あと少しの、母と語り合う時間について

私には想像力がない。
このままだとどうなるか予測できない。
人の気持ちを慮ることができない。
だから、いつも「そのとき」になって、困惑し慌てふためいて周りの人を傷つけて、こんなはずではなかったと後悔する。石橋を叩いて渡るどころか、渡った後にそこに橋があったことに気づくレベルで先のことが考えられないし、よかれと思って相手のためにしたことは大抵の場合裏目に出るような人間だ。

そんな私には、70代の母の気持ちも分からない。どんなことを考えて生きているのか。出来なくなることが確実に増えていくのがどれほど無念なのか。自分がいなくなったあとも続く日常というものを不思議に感じているかどうか。いつか訪れる死について、どのくらいの距離感で日々を過ごしているのか。全く想像ができない。

母は、親として、「子どもを支えることはあっても子どもに支えられるべきではない」という信念の人だったため、子どもに愚痴をこぼしたり、感情的になったりすることが一切なかった。結果的に、私の目からは、いつも正しく、自分の意思を貫いて生きている、強くて誇り高い自信家のように見えていた。思春期の頃は、そういう母に反発をしたりもした。

はじめて母がプライベートな話をしてくれたのは、私が20歳を過ぎて家を出て、たまに帰省をする、という関係になった頃だっただろうか。子どもの目からは完全に隠されていた、ワンオペで子ども4人を育て上げる中での苦労、父との不和や、金銭的な困難、自分の人生であきらめざるを得なかったことなどを、久々に会うたびに少しずつ、ポロ、ポロ、と口にするようになっていった。とっくに終わった過去の事としてさっぱり語りながらも、その隅に小さく悔恨や愚痴めいた気持ちを込めて見せる母の姿は、私には別人のようで、始めは受け入れがたかった。

反発の気持ちの底には、当時苦しんでいた母の状況に、まったく気づくことができなかった自分自身への怒りもあったのだと思う。母がひとりで涙をこぼす夜に、幼かったとはいえ、私はのん気にわがままを言いながら自分の事しか考えていなかった。何て愚かで思いやりのない、想像力に欠けた人間だったのだろう、と落ち込んだ。

家の手伝いなんていいから、と言われて、何もしなかった。それが今になって、「お手伝いは、親から頼むものではなく、本当は自分で気づいて申し出てほしかった」などと言われても、どうすることもできないじゃないか。して欲しいならして欲しいって言ってほしかった、と抗議すると、どうせ私の育て方が悪かったって言うのでしょ、全部私のせいなんでしょ、と拗ねて泣いた。すぐ喧嘩になった。

母も、恐る恐るの自己開示だったのかもしれない。立ち止まる暇さえなく必死に生き抜いてきて、初めてそのことを振り返ることができた、誰かと共有できた瞬間だったのかもしれない。母はつらかったかもしれないが、そのおかげで私は、何不自由のない暖かく幸福な家庭で育っている、と思うことができた。家族の愛情を一杯に受けて満ち足りた子ども時代を過ごすことができた事実は変わらない。じきに、私の罪悪感と反発心は、当時の思いを語りはじめてくれた母への感謝の気持ちへ変わった。彼女が話さなければ一生誰にも伝わらなかった思いが、こうして手渡され、同じように子育てに迷い、仕事との両立に苦しむ自分の支えになった。私の事を、子ども、という扱いから、対等の大人として見てくれるようになったのかな、という喜びもあった。

私にとっても、彼女は、「お母さん」から少しずつ「ともこさん」という一人の女性に変わっていった。彼女自身の子ども時代の思い出、祖父母や親族との関係、父とのなれそめ(小説のような劇的な駆け落ちだったらしい)、山あり谷ありな子育て、様々な自分語りをしてもらうたびに、ともこさんの割合は増えていって、今は、3割お母さん、7割ともこさん、という感じだ。ともこさんは、破天荒で天然で、たまに拗ねて面倒くさく、自分がいいと思うことに一途で、人情に厚く、時に強がりで、不安な時ほど天の邪鬼なことを言い、私と本の趣味が合う(人生で最初に本の素晴らしさを教えてくれたのは彼女なのだから当たり前ではある)、弱さも自己矛盾も普通に抱え込んだ、とても愛らしい素敵な人だ。

我が家で何度も笑い合うエピソードがある。幼い兄と姉を抱えて、車がなくワンオペ育児だった当時、子どもを預ける先もなく、買い物ひとついくにも困ったそうだ。そこで思い付いたのが、自身のママチャリにまだ運転もおぼつかない兄の補助輪付自転車を縄で結び付け、無理やり買い物に行くという危険すぎる方法。帰りはその幼児自転車の前かごに軽いからいいだろうとトイレットペーパーを乗せたために、兄は「お母さん前が見えない!」と叫んだという落ちがある。

こうやって、苦労話を笑い飛ばす(実際に、やってきたことが面白おかしすぎるのだが)ともこさんに、今の気持ちを聞くと、すぐにはぐらかされてしまう。70代のおばあちゃんの気持ちは、あなたになんて言っても想像もつかないわよ、だって私もそうだったもの、と笑って終わり。思えば、想像力のない私でもなんとか受けとれるようにと、いつも私の年齢に合わせた思い出話をしてくれていた。20代の私には自身の20代の思いを。30代の私には30代にした苦労話を。一度通ってきた道を後から歩く私に、昔の自分を重ねて見ているのかもしれない。聞かせてもらう私も、同感したり、時代が違うよと言ってみたり、とても楽しい。でもそれではいろいろと間に合わないかもしれない。

もしこれまでの日常生活が送れないような怪我や病気になったら? 突然倒れて意思表示ができないことになったら? 「そのとき」になったら話し合う事なんてできないのでは? 病と闘っているま最中に、亡くなる時の話なんてできないのでは?

私は想像ができない。痛みに苦しむ母の姿も、意思疎通が図れないまま大嫌いな病院で処置されるがままになる展開も、母が死んでいなくなった後の世界も。死は太古の昔から変わらず、この世で唯一誰にでも平等に訪れる、最もポピュラーな出来事であるはずなのに、健康で穏やかに過ごす母を前にしている今の私にはまだそれが分からない。想像しておかないと後で困る、母を苦しめてしまうことになる、そんなに先の話ではないかもしれない、今考えておくべきなんだ、何度自分に言い聞かせても、全然分からない。多分、分かりたくないから分からない。

仕方がない。私には想像力が備わっていないのだから。想像はできない。だからこれからも沢山おしゃべりをしよう。この先彼女と一緒に過ごすすべての時間で、彼女の事を知ろう。聞いて聞いて聞きまくろう。あなたはどんな人なの? いつも何を考えているの? この先どういう風に考えが変わると思う? 痛いのは嫌だと言っていたけど、治るんだったらどうする? はぐらかされたら、はぐらかしたその時の、言葉と声色と表情を覚えていよう。

いつか、こんな話をしてくれたことがある。
「しきさん(彼女の母)と、もっと話をすればよかったと思うんだ。あの人が何を考えていたのか、結局あまり聞けなかったから。今、あの時見ていたしきさんの年齢に自分がなってみて、ああ、この頃何を考えていたのかなってすごく思うんだよ。きっとその時聞いても分からなかったと思うけど、それでも聞いておけばよかったなって」
「でもね、実は少し分かる気もするんだ。きっとあの人の事だから、こんなふうに思っていたんじゃないか、とかね。私も今同じように感じているよとか。話はしなかったけど、なんだかやっぱり、親子だからかな、今でも繋がっている感じがあるの。変な話してるでしょ? あなたにはまだまだ全然分からないと思うけど」

分かったよ。分からないけど。きっと私も70代でそう思うんだね。だから分からないなりにたくさん聞くね。覚えておくね。

そうして、私の中の「お母さん」が5%くらいになって、あとは全部ともこさん、くらいになったら、お別れの時にも、彼女をひとりの人として尊重し、彼女の意思をしっかり通してあげられる気がする。返事をしてくれなくなった後、私の中のともこさんに、ねえ、あなたはどうしたい? と聞いたら、笑って答えをくれる、そんな未来を想像してみる。やっぱりまだうまく想像できないけれど、そうなったらいいなと思う。


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