耕雲斎
先の記事では小四郎を親の心を知らない馬鹿息子として描きました。自分の行動によって人心が正され、攘夷が近づいたのだから、親の心に従っていると反論されるのは覚悟の上です。同様に別記事では慶喜公を頭脳明晰なだけの自己愛性人格障害者と描きました。尊皇攘夷に一番いい形を作ったんだから、後はやりたい奴にやらせておけばいいだろう、天狗?あんな危ないものに関わってちゃあ失脚して大政奉還なんて出来なかっただろっ、天狗の目的をかなえてやったんだから、それでいいじゃないかと反論されるでしょう。まぁ人の評価は万華鏡と同じで見る人によって様々です。だから他者評価を気にしないで好き勝手に生きたもん勝ちと言う打ち上げ花火論に反論しません。しかし齢を重ねれば夜空に輝いて咲く花よりも路地の闇に消える花の儚さに味わいを求めるようになります。
改革派の最後のリーダーであった武田耕雲斎は筑波山て挙兵した小四郎から天狗の首領になってくれと懇願されます。(武田家は藤田家と親類です。耕雲斎の長男彦衛門に嫁いだのが東湖の妹という関係にあります。)耕雲斎の目には若干23の若さで天狗を統率する小四郎が頼もしく映ったことでしょう。同時に、幕府からも追討されて天狗の命運が尽きたことも解っていました。こいつらの死に場所を作ってやらなければならんと思い、今の自分に出来ることはその場所で一緒に死んでやることだと、自ら尻拭いの役目、つまり貧乏クジを引いたのでしょう。天狗党首領となることを同意し、死に場所を上洛の道中に求めました。長男、次男、そして長男の子(つまり孫)まで引き連れました。水戸の三田の一人として、人生の片付け方の手本を後世に示してくれたこと、そして個人的には私の先祖に死に場所を与えてくださったことに、私は深く感謝しています。天狗は手荒い軍資金集めをしたと言われます。若き小四郎では狼藉を働いた田中愿蔵などを統率できませんでしたが、耕雲斎が首領になってから天狗は統率の取れた当時の最強軍団へと変わりました。なお、天狗党の中には先祖伝来の田畑を売り払って軍資金を拠出して参加した者が少なからずいたことを付け加えておきます。