ケンジくんの自転車。
二年前、子供たちに自転車が届いた。
それはサンタクロースからのプレゼント。
そう、初めての自転車。
初めて乗ったのに、こんなにすぐ走れちゃうよ!
子供たちはそう言いながら笑顔で風を切る。
上手く乗りこなせるのは補助輪のおかげだということに、どうやらまだ気づいていないらしい。
「サンタクロースが来たんだね。」と、すれ違うご近所さんたちが子供たちに声をかける。
「僕たち双子だから、喧嘩しないように2台くれたんだ!」と息子が答え、「私たちの家には煙突がないから、煙突のあるおじいちゃんの家にサンタクロースが届けてくれたの。」と娘が説明を加える。
優しい大人たちはにっこり笑って、手を振る。
「よかったね、素敵なプレゼントだ。気をつけて乗るんだよ。」
*
私が子供だった頃。
家にはあまりお金がなくて。
確か7歳くらいまでは自宅に電話もなかった。
当時は小さな長屋に住んでいて、隣の大家さんの家の電話が我が家の連絡先になっていた。そんな暮らしだから、もちろん自転車なんて与えてはもらえない。
サンタクロースがいないことは、4歳のクリスマスには分かっていた。
裏の家に住む、1歳年上のケンジくんは自転車を2台持っていた。
普通の自転車と、お父さんと山に行く時用のしっかりとした硬いタイヤの自転車。
ケンジくんのお母さんはいつも優しくて、私を見かけると手招きして、お菓子をくれたり、縁側でジュースを飲ませてくれた。
ケンジくんは体が弱くて、家で寝ていることが多かった。
具合のよいときには一緒にゲームをしたり、家の中でかくれんぼをした。
ある日、私は思い切ってケンジくんのお母さんに、
「ケンジくんの自転車貸してください。」とお願いした。
「乗ったことあるの?乗れるの?」とケンジくんのお母さんは私に聞いた。
本当は一度も自転車に乗ったことがない。
でもどうしても乗ってみたかった。ずっと憧れていた。
ずっとケンジくんが羨ましかった。
迷ったけれど。
いつも乗ってるよ、と嘘をついた。
ケンジくんのお母さんは、私の嘘も、気持ちも、全部分かっていたと思う。
私も自分の嘘はばれているだろう、と感じていた。
私が自転車を買ってもらえないこと、ケンジくんのお母さんは知ってる。
だんだん恥ずかしくなってきて、泣きそうになる。
「いいよ。乗っておいで。ゆっくりね、気をつけてね。」
ケンジくんよりも背の低い私のために、「よいしょ、よいしょ。」とサドルを下げて、ケンジくんのお母さんは自転車を私に貸してくれた。
私は自転車を引いて、車の通りが少ない道まで歩いた。
ドキドキしていた。
憧れていたケンジくんの自転車。
ハンドル、ブレーキ、ベル。何度も確認する。
サドルの高さも完璧だ。
跨がって、まっすぐ漕ぎ出す。
わぁ、ちゃんと走れる。
私はもしかしたらすごく上手なんじゃないか。
あの坂道もこのまま降りてみよう。
早い、早い、早い。
怖い、怖い、だめだ!
ザーッという音がした。
右の耳と手が痛い。
膝も痛いような気がする。
なんだか、じんじんと顔中が熱い。痛い。
自転車は?
あぁ、どうしよう!
自転車が、自転車が、自転車が。
チェーンが外れて、泥除けも曲がっている。
部品のプラスチックも割れてしまった。
ケンジくんのお母さんの顔が浮かぶ。
どうやったら許してもらえるだろう。
だめだ、許してなんてもらえない。
だって私は、最初から嘘をついていたんだから。
自転車を引きずって、私は自分の家に向かった。
母がいつもお給料の一部を隠す場所を知ってる。
少しだけならそれを抜いてもばれない。
弁償しなくちゃ、ケンジくんの自転車。
でも、そこには母がいた。
私の姿と、チェーンの外れた自転車を見て唖然としている。
あんた、それ誰の自転車?
私は泣きながら経緯を話す。
痛みとショックで、がくがくと膝の震えが止まらない。
母は一通り状況を把握すると、タンスの引き出しの奥から一万円を抜き出した。
そう、そこが現金の隠し場所なのだ。
母は隣の大家さんから封筒を貰ってきて、その一万円を入れた。
お前は来なくていい。
お風呂沸かしておきなさい、と母が言った。
そこからは、大人同士の話し合いだった。
ケンジくんのお父さんもお母さんも、母の差し出した一万円は受け取らなかった。
しばらく経って母が知人に、あの人たちは立派だよ、心が広い。と話しているのを聞いた。
その後も、ケンジくんのお母さんは私に優しくしてくれた。
翌年、ようやく母が私に自転車を買ってくれたときには、「よかったね、可愛い自転車だね。大切にね、気をつけてね。」と言って、ガラガラと補助輪の音を立てながら走る私を、ケンジくんのお母さんは遠くまで見送ってくれた。
ケンジくんとはその後も時々一緒に遊んだりしたけれど、彼の自転車を傷つけてしまったことで責められたりすることは一度もなかった。
「今年のクリスマスプレゼントはファミコンが欲しいな。買ってくれるかな。」と屈託なく話すケンジくんは、おもちゃも本もたくさん持っていて、いいよ、いいよ、となんでもすんなり貸してくれる。
そしてやっぱり私はそんなケンジ君がずっと羨ましかった。
母が買ってきたケンタッキーのクリスマスバーレルを胃もたれで眠れなくなるほど黙々と食べながら、私はひとりでドリフのクリスマス番組を観ていた。
ケンジくん、テレビゲームもらえたのかな?なんて思いながら。
しばらくして、ケンジくんたちは遠くの町に引っ越していった。
体の弱いケンジくんのために空気のよい所に住むのだという。
それからケンジくんに会うことは一度もなかったけれど。
どうか今も元気にしていてね。
そうであってね。
あぁ、ケンジくんのお母さんは。
もしかしたら、きっと。
孫に自転車をプレゼントしたりして、気をつけて乗るのよ、と教えているのかもしれないね。
そして、優しいあなたは。
はしゃいで、一生懸命ペダルを漕いで、うんと喉が渇いた小さな子供たちに、はいはい、どうぞ、ってジュースを持ってきてくれるんだ。
あの頃の私に、そうしてくれたみたいに、にこにこ笑って。
そうだといいな。
そんなふうに、幸せであってくれたなら。
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