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情報音痴

盆前に敦賀の気比の松原近くにある武田耕雲斎等の墓を訪れ献花してきました(これでも天狗の末裔の末席を汚す身なのです)。墓所(353名の天狗の遺体が詰め込まれた処刑場の穴を埋めてさらに盛土をして造った塚)は綺麗に清掃されていました。敦賀の方々に御礼申し上げます。坂本龍馬や桂小五郎を祀っていることで知られる京都東山の霊山とは異なり、天狗の塚には私以外には誰一人おらず、静かにお参りすることができました。家に帰ってきて早速天狗党のキーワードでnoteの記事検索すると、やたらとヒットします。天狗はあまり世間に知られていないはずなのにと不思議に思っていましたが、渋沢栄一を主人公とする大河ドラマをやっていることが判り、納得できました。実は私はテレビを観ないので、世間の事情に疎い情報音痴なのです。

天狗が筑波山で挙兵した元治元年(1964)に、長州は禁門の変を起こしています。いずれの企ても失敗に終わっています。両者に共通するのは情報音痴です。京にいる慶喜公が孝明天皇の信任を勝ち取るために攘夷を唱えながら幕府にもいい顔をしなければならない難しい立場にいることを天狗は全く知らなかった。そして長州の攘夷派は京都御所の入り口で軍事行動を起こせば孝明天皇がどれだけ激怒するかを全く理解できていなかったのです。しかしその後の水戸と長州の運命は全く違います。水戸は天狗と諸生との間の粛清合戦に明け暮れ人材が枯渇したのに対し、長州は明治政府を動かす中枢の人材を多数輩出するまでになりました。その違いは実際に攘夷を行ったか否かです。攘夷を行なった長州は外国の軍事力の強大さを思い知らされ、攘夷が如何にお話にならないファンタジーであるかをようやく理解したのでした。(薩摩も薩英戦争でイギリスにボロ負けしています。)こうして長州は攘夷から倒幕へとハンドルを切ることができたのでした。攘夷を主張するなら先ず外国の力を知るという当たり前のことを天狗はやらず内戦に明け暮れた。そのチャンスに恵まれなかったとも言えるでしょう。もし斉昭公の肝煎りで作った大砲がイギリス船によって破壊されていれば、東湖の子の小四郎は筑波山の挙兵なんてやらなかったはずです。今の経済産業省の梶原大臣のご先祖も敦賀で斬首されることはなく、梶原大臣およびそのお父様もとっくの昔に総理大臣になっていたはずです。情報は思想を変え、行動を変え、さらに歴史を変えます。

                           知彼知己者百戦不殆

                                  孫子