「見る」ということ
*あくまでも個人的見解です
「見る」ことが大事、それが視考力につながると、どんぐり倶楽部では言われます。英語の表現では、"Oh, I see!" =「わかった!」
厳密にいうと「見える」ことだと思います。「見える、気づく」こと。「見る」は単なる行動に過ぎません。それを「見えた!」となる時点までいって、初めて「わかった」となります。しかし、まずは「見る」という行動がないと、「見える」までは到達できません。「見る」は最初の大事な第一歩です。
「見る」が「見える」まで至るまでは、問題の難易度や個人差が大きくあります。全く違う角度から見ていた場合、何も見えないかも知れません。でも「この角度からは見えない」という結果を得れば、それも有意義なことです。すぐにどの角度から見ればいいのかわかる問題、わかる子もいるでしょう。それは様々で、出来ることは「正解にこだわらず、よく見て、よく考えて、しばらく忘れたり、また取り組んだり、そのプロセスを楽しむ」ことだと思います。私自身、糸山先生のおっしゃってることの多くが腑に落ちて、本当に「わかった!」に至るまで、10年以上を費やしたことになります。子どもには申し訳なかったですが、その経験もまた子どもと話をし、子どもの糧になっていると信じています。今のこの「わかった!」感も、まだまだ先があって、生きている限りいつでも新たな気づきがあると思っています。そんなことも子ども達と話をしています。
どんぐり倶楽部には「答え」があります。その「答え」を見ながら子育てに活かすことはアリだと思いますが、親がその答えに至るプロセスを自分で実験・検証したり、反省したり、自分自身のプロセスとして築いていかなければ、ただの「コピーマシーン」です。難解な方程式があり、答えが用意されていて、「ふーん、こう解けばいいのね。答えはこれなのね」で終わるなら、親自身の人生の気づきにもならないでしょう。そして、その姿は子どもに見られています。
見て、気づくこと。子どもの姿を見て気づくこと。そして同様に大事なのは、自分の姿を見て気づくこと。自分の感情、エゴ、子どもを自分の思い通りにしようとしているのではないか、自分の不安や心配、恐れから子どもを囲い込もうとしているのではないか、自分が誰かに褒めてもらいたくて子どもを利用しようとしているのではないか。
子どもは学校や友達、親戚のおじさん、大きくなるとバイト先の人。色んな人から色んな事を言われ、学ぶと同時に染められてもいきます。良いようにも悪いようにも、大人も子どもも多くの人や環境の影響を受けて生活しています。そこには気づきもあれば、全く間違った話もあります。
色んな話の中で、立ち止まって、見て、考えて、気づく。自分の感情や、「そうすると良いとはわかってるけど、なんか嫌だ」とか、「今はまだ嫌だ」とか、「前は嫌だったけど、今はやりたい」とか。揺れながら成長する人間に「絶対」があるとするならば、自分の過去の経験や、自分自身が持つ「揺れ動いて変わっていく生の感情」なのではないでしょうか。
情報は変わります。社会も変わります。「正しさ」も変わります。
目の前にある問題、事象にフレキシブルに対応し、同時に、外の圧力に流されず自分の正しさを持てる力。それが「見て、気づく」力だと思っています。問題の核心、問題の要点、そして自分の気持ちや感覚。全て「気づく」ところから始まります。私の場合、本当に自分の気持ち(下心、エゴ、怒り)に気が付かず、大きな失敗をしました。
知性も感情も、どちらも大事です。そしてそれは気づくことから始まります。知性は、情報や情報処理能力とも言えるかも知れません。情報に溢れている社会で、「そういう説もある」程度に置いておける理性かも知れません。色んな角度から物事を検証する力、様々な細切れの情報や経験から、一つの解を導き出す力かも知れません。失敗から学ぶ力かも知れません。知性を育てていくのは非常に大切なことです。
「見る、見える、気づく、わかる」
とても大事なことだと思います。私は、それが子どもに伝えたいことで、そのプロセスを親子で試行錯誤しながら取り組んでいけるのは、幸せなことだと思っています。