな塊になったりして、一番真ん中のあたりにひときわ大きくて複雑な形の組織を積み上げた。乱雑に置かれた毛布のように、いくつもの襞が折りたたまれているが、ある高さでぴったりと成長をやめた。まるで透明なふたでもついているかのように、中心部だけ平坦で切り株のようだった。何より不思議なのは表面の質感だった。肌色の組織の表面は、誰もが菌糸と聞いて思い浮かべるような綿毛状になっているところもあるけれど、よく見るとほとんどが液状で、溶けたチョコレートが表面をつたっているように見える。とても菌とは思えなかった。だからといって、ほかのどんな生物にも例えられないような見た目だった。人間の赤ちゃんを一度全部溶かして、培地にばらまいたら勝手にこんな組織になりましたと言われたほうがまだ受け入れられるような気がした。とにかく何か見てはいけないものを見ているようで、目をそらしたくなってきた。
「見ていてください。これからが面白いですよ。」
 中心の切り株の表面がふとうごめき、波打ち始めた。それに呼応するように各地でも繭がプルプルと揺れ始める。切り株にははっきり4個の盛り上がりが出来た。ゴムでできた薄い膜を4本の親指が下から押しているように見える。液状の赤ちゃんが収縮する筋肉へと変貌していく。点在する繭はそれぞれの表面張力を利用するように周りの組織から液体を吸い上げ、ミミズと網目はやせ細った。切り株を突き破ろうとする親指にはますます力がこもって、振動が大きくなった。繭も破裂寸前の水風船のように、のたうちながら膨らんでいく。いよいよ気分が悪くなって席を立った。向かいで白衣の男も一緒に立つのが見えた。いったいこれは何なんだ。部屋全体を揺らすほどの甚大な圧力が、ついに臨界を迎えた。中央にある親指がついに切り株を食い破り、まるで絵にかいた水柱のように、まっすぐに上に伸びた。いよいよこれが菌には到底見えない。ちょうど赤ちゃんの腕ほどの、波打つ肌色の柱。それが四本。明らかに異様な姿だった。昔科学館で見た、磁石に反応する流体が磁石の動きに合わせてとげとげしたり波打ったりする展示を思い出した。そういう人工物にしか見えない。次の瞬間、各地の繭も一斉に腕を伸ばした。中心にある太い腕を取り囲むように、シャーレ一面にたくさんの細い指が伸びている。軽くめまいがした。質の悪いいたずらか、そうでなければ悪夢だ。今度は中心の腕が縮む。菌というにはあまりにも生物じみた肌色の流体が、カタツムリの触覚より機敏に動く。周りの指も一緒に縮む。また中心の腕が伸びると、周りの指も一斉に伸びる。そして呼応しあって縮む。その繰り返し。何度も何度も繰り返すうちに、最初の衝撃は薄れてきたが、自分が菌糸の一連の動きに苛立ちを覚えていることに気づいた。なんだかヘラヘラ伸び縮みしやがって。周りも馬鹿みたいにそれに合わせて一緒に動く。
「苛立ちが現れたということはねぇ、羨ましいということなんですよ。」
 なんの話だ!そんな訳あるか。この菌どものどこが羨ましいというんだ。この中心の奴らか?こいつらが腕を上げると、みんなも腕を上げる、それが羨ましいという話か?適当なことを言うな。本当に違う。だってこの中心で腕を上げて、周りの菌糸が喜んで楽しそうに腕を上げているところを想像してみても、ちっともそんな風になりたいと思わない。だから、そこじゃない。
「いろんな可能性がありますよ。中心の菌かもしれないし、案外周りの菌かもしれない。」
周りの菌が羨ましいだと?やっぱりそれも違う。俺だって中心の菌に合わせて、一緒に腕を上げてみたことだって何度もあった。でもそれで心から楽しいと思えたことだけは一度もなかった。俺はどちらかというとそれを遠巻きに見て苦笑いしているような連中とつるんだ。でも、そいつらにも本気で楽しそうに腕を上げてる瞬間とか、みんなの中心で腕をあげてる瞬間とかがあった。俺だけがどちらの体験からも排除されていた。でも、それだからなんだというんだろうか?排除されているからと言って、やりたいわけではない。実際に自分がやっているところを想像しても全然楽しくなさそうなことが、なんでこんなにも気になるんだろう。断じて羨ましいわけではない。だからお前の読みは間違っている。お前の指摘のおかげで、なにかより正しいことが見えてきたことは認めるが、それはそうとお前の指摘は間違っている。
「沈黙は、肯定とみなしますよ?」
 違う。本当に違うんだよ。羨ましいわけじゃないんだ。本当に。でもどう言えばいい?どうすれば羨ましくないように見られることが出来る?どうやってそれを証明すればいいんだ?何か、羨ましいわけではないんだけど、何故か気になるということを説明できる何か、でもそれって要は羨ましいってことじゃんと、言われないような何かを考え付く必要がある。それを長い文章にしたためて、そういう奴らを完全に黙らせることができるような何かを。
「認めるということでいいんですね?」

 男は小さく「はい。」とだけ呟いた。あれからどういう会話をして、どうして駅について、なんの電車に乗ったのか、まったく思い出せなかった。そして男は、どうしても自分の家に帰れなくなってしまった。ここから何線に乗って、どこで乗り換えて、ということが頭ではわかっているつもりでも、いざ帰ろうとすると必ず肝心なところで寝過ごしてしまったりして、何かがうまくいかなくて、全然違うところにたどり着いてしまう。立って電車に乗っていても結果は変わらなかった。男はとりあえず、昔よく降りた駅に向かうことにした。当時なにかやらなければならないことから逃避する時には、いつもその駅で降りて、その駅の周りをぶらついて過ごしたのだった。そのことを思い出しながら、男は窓の外を見た。一面に倉庫や工場の建物が広がっていた。しばらく行くとこれが田んぼになったり、平野や丘に広がる住宅地になったり、大きな国道と、その道沿いの大型スーパーや家電量販店、チェーンのラーメン屋やパチンコ屋になったりする。大都会から一時間も電車に乗っていると、大体こういう風景が広がる。駅の周りにだけ人が集まり、国道の周りにだけ物が集まる。男が生まれ育ったのもそのような街の一つだった。そこで生まれた者の半分はここに残り、そこで一生暮らしを営むことになる。もう半分は都会へ行ったり、また戻ってきたりする…。

 そうしているうちに電車は目的の駅に着いた。扉が開くと流れ込んでくる間の抜けた駅の放送と入れ替わりに電車を降りる。隣のホームの同じ位置にあるラーメン屋をぼんやり眺めながらエスカレーターにのった。改札階へたどり着くと、ちょうど反対側の階段から、息を切らしたサラリーマンがひょっこり出てきて、目の前を駆け抜けていった。なんとなく後を追うように少し早足になりながら改札を出た。走り去るサラリーマンに背を向けて、左へ歩いてく。切符売り場に並ぶ券売機は、もれなくICカードを差し込まないとチャージできない旧式だ。そのはす向かいには、やはりどこの駅にもあるコンビニがあった。まっすぐ進んで突き当り、屋根付きの階段を降りるとバスロータリーがあり、階段の真下にはなぜかもう一つどこの駅にもあるコンビニが入っている。ロータリーを取り囲むように牛丼屋、ハンバーガー屋、銀行、この街を脱する唯一の足掛かりになる学習塾、そして大手の居酒屋、パチンコ屋、消費者金融が並んでいた。いまやある程度人口を擁する街にある、すべての駅の周りはこうなっている。ロータリーを囲うように必ず同じ要素が儀式じみて配置され、そこに住む人々は日々平和な暮らしを祈ってその魔方陣をまわり、時に横切った。いつでも建物の背後には空が見えた。街によって商店街が続いたり続かなかったりする程度の違いはあれど、どこの住民もじつは自分たちの駅を愛していた。男は見知った街に着いて安堵した。店もほとんど変わっていない。男はあてもなく駅前の大通りをまっすぐ進んでいたが、通りを行った先に見晴らしのいい丘があるのを思い出して、そこまで歩くことにした。ファミレス、スーツが売っている大きな洋服屋、釣具屋などを通り過ぎると左手に丘が見えてきた。男は階段になったり坂になったりする道を通って頂上へ登った。ちょっとした公園があり、展望台のようになっているところから駅側を見下ろす。さっきまで歩いていた通りがすっかり小さく見えた。小さな車が往来して、小さな人が歩いていた。突然、知らない人間が見えているのに、自分がその人を知らないままだということがひどく奇妙なことに感じられた。男は彼らの生まれも、動機も、暮らしも知らない。それなのに、そういうものはどこか遠くにあるのではなくて、眼前に存在する。行き来する車の中にも一つ一つ、なまの知らない人生があり、建物の明かりの分だけ、それがあることが怖くなった。今は丘に建っていても、またあの通りを歩くことになれば、すれ違う人や通り過ぎる車を無根拠に無害で、安全だと信頼するしかない。何か自分とも関係があり、自分と同じ規則にのっとって動いていると思うしかない。その中身には自分の完全に知らない時間が結晶されているのに。誰もいないところに行かなければならないと思った。男は走って駅に向かった。誰もいないところへ。乗り換えを繰り返し、ローカル鉄道に乗った。車窓は田んぼと、トンネルと、苔の生えた壁と、森とを繰り返し交互に映し出した。誰もいないところへ。車内には他に4、5人の乗客がいたが、全員誰なのか知らなかった。誰なのか知らない奴らが、よくわからない駅でなぜか降りて行った。こんな場所で生きるということが想像もつかなかった。しかも想像だけついても、意味がなかった…。

 電車は音を立てながらゆっくりと減速し、古い駅のホームに挟まれた場所で停止した。単線の線路はホームの中だけ二股に分かれている。ボタンを押して扉を開き、二両編成の電車を降りた。構内の歩道橋を渡って向かいのホームへ渡り、ICカードをかざしてゲートのない改札を出た。アスファルトで舗装された広い空間があり、駅にやってきたバスやタクシーがUターンできるようになっていたが、ロータリーとは言えないような空間だった。正面には戸を閉ざしたよくわからない建物と、ガラス引き戸が開きっぱなしのよくわからない建物、そして白い石つぶで地面が覆われ、錆びた鉄の杭と黄色と黒のひもで囲われた駐車場があり、その奥にまっすぐ横に伸びる県道だか国道だかがのぞき、知らないトラックが往来していた。真横に目をやると謎に新しいガラス張りの銀行の建物があった。中のカウンターには知らない人がいた。三階以上の建物が一つもないので地面を見ていても空が視界に入る。ろくな街灯が一つもない。いまやあらゆる田舎の駅はこうなっている。すこし有名な港や山がある場所ならここに観光案内所が加わるが、ほかの違いは一つもない。駅からちょうど20分歩くと街道沿いにその町のすべての生活を支えるスーパーと服屋がある。皆そこへ車で向かうので田舎の余った土地を活用して巨大な駐車場がある。この田舎のすべての需要をまかなう空間にはいくつかのバリエーションがあり、規模や人口の傾向に合わせてファミレス、ベビー用品店、ペットショップ、パチンコ屋、おしゃれ感を出した個人経営の飲食店などの有無が分かれるが、都会にないものは一つもない。しいて言えば山と海と田畑だが、それもすべての田舎に共通しているので、一つの田舎に行くだけでほとんどすべての田舎に行ったことと同じになる仕組みだ。そんな暮らしがひたすら怖い。本当は全然想像もつかないやり方で暮らしているのかもしれなかった。俺は走った。しばらく進むと立ち止まり、360度見まわして、その都度一番人がいなさそうな方向を定めて走った。山に入ってしばらくすると、道が舗装されなくなった。さらに走ってしばらく進むと、道が一つもなくなった。迷わずその森に進んでいった。日本の山には、かつてここまでの森はなく、ひたすら平原が広がっていたとどこかで聞いた。森は最初、人が植えて始まった。やがてその森は広がり、ここまで成長し、何百という世代交代が起こり、ある時、一本の老樹がその身を横たえた。その木に足をぶつけて顔面から山の斜面を滑り落ちた一人の男がいた。それが俺だった。

 俺は気を付けの姿勢のまままっすぐ斜面を滑り落ち、巨大な岩に頭をぶつけてそれに乗り上げる形で止まった。やっと呼吸すると勢いよく血が飛び出した。ひどくむせたがむせ続ける気力ももはやなかった。仰向けになると、ここが少し開けている場所だということが分かった。空がよく見える。あとは何処を見回しても木、木、木。これも最初は誰かが植えた木なのだろうか。こうして俺は今から死ぬ。俺は結局みんなのことが羨ましいのか羨ましくないのかわからないまま死ぬ。さまざまな場所ですれ違う俺の知らない人生がなんなのかもわからないまま死ぬ。でもわからないから死ぬのではないということだけはわかる。家に帰りさえすれば、わからないままでも明日を迎えることが出来たはずだ。それが今は優しいと思った。


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