本当ならオリンピック開会式が行われるはずだった夜に――7年前の拙稿を蔵出し
ここに載せる文章はいまから7年前、2020年の夏季オリンピックの東京開催が決まった年の暮れに、『サブカル評論』という友人の発行する同人誌の「7年後の日本と私」という企画のため、私が逆叉鈍甲(さかまた・どんこ)という変名で寄稿したものです。そこで私は、山崎豊子ばりの架空の長編小説の一節という形をとりながら、東京オリンピックの開会式がどんなふうに迎え、その内容はどんなものになるのか、あれこれ想像しながら書いていました。
しかし事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、その後、現実は想像のはるか斜め上を行く展開をたどります。新国立競技場、大会エンブレムと、デザイン選定をめぐって騒動があいついだかと思えば、昨年には開催を翌年に控えた段階で、いまさらながら会期中の東京の猛暑が問題視され、マラソンと競歩が札幌での開催に変更されたあげく、今春には大会そのものが新型コロナウイルスの世界的流行にともない1年延期となってしまいました。もしこんな予想を7年前に誰かがしたのなら、「そんなことあるかい!」とみんながツッコんだことでしょう。
そんなわけで、私の書いた文章も、いま読み返すとさほど突飛なものではなく、己の想像力の貧しさを痛感します。7年前に予想したとおり、安部晋三の首相在任期間(通算)は歴代最長に達し、まもなく大叔父の佐藤栄作の最長不倒記録にも迫ろうとしています。東京都知事は毎年のように交代が繰り返されることはなかったとはいえ、猪瀬直樹の退任後、翌2014年の都知事選で当選した後任の舛添要一もスキャンダルで失脚、そのあとには滝川クリステルでこそなかったものの、同じくキャスター出身の女性――小池百合子が都知事の座に就き、先ごろ2選目を果たしました。一方で、平成の天皇が自らの意志で退位するとは、執筆時には想像だにしませんでしたが。
しかしそれ以上に残念なのは、これを書く際に私の抱いていた期待が外れてしまったことです。文中、開会式の総合演出に外国人、それもアフリカ出身の無名の人物を据えたのは、文化の成熟した都市や国家こそプロデュースに徹し、出自やキャリアにこだわることなく世界中から才能を集めて現場で思う存分やらせるものだと考えたからでした(この発想は、1992年のバルセロナ・オリンピックで、主催するカタルーニャ州政府が、屋内競技場の設計を磯崎新、開会式の音楽を坂本龍一に託した事例を念頭に置いたものです)。けれども現実には、新国立競技場の基本計画について国際コンペが開かれ、イラク出身でイギリスを拠点に活動するザハ・ハディドの案が選ばれたものの、それは結局実現しませんでした。その後は、開会式の総合演出にしても、あくまで国内から人選がなされました。
期待が外れたのは残念とはいえ、今回あらためて読み返してみて、この文章を非常に楽しく書いた記憶がよみがえってきました。いまにして振り返ると、こういう開会式を見たいんだ! という思いが、私にこの文章を書かせたのでしょう。せっかくなので、この機会に、より多くの人に読んでもらえればと思い、蔵出しすることにしました。なお、再掲載にあたって、あきらかな誤字脱字を直したのと、段落ごとに1行空白を入れた以外は、文章にはいっさい手を加えていません(初出は縦書きだったので、数字も漢数字のままとしました)。予定でいけばオリンピックが開幕するはずだった今宵、ご笑覧いただければ幸いです。
(近藤正高・本当の2020年7月24日に記す)
不毛なる巨塔(抄)
逆叉鈍甲
――これは架空の物語である。過去、あるいは現在において、たまたま実在する人物、団体、できごとと類似していても、それは偶然にすぎない。
第四十三章
二〇二〇年七月二四日、東京の新国立霞ヶ丘競技場の上空には雲が立ちこめ、いまにも雨が降り出しそうな気配であった。そんななか、この日の夜七時より、第三十二回オリンピック東京大会の開会式が始まろうとしていた。NHKのテレビ中継でのアナウンサーの第一声は、「世界中の雨雲を全部東京に持ってきてしまったような、怪しい空模様です」というものであった。
セレモニーの開始を前に競技場のスタンドには続々とVIPたちが現れる。首相の安倍晋三は、二〇一二年一二月に第二次内閣を発足させて以来、この時点で七年七カ月もの長きにわたって政権を維持し、オリンピックの閉幕する翌八月には大叔父の佐藤栄作の首相在任期間と並ぼうとしていた。一年に終わった第一次安倍内閣を合わせて通算すれば、歴代首相のうち桂太郎を抜いて最長記録ということになる。その安倍も、東京オリンピック開催を花道に勇退すると開会式を前に公言していた。
東京都知事の滝川クリステルは、三年前に知事に就任した。二〇一三年十二月に猪瀬直樹が辞任して以来、毎年のように東京都知事が就任しては、スキャンダルが持ち上がり辞職に追い込まれていた。滝川は猪瀬から数えて五人目の知事にあたる。三九歳での知事就任は都政史上、異例の若さであった。自民党幹事長の石破茂からの強い要望により知事選に出馬した滝川は、七年前のオリンピック招致活動における最終プレゼンテーションでの印象は薄れつつあったと思われたが、ふたを開けてみれば二〇一二年の都知事選で猪瀬が獲得した票数を上回る、史上最多の約四六〇万票で当選を果たした。
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カウントダウンとともに、セレモニーが幕を開けようとしていた。組織委員会の誰もが、開会式がうまくゆくのか、この日までに何度となくリハーサルを続けてきたにもかかわらず、なおも大きな不安を抱えていた。それは総合演出を務める当人も同じであった。
そもそも、今回のオリンピック開会式の総合演出が最終的に決定するまでには紆余曲折があった。当初は、北野武にかなり早い段階で内定したものの、オリンピック開催の二年前、放言が問題となって降板を余儀なくされた。その後釜として名前のあがった秋元康も、プロデュースするアイドルグループの運営資金をめぐるスキャンダルから断念せざるをえなかったことは周知のとおりである。
その後も国内の映画・演劇界から何人もの人物が候補にあがったものの、引き受け手は見つからない。結局、大会組織委員会が白羽の矢を立てたのは日本人ではなく、アフリカはケニア出身のネリ・ンドゥングというまったく無名の人物であった。その時点で二〇一九年一月と、大会開催まですでに一年半を切っていた。
ンドゥングの人選に関しては、大会組織委員会のある幹部の友達の友達の知人のさらに友達の知人というコネクションから決まったとの噂がある。噂は多少尾鰭のついたところがあるとはいえ、大筋ではほとんど間違いはなかった。マスコミはその選考過程の不明瞭さを批判、また組織委員会の本部には、決定ののちしばらく「なぜ日本人を使わない」「何が悲しくてク●ンボになんぞ演出を任せなければならないのか」などといった罵詈雑言の電話がなりやまなかったという。挙句の果てには、「日本人演出家にしなければ、会場を爆破する」との脅迫までされる始末であった(犯人はすぐに特定され、逮捕されたが)。
ンドゥングはもともと陸上選手として日本の私立高校に留学したという変わり種で、去る筋からの情報によれば、高卒後は北海道でアルバイトをしながら暇を見ては札幌大学に潜りこんでいたところ、偶然にも当時の学長で文化人類学者の山口昌男の講義と接する機会があり、そこで非常な感銘を受けて以後、山口から直接教えを受けるようになったのだという。
その後の彼の経歴は不明な点が多すぎる。浅草の東洋館で漫才師をしていたとも、AKB48劇場でスタッフをしていたとも、あるいは新宿の花園神社の見世物小屋に出ていたとか、無名塾を仲代達矢と口論してやめたとか、はたまたNHKの大河ドラマで、信長家臣の弥助役を決めるオーディションで最終選考まで残ったとか、さまざまな噂があるがいずれも確たる証拠はない。
ンドゥングの演出経験は、記録の残っている範囲でいえば、オリンピック開催の前年と前々年に一回ずつあるものの、その舞台(東京のとある小劇場での公演であったという)を観た者はごくごくかぎられる。その数少ない観客の一人に、劇場の支配人から誘われてたまたま観劇に来ていた文部科学省の某参事官がいた。その参事官が、しばらくして開会式の総合演出の人選で意見を求められたおり、何気なくンドゥングの名前をあげたのが彼が抜擢されるそもそものきっかけであったという。
ともあれ、マスコミのみならず、主催する側からも、演出経験の浅い、しかもアフリカ人の起用に不安視する声はあった。ンドゥング自身、一年半の準備期間中にスタッフらと綿密な討議を行なってきたとはいえ、演出プランが決定してからも、リハーサル中に何度となく変更を繰り返し、本番前日にいたっても衆目を満足させる出来とはいいがたかった。それでもいやでも応でも本番はやって来る。開会式の朝、曇り空を見上げながら、ンドゥングは覚悟を決めたのであった。
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開会式の第一部のオープニングでは、日本列島の誕生、縄文と弥生、大和政権の誕生などが、アフリカ神話的な解釈により描かれ、神秘的なオーラを漂わせた。このあたりは、かつて山口昌男から学んだことが大いに活かされているものと思われる。
音楽には和楽器やアフリカの楽器など世界各地の楽器が用いられ、不協和音がしだいに協和融合し、ハーモニーをつくり出していくさまは、人々の心を打つことになる。その数々の音のなかに、一九六四年の東京オリンピック開会式のために、黛敏郎が日本各地の梵鐘の音をサンプリングしてつくった電子音楽も使われていたことに、あなたは気づかれただろうか。
第一部のなかでも圧巻はやはり近代日本をモチーフにしたパートであった。大日本帝国が富国強兵のスローガンを掲げ、一等国へとのしあがり、さらにアジアへと覇権を広げていくさまが激しいビートの音楽とダンスで表現される。開会式のなかでも会場がもっとも昂揚を見せたこのパートはどこか淫猥さも感じさせた。これについて、陰鬱でないからこそ、かえって日本の犯した罪の重さが引き立つと評した論者もいたのも、納得できよう。
このパートのラストでは、スタンドに投影された原爆のキノコ雲の映像に対し、フィールドには人々が倒れ伏し、さながらダイ・インの様相を呈した。そこに、真珠湾攻撃を伝えるラジオ放送や玉音放送など戦中から終戦直後にかけてのさまざまな音源がサンプリングされたノイズミュージックが流される。
暗転ののち、フィールドには焼け跡と闇市が再現されていた。その中央にはいつのまにか、初期のブラウン管テレビが、ナム・ジュン・パイクのオブジェよろしく、ロボットのように積み上げられ、それら画面には、力道山のプロレス中継や六〇年安保、『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』など往年のテレビ番組が流される。やがてすべてのブラウン管に、一九五九年の皇太子ご成婚パレードの映像が映し出され、そこから飛び出すように、皇太子夫妻と思しき男女を乗せた馬車が会場に現れ、フィールドを一周する……よく見ると、それは本物の“皇太子夫妻”、そう、平成の天皇と皇后であった。
馬車から天皇と皇后が下車すると同時に、「君が代」がトイピアノによる前奏が流された。そのあとにジャズ調の「君が代」の演奏が続き(矢野顕子編曲、上原ひろみ演奏)、それが天皇と皇后が階段を昇っていくあいだに、自衛隊音楽隊による正調の演奏へと変わる。両陛下が席にたどり着いたのは、予定どおり、演奏が終わるのと同時であった。
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天皇・皇后の臨席に続き、開会式は第二部に入る。その幕開けでは、競技場全体に一九六四年のオリンピック開催時の映像が次々と投影されていった。亀倉雄策デザインの五輪ポスターの映像から、本物の陸上選手たちが飛び出したかと思えば、市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』に出てくるアフリカ人選手のイメージを借り、黒人の青年が建設ラッシュの東京の街なかをさまようといったシーンが展開される。数えきれないほどの仕掛けが用意され、次に何が起るのか、目を離さずにはいられなかった。
だが、第二部のクライマックスは何といっても、一九九〇年代以降あいつぐ地震や津波を描いた段だ。本当に大量の水を使った演出にも度肝を抜かれたが、まさかそこへ雨が叩きつけるように降り出すとは、誰が予想しただろうか。このとき、開会式の中止も検討されたが、ンドゥングが主張したこともあり、観客には雨がっぱが配布されたうえで、セレモニーはそのまま続行された。
ラストを飾ったのは、スタジアムの向こうに太陽がのぼり、スタジアム全体を照らし出すという演出であった。これにあたっては世界最大級のサーチライトが用いられ、その電力も競技場の太陽光発電により供給された。
太陽が昇り切り、それがスタジアムのメインポールに掲揚された日の丸と同化したときには、雨はすっかりあがっていた。時間はすでに予定よりかなり遅れており、待ちきれないとばかりに選手たちの入場行進が開始される。しかしスタジアムに集まった観客の多くは、さっきまでこの場所で展開された一大スペクタクルの余韻を引きずったままであった。はたして、ンドゥングはこの一世一代の舞台によって、一躍、世界的な演出家として注目されることになったのである。
(以上、新春文庫版『不毛なる巨塔』第六巻より抄録)