『死海のほとり』遠藤周作

遠藤周作について語る読書会が2021年の今、存在するなんて! という驚きと感激から、気づけばサークル参加ボタンを押していました。

そして、サークル用コンテンツで遠藤周作を熱く語る主催の佐渡島さんは、なんと自分と同世代。私と同じように、10代前半でこの作家にはまり、更には『死海のほとり』が一番好きというところまで一緒! 嘘でしょ!(狂喜) ←イマココ

この嬉しさを、『死海のほとり』の感想文というかたちで記してみました。

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私にとって、遠藤周作の思い出は、そのまま、母の思い出でもある。ひきこもりがちで友人がいなかった子ども時代、母と、母の書棚が私の青春だった。そこには、遠藤周作の他、曾野綾子、辻邦生といった作家が並び、片っ端から読んでは、母と感想を語り合う日々だった。何故か、曾野綾子のことは「曾野さん」、辻邦生について語る時は「辻は……」と呼び合い、遠藤周作は必ず「遠藤周作」だった。

『深い河』が発刊された時は、「焦点がぼやけている、既作品に比べると力がなく迷いが感じられる」と主張する母と、「これまでのテーマの集大成として書きあげるのだという意気込みが感じられる、ただ、もうこれが最後だというメッセージのようでそれが寂しい、もっともっと書いてほしい」とメタなことを言う私とで、熱く議論したりした。

『死海のほとり』が一番好きだったのは、母が特にその作品を好きだったからなのか、それとも自身で読んで感動したからなのか、そこのところの価値観は分かちがたく混ざり合い、今となっては見分けがつかなくなっている。

今回、十数年ぶりに読み返して、あらすじや、登場人物、物語の展開・手法などをずいぶん忘れていることに驚いた。それでも、当時受けた強い感銘や、繰り返し繰り返し読んだ時間は、鮮やかに心に思い返すことができた。

読みながら「ああ、ここははっきりと覚えている」と気づいた場所は、ライ病患者から「おいきなさい、触れませんから」と静かに譲られるシーンや、怪我をして死にそうな鳩の目に白く濁った膜が張っていく描写や、主人公達がイエスの事を次第に「我々より先に出発した誰かのように」思い始めていたという語りや、ねずみがガス室に引き立てられる時に尿を漏らして怖がっていたことなど、物語の細部に配置された一瞬の情景、小さな小さなピースだった。

平易な言葉遣いで、同じことを幾度も、少しずつ異なる角度から、折り重ねるように表現し、ゆっくりと読み手を深いところへ導いていく、この作品の筆致は、イエスの愚直で遅々とした歩みと重なってみえる。

イエスが、彼を傍観し通り過ぎた人々の心を揺さぶったように、また、惨めで小狡く人から蔑まれるような人間達ひとりひとりを愛したように、この作品は、読み手を揺さぶり、どんな読み手にも、読書の喜びとものを思う時間を思い出させてくれる。
無数にちりばめられた、豊かで誠実な心理描写、風景の描写ひとつひとつが、私の心を貫いて離さず、世俗と怠惰を生きる今の空虚な私を、文学に連れ戻し繋ぎ止めてくれた気がした。

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