泣くという事

最近涙もろくて困る。
いや別に困ってはいない。
むしろ大歓迎である。

生物の穴はいろいろなものが出てくる構造になっている。そして、たいていの場合、その「出る」という現象は「すっきりする」という感覚を引きおこす。

涙も同様で、すっきりするのであれば、じゃんじゃん出てもらった方がいい。

ワンクールのアニメで5度泣いた。
深夜に新曲のPVを観て30分泣き続け、目が腫れた。
200%泣くことが確実な映画が5本あって繰り返し繰り返し見ている。
読書で実際に泣くことはあまりないが、この前手にしたノンフィクションは読みながら涙が止まらなかった。

一番最近泣いたのは、息子達が発表会で歌った合唱を聞いた時だ。

発表会では、少し泣くのを我慢したので、家に帰って来てもう一度歌ってもらい思う存分泣いていたら、彼らはきまり悪そうに眼を泳がせた挙句自室に引っ込んでしまった。

私が泣いている様子は、顔をゆがませて歯をむき出し、
「ひぐぅぅぅ、え゛え゛、ぉごがぁ…」
という仮名で表記しがたい化け物みたいな嗚咽とともに、ものすごい勢いで鼻をかみ続け、見た目も音声的にも凄惨極まりないので、息子達が引きまくるのも仕方がない。

というか、人さまには絶対に見せられない。

涙の様子を表現する言葉としては出る・流れるの他に、こぼれたり、溢れたり、にじんだり、吹き出たり、液体が動く様子を表現する形容詞は大体使える。

そんな中で、涙「もろい」という表現は異色である。
どちらかというと、固形のものに当てはまりそうな言葉だ。

ここでは、「もろい」のは、涙というよりもむしろ心なのだろう。
ちょっとしたことで揺さぶられて、たががはじけ飛び、公害レベルの物理的な反応を垂れ流してしまうような脆弱で壊れやすい心は、確かに迷惑だし不都合でもある。

だから私は、普段は心が不用意に揺れないよう固定させておき、「表現」を受け取る環境に限定して、そのもろさを思い切り開放しているのかもしれない。

現実で、泣きながら誰かと喧嘩したり、怒られ過ぎて涙が出たり逆に怒りで涙に震えたり、もちろん別離の涙も、もうそういうしんどい事はあまり経験したくないなというのが本音だ。

自分の事で熱くなるのは若いころにだいぶやったし、そのころの気力体力が今はないし、もっと楽にふんわりとゆるゆると、気分の上下なだらかに生きていきたい。

堤防に激突し砕ける荒波の海から、さざ波に日がきらめく静かな海への引越である。

このあとの人生でリアルに泣くのは、両親を見送るときと、息子達の結婚式ぐらいでいい。でも、結婚式で泣くとまた彼らに引かれそうなので、家に一人で帰ってからにしようと思う。

10年後か20年後か(もしくはないかもしれないけれど)にそうやって子を祝って泣き終わった自分を想像すると、自分のもろさを人には隠して明るく穏やかに過ごしていく、寂しくも満ち足りた、夕暮れの凪いだ海が見える。
そんな空想をしている時、私は、それはそれで悪くはない中高年の生き方だと思うのだ。

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