1.8 オウム真理教との比較
ここまで、統一教会はマインド・コントロールを駆使するカルト教団であるということを、あらゆる角度から検討し、社会的に位置付けました。
ところで、日本におけるカルト教団の代表格といえば、オウム真理教であることはいうまでもありません。
地下鉄サリン事件という、世界の犯罪史上にも残る事件を起こしたオウム真理教ですが、当然、”カルトの元祖”である統一教会と、多くの点で似ています。
本項目では両者の比較をし、2つのカルト教団の類似点を抽出します。
※文中で、統一教会用語には原則として「*」をつけます。
オウム真理教事件は宗教法人解散の判定基準にはならない
まず、オウム真理教と統一教会の本格的な比較に入る前に、ふまえておくべきことがあります。
安倍元総理銃撃事件以来、統一教会の宗教二世の悲惨な実態が知られるようになって、教団の宗教法人解散が取り沙汰されるようになりました。
その文脈で、オウム真理教が、地下鉄サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件などの兇悪犯罪を引き起こして宗教法人解散に追い込まれたことを引き合いに出して、比較する論調がしばしば見られます。
その中で、「統一教会はオウムのように兇悪なテロ事件を起こしたわけではないのだから、宗教法人解散するほどではない」と言う論者がいます。
明らかな間違いです。
過去に、法の華三法行、高野山明覚寺といった新興宗教団体が、悪質な霊感商法を行ったとして、それぞれ2001年、2002年に、“一発解散”になっています。
統一教会が未だに宗教法人解散になっていない理由は、
「関連団体、関連会社のやったこと」という構造ゆえです。
教団に法的責任が及ばないようにするための巧妙な仕組みです。
それでも明らかに教団信者が加担した霊感商法の事例が、民事訴訟で何百件も積み重なっている為、本来ならとっくに解散されていて当然なのですが、
政界へのロビイ活動が奏功しているのか、放置されているという現状です。
ですから、以下のような見解、
・悪質な霊感商法をやっているかもしれないが、宗教法人解散するほどではない
・オウムのようにテロ事件を起こしてないのだから、(大して危険でもないので、)宗教法人解散するほどではない
は、いずれも的外れです。
宗教法人に絡めて、統一教会をオウム真理教と比較しようとすると、必ずこのことを言って議論を撹乱しようとする者が現れますので、先に明確にしておきます。
オウム真理教と比較されることを嫌がる統一教会信者
Twitterで統一教会を「オウムと同じ危険なカルト」というと、必ず、「我々はオウムのようにテロを起こしましたか?」と言ってくる統一教会信者が現れます。
基本的にカルト信者は、自分達がカルトであることを自覚しませんし、
別のカルト的教団の信者を指差して「カルトだ」といってバカにする傾向があります。
「我々が信じているものが絶対的に正しいのだから、あんなバカなものを狂信してる奴らと一緒にしてくれるな」というわけです。
統一教会信者も例外ではなく、オウム真理教と「似たもの」として一括りにされることを”ものすごく”嫌います。
名誉毀損だ、と訴えてきかねない剣幕の人もいます。
では、統一教会信者が、オウム真理教について、詳しく知っているのかというと、全くそんな事はありません。「地下鉄サリン事件を起こした」ということ以外に大して知らない人がほとんどです。
私は、身内のトミーが統一教会を出た直後に実際に統一信者と接したり、トミーの書いたものを分析することを通して、統一教会のことを詳しく知りましたが、その後、オウム真理教のことを調べて、実によく似ていることに気付きました。
特に村上春樹が複数のオウムの信者・元信者へのインタビューしてまとめた『約束された場所でunderground2』は出色の出来で、オウム真理教信者の状況や思考を把握するのに大変役立つ本です。
また、元信者の高橋英利『オウムからの帰還』、地下鉄サリン事件実行犯で無期懲役刑に服している林郁夫『オウムと私』なども大変参考になります。
その内容の中には、統一教会との多くの類似点が見られます。
統一教会信者が、「自分たちはオウムと違う」と主張したいならば、まずこれらの本を手に取って読んでみてはどうだろうか、と思います。
実際には統一教会信者は、統一教会が指定する教団オリジナルの本以外を読むことを禁じられているため、それは叶わないことなのですが、オウムのことを知らずして、自分達がオウムとは違う、という主張はできないでしょう。
前置きが長くなりました。
以下、オウム真理教の実態を説明しながら、統一教会との類似点を一つ一つ順番に説明します。
教祖の絶対性と信者の基本姿勢
オウム真理教は仏教系、統一教会はキリスト教系のカルトです。
仏教では、悟りを開いて輪廻転生の輪から逃れることを”解脱”と呼び、解脱した人をブッダと呼んで神聖視します。
そして、基本的に人類史上、解脱を成し遂げたのは釈迦ひとりであるとされます。
たとえば、真言宗の空海のように、日本仏教史における”圧倒的な存在”に位置付けられる人でさえ、解脱まではなしえなかったとされています。
仏教のさまざまな宗派では、「いかに解脱をなすか」ということがそれぞれ考えられており、開祖は「こういう修行をやればこのへんまでは行ける」と、解脱に至る段階を設定しています。
新興宗教ではそういうプログラムを現代風にアレンジしたり、提示したりして、教団の新規性や絶対性を誇示します。
オウム真理教では、教祖の麻原が”最終解脱者”を自称して「自分は解脱に成功した」ということを吹聴していました。つまり、自分は「釈迦以来」の超・特別な存在である、ということです。
“最終解脱者”は、あらゆる人々の”カルマ”を見切り、”解脱”に導くことができる。
信者は麻原というグル(霊的指導者)に絶対的帰依をして、「グルと一体化」することが、”解脱”へ至る最短経路、といわれて修行に励むという構造がありました。
一方、キリスト教では、”処女懐胎”に因って生まれたイエス・キリストを、すべての人間が持っているとされる”原罪”を持っていない、唯一絶対の人、という設定しています。
その一切の罪なきイエス・キリストが、謂われなく磔にされることにより、人類の罪が許された(と信じれば救われる)という教理です。
一見単純なシステムのように見えますが、これだけ聞いても、
・原罪はどのように発生したのか
・処女懐胎、とはなにか
・「イエス=神の子を殺すことにより救われる」とはどういうことなのか
・神の子を殺したという罪人たち(ユダヤ人)はどういう位置づけになるのか
・磔になって救われたのなら、なぜ今も世の中に苦しみが溢れているのか
等々、教理にまつわる疑問がさまざまに湧いてきます。
キリスト教は、公式見解としてそうした疑問に答えるような難解な教理解釈を提示していますが、仏教と同じように分派も多数発生しており、二千年に亘る教理解釈をめぐる論争が神学という学問体系を構築しています。
あらゆる分派で解決しきれていない問題を(新たな聖書解釈により)解決した、という教団が、近現代にもポコポコ出てきて、その一つが統一教会ということになります。
聖書のヨハネの黙示録では、イエス・キリストは、やり残したことを成就するため、(イエス・キリストその人として)再臨する、とされていますが、統一教会の教祖・文鮮明は自分こそがその「再臨のメシア」である、と自称しています。
自分が、イエス・キリスト以来、原罪を持っていない唯一絶対の存在である、ということを吹聴しているわけです。
教義を大部分端折りますが、その原罪のない文鮮明が、人類誕生以来、先祖から積み重なった信者の罪を”見切り”、その罪を精算できるような最適な結婚相手を選ぶのが、「*合同結婚式」です。
信者は、文鮮明という”再臨のメシア”に絶対的な信仰を持って、「メシアと一体化」することにより、原罪を解消して、「*サタンの血統から、神の血統に転換され」、すなわち”神の子”になれる。経済活動や伝道活動、種々の献金は、「メシアと一体化」していくための信仰プログラムとして設定されています。
つまり、形は違えど、仏教においては釈迦を、キリスト教においてはイエス・キリストを絶対的存在に位置づける、という既存の形があり、
教祖を「人類史上、”2人目の”絶対的存在」と位置づける、という点において、オウム真理教と統一教会は相似であるということがいえます。
そして、信者はその絶対的存在と「一体化」することが重要である、とする点でも同じです。
「いかにして教祖と一体化をなすか」ということが信者の基本的な生活意識になっています。
そのための仕掛けはマインド・コントロールの作動原理として、いくつかありますが、
特に、「自分の頭で思考すること」をよくないこととするのも共通しています。
オウムにおいては世俗的考え、世俗由来の自分に基づく考えを「観念」と呼んで否定し、統一教会では「*サタン的思考」に分類して否定します。
日頃の信仰(修行)生活から、
「それは”観念”だよ。世俗の習慣的思考が抜けていないね。ダメだよ」
「それは”*サタン的思考”だよ。”現実的”になってるね。いけないよ」
と注意しあっていたりします。本当にソックリです。
(※統一教会用語には「*」をつけます。)
信者のヒエラルキーと狂信度のグラデーション
オウム真理教も統一教会も、絶対的教祖を頂点とするピラミッド構造を構築しています。
(オウム真理教においては、「麻原と信者」という一対一の関係が重視されていましたが、信者数が増えるに従って、上意下達のシステムが構築されていき、直接話しをできる関係性がなくなっていったといいます。)
”教祖との一体度”がより高い信者が幹部として教祖の周辺におり、絶対的なヒエラルキーを構成している。
つまり、オウムも統一教会も、教祖の近くにいるほど「信仰レベルが高く」、社会の側から見ると「狂信度・盲信度が高い」ということになります。
オウム真理教は、地下鉄サリン事件ほか、身も凍るような複数の殺人事件を起こしたわけですが、信者の全てが盲目的・狂信的で、極端な暴力行為をすることに抵抗がなかったかというと、そんなことはありません。
サリン散布という世界のテロ事件史に残る兇悪な犯罪行為も、坂本弁護士一家殺人事件のような兇悪犯罪も、教祖の麻原ほか数人の幹部の犯行です。
その犯行は、実行犯以外の大多数の信者には伏せられていました。
なので、オウム真理教信者の大多数(実行犯以外・99.9%)は、地下鉄サリン事件が起きた時に、「オウムの犯行であるはずがない」と思ったといいます。
そもそも、事前にあった松本サリン事件の段階から、「国家権力がオウム真理教を犯人に仕立て上げようとしている」というストーリーが麻原によって繰り返し語られ、信者がそれを信じていたのですから、当然ともいえます。
その後、麻原が逮捕され、事件の公判が進むにつれて、オウム真理教がテロ事件や殺人事件を起こしたのだ、という事実を大多数の信者・元信者が受けいれていくのですが、最後まで「オウム真理教がそのような事件を起こす教団だとは、どうしても信じられない」という人が一定数残っています。
一部は正統な後継団体であるアレフに引き継がれ、引き続き麻原を信奉する信仰生活を続けて今に至ります。
彼らは、「オウム真理教がカルトである」ということをどうしても受け入れられないのです。
統一教会信者も、現時点では、全員が「統一教会が危険なカルトである」ということを受けいれないでしょう。
しかし、ある日突然、オウム真理教がそうであったように、教祖(現在のトップは韓鶴子総裁)とその周辺の数人がテロ行為を起こしたり、殺人事件を起こしていたことが明るみになり、強烈な社会的糾弾・排除の措置を受けることも、「ない」とは言い切れないのではないでしょうか。
その際、「統一教会を悪にしようとしている国家・マスコミの謀略である」ということがトップから語られ、信者もそう思うのではないかと思うのです。というか、現時点の霊感商法にまつわる社会的糾弾に対して、既にそう考えているでしょう。
オウム真理教信者と全く同じ思考です。
在家/出家信者と通教/入教信者の相似
オウム真理教の場合、「出家しなければ最終解脱できない」として、信者に出家することを求めていました。信者が出家する際には、全財産を寄付してオウムの上九一色村に入って生活することになります。出家信者は約1400人いたといわれ、全体の約1割でした。
出家信者は、教団内で「サマナ」と呼ばれ、上九一色村では主に「ワーク」といわれる雑務に従事させられ、施設建設や教団印刷物や教育ビデオの作成、教団が運営する各種会社や医院などの要職を務めていたそうです。
多くを占める在家信者は、各地にあるオウムの道場に通いますが、霊的なステージを上げるためのトレーニングとして、各種イニシエーション(儀式)に参加します。そのイニシエーションは高額で、10万円くらいで受けられるものもありますが、100~1000万円するものも多数あったということです。
出家するほどの決心や信仰心を持てない信者が、そのような高いお金を出して、教団運営を支えつつ、いずれは出家信者(サマナ)になることを目指す、という実態がありました。
一方、統一教会では、完全に”出家”して俗世間との交わりを断つ、という信仰生活の形を取ることはありませんが、基本的に独身者で一人暮らしの(若い)信者に対して、「*ホーム」又は原理研究会では「*学舎(がくしゃ)」と呼ばれる寮での共同生活をしながら、学校や会社に通う生活形態を勧めます。
これを「*入教」といいますが、広義の「出家」のようなものです。
それに対して、自宅での生活を基本としながら、平日は勧誘活動の拠点であるビデオセンターに通い、日曜日は「*ホーム」又は「*学舎」に通う、という形で活動する信者のことを「*通教信者」という呼び方をします。
統一教会では統一原理を真理と認め、文鮮明を再臨のメシアとして受け入れた信者のことを「食口(シック)」と呼びますが、
「同じ釜の飯を食べる兄弟姉妹」というもともとの意味があるせいか、「食口(シック)」といえば、「*ホーム」「*学舎」で暮らしているのが当然で、「*通教」の信者に対しては「*通教の食口」というようにわざわざ「*通教の」をつけて会話の中でも区別するような傾向が見られます。
「*ホーム」「*学舎」で信仰生活することを「*入教(宗教に入る)」というくらいですから、信仰生活といえば共同生活、という意識は顕著です。
当然、統一教会の中では、「*入教信者」の方が「*通教信者」より格上で、出世するためには「*入教生活」をしていること、又は一定の年数「*入教生活」をしていたという経歴が必要です。
「*通教信者」の信仰基準は「*入教信者」よりも(遥かに)低い、とされますが、特に既婚者で子どもがいて、主婦だけが信者になったというケースでは、
その主婦が「*通教信者」であるにも拘らず、勧誘活動や献金に異様に熱心になることが多く、統一教会内では「*壮婦」という呼び方をして区別しています。
「*通教信者」はよほどの勧誘活動・経済活動、献金の実績がなければ、統一教会信者の大きな目標である「*血統転換」の儀式である「*合同結婚式」に参加できませんから、特に「*壮婦」は必死なのです。献金もさることながら、教団が設定する高額な各種イベント・先祖供養等の儀式に参加しようと、血眼になってお金を出します。
この形が、多くの統一教会信者家庭における、宗教二世問題の一部として社会問題化します。
オウムにおける「出家/在家」信者の関係性と、統一教会における「*入教/通教」信者の関係性は、似ています。
いずれも、共同生活を理想とし、共同生活している信者を上位に置く点や、在家の通いの信者が、ステージを上げるために高額献金をして儀式に参加する点などです。
ところで、統一教会では、1億円以上の献金をした、という人が600人以上いる、といいます。
また、献金とは別の観点ですが、幹部養成組織である原理研究会のような「全員”*入教”している」学生組織の人数が800-1000人規模でいます。
いずれの観点でも、統一教会で特に”狂信的”とされる階層の人たちは、オウムにおける出家信者の人数(約1400人)とも、規模感として近い。
私は、カルト団体の「狂信度と人数」には強い相関があると思っていますので、この人数の規模感は重要と考えています。
オウム真理教と統一教会では、狂信的になって過激な信仰生活を送っている信者が同程度いる、ということです。
反社会的であることが、信仰の高さの証明
オウム真理教も統一教会も、犯罪、または犯罪に類する反社会的な逸脱行為をする信者は一部に過ぎない、という論が語られることがしばしばあります。
大半の信者は穏やかに修行/信仰生活をしているだけであり、彼らの信教の自由は守られなくてはならない、と。
しかし、注意しなければならないのは、
反社会的と糾弾されるような行為をする者ほど、修行/信仰レベルが高いとして評価される価値体系が組織内に内包されていることです。
オウムは上九一色村という土地で出家信者のための”オウム王国”を作り、「最終解脱」に向けてそれぞれの段階の修行を完了したり、ワークと呼ばれる雑務を形にする中で麻原に対する帰依を強め、狂信性を高めていきました。
麻原に近い幹部ほど重大な犯罪に関わるようになり、果てはサリンを使ったテロまで起こすようになりました。
統一教会の場合、「*壮婦」のように家庭を顧みず、全財産を献金するような”常軌を逸する”献金をした信者は”信仰者”として多大な評価を受けます。
また、そのレベルの献金をさせるように説得した信者・教会の責任者も評価の対象になり、教祖・総裁から直接労いの言葉をかけられる場に招ばれるなどの”恩恵”を享受します。
その背後で、飢えている子どもがいるとか、まともな教育を受けられず病んでしまう子がいる、夫から離婚されて一家離散した…そういった悲惨な出来事が起きていようがお構いなしです。
世間的・社会的に見てどれだけ“異常”であろうと、教団に対して忠誠を示した行為であり、教団を利するのならばOK、むしろ推奨されるということです。
現在、宗教二世問題を皮切りに霊感商法が社会的問題として再浮上して、田中教会長や勅使河原などの幹部がメディアに登場しましたが、あのような幹部こそ、霊感商法で他の信者とは何桁も違うような強烈な実績を挙げてきた人たちなのです。
もし、身近に信者がいて、聞けるようであれば聞いてみてください。
田中会長も、勅使河原も、会員活動や経済活動において、恐るべき実績を出してきた「レジェンド」であり、教団における「スーパースター」です。
「何千万円の”売上”を出した」といった伝説がいろいろあるはずです。
教会幹部はこのようなニュアンスのことを言っていますが、そんなことはありません。
私にいわせれば、「いや、あんたやろ。あんたが一番稼いできて、その地位におるんやろ」という話です。
つまり、幹部が犯罪、または犯罪級の活動を一番熱心にやっており、その活動の先頭に立って、鼓舞し、指揮してきたのです。
そのことが「信仰レベルの高さの証明(教祖への忠誠の高さ)」として実績化している。
その点でも、統一教会は、オウム真理教とソックリです。
反社会的行動を生み出す内面の仕掛け
前述したとおり、オウム真理教信者も、統一教会信者も、「絶対的存在である教祖と一体化する」ことを、大きな目標として共有しています。
そのためには、世俗の考え方、入信する前の自分の思考様式を否定する独特の用語(サタン的思考、”観念”など)が設定されていて、日々の生活の中で運用している、ということも述べました。
もともと、世俗の価値観を否定する価値体系を持っており、教祖と一体化することにより、最終解脱(オウム)/原罪解消(統一教会)を目指す、ということが、信者の修行/信仰生活の本質です。
つまり、そこに見られるのは、超越した存在への”変身”願望です。
【オウム】カルマ(業)にまみれて煩悩に苦しむ低位の人間が、解脱して、救われる
【統一教会】罪にまみれて「*堕落性」に苦しむ「*サタンの血統」である人間が、血統転換して、(原罪を解消して)救われる
考え方として、類似の構造が見られます。
(「*堕落性」とは、人類が「堕落」したことによって持つようになったとされる、種々の悪性の性格のことです。)
そして、オウム真理教も統一教会も、自らが救われて”変身"することが、世界全体の救済に繋がる、と考えます。
これは、アニメのセカイ系と呼ばれるジャンルに共通して見られる世界観と似ています。
すなわち、主人公の葛藤や行為、戦いや勝利の結果が、中間項と呼ばれる緩衝領域を挟むことなく、そのまま世界全体に反映される、という世界観です。
オウム真理教/統一教会信者にとって、
自分の苦しみは世界の苦しみであり、
自分の敗北は世界の敗北であり、
自分の救いは世界の救いになる。
更に、その自分は、教祖との一体化を目指して、教団とも一体化しているわけですから、教団の活動の結果が、世界を良くしているかどうかにも直結します。
麻原は「△月△日までに300人の信者が成就しなければ、アルマゲドンが起きてしまう。なんとしても成就させなさい」といったことを厳命して、幹部にはイニシエーションを開発させ、出家信者を煽っていたようです。
(「成就」とは、一定の修行段階をクリアすることです。)
また、麻原は、「これは戦争なんだ」と繰り返し信者に語っていました。
その「切迫した戦い」を邪魔する”敵”存在として、オウム真理教は国家権力を設定していました。国家権力がオウムを陥れ、破壊しようとしている、と。
オウムが負けることは、世界が破滅することを意味する。断固としてこれと戦わなければならない。そういうストーリーを繰り返し語っていました。
同様に、統一教会では、「◯月◯日までに信者を◯千人合同結婚式に参加させなければ、サタンとの戦いにおいて厄介なことになる」という話をして目標設定を随時行い、末端信者に至るまで、プレッシャーをかけます。
統一教会では、特に「共産主義」を始めとする左翼やマスメディアを具体的な”敵”として設定しています。それらは”サタン”であり、「我々は神とサタンの戦いに神の戦士として参加しているのだ」という位置付けをし、社会的糾弾を受けても「サタンの攻撃に負けてなるものか」と闘志をたぎらせるのです。
統一教会が負けることは、神の摂理が失敗し、サタンが勝利することを意味する、と信じているのです。
そのように、個人の魂の救いを動機として入信したはずの信者が、いつのまにか「世界を救う戦士」に転化され、「悪なる存在(国家権力やマスメディア)」との戦争に参加させられ、政治活動やテロ工作活動に駆り立てられてしまう、という共通した構図が見られます。
彼らは、そのように常に切迫した”戦争状態”の中を生きている意識でいますから、基本的にダラダラしません。
オウム真理教でも、統一教会でも、信者に極端な短眠を強います。
最大でも1日5時間睡眠、一切昼寝しない、といった生活を続ける点でも共通しています。
サリン散布実行犯の林郁夫は、事件の3-4ヶ月前から、平均睡眠時間が3時間を切っていた、ということを述べています。
その異様な睡眠不足の状態が、思考停止を産み、麻原のサリン散布実行指示を拒絶することができない大きな要因になったということを著作の中で述べています。
この統一教会とオウム真理教に共通して見られる「短眠を強いる」ということが、マインド・コントロールにおける重要な一要素になっています。
詳しくは、第4章で述べます。
犯罪を生み出す教え
ここまで読んでこられた読者の皆様は、いくら信者が、自らを救うことが教団の目的と一体となり、教団の勝利が世界の救いに繋がると思い込まされ、敵との戦争に駆り立てられていくのだとしても、
社会に暮らす人々に加害行為を為すこととは繋がらない、という疑問を持つのではないでしょうか。
確かに、
オウムが勝利するということと、サリンを撒いて人々を殺傷するということには、距離があります。
統一教会が勝利するということと、家庭崩壊や破産を誘発してでも献金させたり高額商品を売りつけて人々からお金を毟り取ることにも距離があります。
オウム真理教にも、統一教会にも、その距離を架橋する教義・教えが設定されています。
オウム真理教の場合、“世界を救うために、社会に加害を為す”という「跳躍」を可能にしたのは、麻原が1993年に一部の幹部のみに開示したタントラ・ヴァジラヤーナという最終教義です。
この教義は「ヴァジラヤーナ五仏の教え」とも呼ばれ、ラトナサンバヴァ、アクショーブヤ、アミターバ、アモーガシッディ、ヴァイローチャナの五仏の法則からなります。
ヴァイローチャナ以外の内容が明かされ、それぞれ、
という内容です。
特に、2)は、「麻原によって殺された人の魂はより高い次元の生を獲得して転生する=ポア」という用語を説明する法則として、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件のポリシーになりました。
これらに通底しているのは、
という考え方です。
統一教会にも、用語が違うだけで、まったく同じ考え方があります。
それが「*蕩減条件(とうげんじょうけん)」という考え方です。
「蕩減」とは、借金を帳消しにする、などの韓国社会においては金融用語として用いられる用語であり、韓国キリスト教では、「罪の許し」といった意味で用いられるようです。
有史以来、原罪も含め、人類が積み重ねてきたさまざな罪がある。
それを「減らす」というニュアンスです。
神様のためになり、罪を減らして自身の霊的成長に繋がる行為をすることを、「*蕩減条件を積む」という言い方をするのです。
(逆にサタンを利するような行為のことを「讒訴条件(讒訴条件)になる」と言います)
これは、仏教的な意味合いでオウムの中で用いられる「(カルマを落とすために)功徳を積む」という言い回しと、意味としてはほとんど同じです。
例えば、オウム真理教の中で、雑務がうまく進まない中、なんとかハードルを越えた時に、
「きつかったけど、我慢してやったことによって、いいカルマ落としになったね。功徳を積めたと思うよ」などと言い合ったりすることがあったようですが、
これは、統一教会の用語を使えば、
「きつかったけど、*感謝・甘受して、*堕落性を脱げた。*蕩減条件になったよ」という言い方になります。
例えば、信者でない人にものを買わせることは、統一教会のためになることなので、
その人が「天国に入るための評価対象になる」=「*蕩減条件になる」という言い方をするわけです。
たとえ、騙したり、嘘をついたりして、お金を毟り取ったのだとしても、それが統一教会の運動(「*神様のみ旨」)のためになるのであれば、
「あの人は統一運動に貢献した。あの人は天の前に「*蕩減条件」を積めた。これであの人がこの世を去るとき、サタンに讒訴されず、神様のところへいくための実績になったね」という捉え方をするのです。
つまり、統一教会には、「救いのためには嘘や騙し、時には犯罪さえも許される、または推奨される」という教義があり、
上記のオウムのタントラヴァジラヤーナに即していえば、
という、少なくとも2点が含まれている、ということです。
そして、このように、一般的な価値観では加虐行為に見えるようなことでも、統一教会の教義に即して見た時に、相手のためになるのであれば、して良い、
いや、むしろ、積極的に”してあげるべき”とする土台となるものの見方が、「*真の愛」という概念です。
これは、オウム真理教では、「真の愛・真のあわれみ」という言い方をします。
まったく共通の言葉であり、まったく同じ考え方です。
これが、オウム真理教・統一教会共通の考え方です。
タントラ・ヴァジラヤーナは、麻原に近い側近にしか明かされない秘密教義でした。
特にタントラ・ヴァジラヤーナの 2)殺して良い 4)何をしても良い に関しては、『オウムからの帰還』を著した高橋英利氏が激しく反発し、離脱のきっかけになった教義とされます。
高橋氏は、あのタイミングで離脱していなかったら自分もサリン散布を命じられていたかもしれない、といいます。
幹部や幹部に近い側近たちにさえ、それほどの混乱と困惑をもたらした教義だったのです。
このタントラ・ヴァジラヤーナにほぼ相当する内容の教義を、「*真の愛」という概念を土台として、統一教会は末端信者まで共有しています。
統一教信者が、長期間・広範囲に亘って、正体を偽った形の悪質な勧誘活動、強要や時に脅迫に近い形の霊感商法で社会を騒がせてきたのは、これらの教えによるものだったということです。
統一教会がテロを起こす可能性
前段のタントラ・ヴァジラヤーナと統一教会の教えの共通性、そして、統一教会の教義の中心的概念である「*真の愛」(・真のあわれみ)というワードをオウム真理教も使っていた、という事実は、統一教会信者にとって、一定のショックを与えるものではないかと思います。
しかし、それでも統一教会信者は、「オウム真理教と一緒にしてくれるな。彼らは凶悪な殺人事件を起こし、テロを起こしたではないか。統一教会にそんなことはありえない」というでしょう。
私は、統一教会が殺人事件を起こす(起こした)可能性、テロを起こす可能性は、十分にある、と考えています。
3つの観点から順番に説明します。
>教祖だけが”最大の罪”を超越できる
前述したように、オウム真理教では、麻原のことを「全ての人間のカルマを見切ることができる最終解脱者」という位置付けをして絶対視していました。
「カルマを見切る超能力」とは、全ての人が背負っている先祖の因縁や業(ごう・カルマ)、その絡まりを見抜いて、それを解く修行を設定してあげることができる、ということです。
「カルマを見切って落とす」とはどういうことか。
例えば、Aさんの先祖がBさんの先祖を殺した、ということがあれば、BさんがAさんを殺すという”因果応報”をセッティングすることにより、殺人者の末裔であるAさんが背負っている業(カルマ)が綺麗に落ち、因縁が解消される、といったようなことです。(かなり単純化した例です)。
各人が負っている、先祖からの因縁とか、どうしたらカルマが落ちるか、ということの一切合切を見抜く、しかもすべての人を対象に見抜けるという究極の霊能力を持っているのが、”最終解脱者”の麻原だ、という考え方です。
"そこまで人智を超越した存在である麻原が言うことは絶対であり、たとえ「人を殺せ」という命令であっても、それが世の救いになることは間違いないのだから、逆らうことは許されない。従わなければならない。"
これが地下鉄サリン事件の実行犯の思考です。
統一教会の文鮮明も、麻原と同様の超能力を持っているとされます。
もちろん、彼らの中では、「麻原などカス」であり、「文鮮明お父様」こそが最強の霊能力者・超能力者という位置付けです。
文鮮明が「*合同結婚式」の相手を選別して引き合わせる=マッチングをする能力は、特別とされます。
「*合同結婚式」参加希望の信者の背負っている先祖からの因縁を「完璧に見抜き」、「*(遺伝的)罪が解消される」ような組み合わせを「再臨のメシアとしての特別な能力」で選んでいるのだ、ということです。
「だから、しばしば性格的に真逆であったり、育ってきた家庭環境がまったく違う夫婦が誕生するのだ」といった説明がされることがあります。
メシアである文鮮明が、罪の「*蕩減」になるように、あえて葛藤が多く発生するような最適な組み合わせを選んでいる、ということです。
そのような文鮮明の超能力は、統一教会が設定している教義すら超越します。
統一教会が設定している”最大の罪”は、「文鮮明が選んだ相手以外の異性と性交渉を持つこと」です。
マスメディアなどで「統一教会では恋愛が罪」ということが報道されているので、ご存知の方も多いでしょうが、
“「*合同結婚式」への参加を許されるまで、好き勝手に人を好きになって性交渉を持ってはならない。不倫などもってのほかである。”
こういうことです。
統一教会では、婚前にイブがサタンと性交渉を持ったことが「堕落」であり、「原罪」が発生した源になった、という教義ですから、婚前・婚外性交渉を持つということは、サタンと同じであり、人類規模の原初の罪を再現するという、”途轍もなく悪いこと”なのです。
婚前・婚外性交渉を持つという罪は、カインがアベルを殺した、という殺人の罪よりも重く設定されており、禁を犯せば地獄に落ちる。
信者は、そのような恐怖感を深く、深く刷り込まれています。
しかし、です。
過去に文鮮明に求められて性交渉を持った女性信者が複数います。
隠し子まで生んでいる。
(特に、韓国では、草創期、”セックス教団”として有名でした。)
いったいどういうことなんだろうか、と思いますよね。
前述したオウムのタントラ・ヴァジラヤーナは、平たくいうと
「対象の功徳になるなら、殺してよい・奪って良い・寝取って良い・何しても良い」
という教えですが、「寝取って良い」に関して、教祖の文鮮明だけはやってよいということです。
文鮮明に婚外交渉による子どもがいることは、信仰歴が数年に至る信者はほぼ全員知っていて、共有しています。
その不倫・不貞は「*お父様(文鮮明)の摂理(神様の計画)だった」という理解をしているようです。
つまり、女性信者は、「*私とセックスすることが、神の摂理なのだ。み旨なのだ」と文鮮明に求められ、命じられるままに性交渉に応じた、ということです。
文鮮明は、すべての人の因縁や罪が見えるのだから、それを「*蕩減」するために、セックスすることが必要だ、といわれたら、それは正しいこと、と信じるのです。
もちろん教義の中で殺人より重い罪、と設定されている婚前・婚外性交渉を持つことには抵抗もあったでしょう。
しかし、「絶対的存在である再臨のメシア・文鮮明」に命令されたら、その絶対性を信じ、教義の中で”最大の罪”とされている禁止行為さえしてしまう。
それに比べれば、教団内で、「*サタン世界のルール」と軽視している法律を破ることなど、遥かに簡単でしょう。
文鮮明に「人を殺せ」と直接命じられて断れる信者がどれだけいるでしょうか。(直接命じられる時点で、幹部級の近い位置にいます。)
「あいつは統一教会に反対しているサタンで、どうにもならない。これ以上生きていても、彼は罪を重ねるだけだから、今殺してあげた方があいつのためにもなる。殺してきなさい」
統一教会流に考えれば、文鮮明からこのような命令が下ってもおかしくはない。
麻原が説いたタントラ・ヴァジラヤーナの「悪業を重ねる者は殺して良い」という教えそのものです。
「教祖との一体化」を強く志向している幹部、狂信的信者が実行する可能性は高いでしょう。
麻原は「カルマを見切る能力」があったというだけのことはあって、恐るべき洞察力を発揮し、実際に接している幹部を畏怖せしめる能力があったようですが、文鮮明も同様です。
人を洞察し、支配する能力には突出したものがあり、直に接する幹部は恐れながら接していたようです。
直接命じられ、教義的解釈も合わせて説得されれば、葛藤しつつも殺人の指示を受け入れるのではないかと私は思います。
幸いなことに、統一教会の教祖である文鮮明は、2012年に亡くなっています。しかし、いつ「お父様(文鮮明)の能力を全面的に継承した」という後継者が現れるかわからない。
現時点でも「お父様(文鮮明)が霊界から指示している」という体でいろいろと命令しているようですから、過激な行動が現れてくる可能性は依然としてあります。
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