安部礼司は本当に「典型的な平均的サラリーマン」か
ラジオから流れる安部礼司の声は、僕にとっては日曜日の午後の風物詩のようなものだ。その穏やかな語り口、少し頼りないけれどどこか憎めない人柄。彼の生活は、僕のようなリスナーたちにとって親しみやすく、そして同時にどこか遠い理想郷のようにも感じられる。それにしても、「典型的な平均的サラリーマン」という言葉が不意に頭をよぎるたび、僕は少し困惑する。安部礼司の生活は本当に「平均」なのだろうか。
彼は神保町の中堅企業に勤め、正社員として安定した収入を得ている。小さなマンションに家族四人で暮らし、時折家計を気にする描写もあるが、それでも子供たちは元気に育ち、奥さんとの仲も悪くない。日曜日には家族で公園に行ったり、車で少し遠出をしたり。そんな描写を耳にすると、どこか懐かしい昭和的な「理想の家庭像」が思い浮かぶ。だが、ふと気づく。今の日本で、これほど「安定」している生活を送る人は、果たしてどれくらいいるのだろう?
僕は「平均」という言葉が示す曖昧さについて考える。「平均的」と言われると、つい「普通」や「凡庸」といったイメージを抱くが、実際のところそれは何か違うのではないか。統計的な「平均」は、バラバラな現実を無理やりひとつの形に押し込めた結果に過ぎない。日本全国のサラリーマンを見渡せば、地方で中小企業に勤める人もいれば、フリーランスや非正規で生計を立てる人も多い。特に、就職氷河期を経験した世代には、そもそも正社員になれなかった人々も少なくない。
その点、安部礼司の生活はむしろ「理想」だ。僕たちがかつて望んだけれど手に入れられなかった、あるいは手の届かなくなった日本的な幸せのひとつの形。だからこそ彼の話を聞くたびに、少しの安心感と、そして少しの切なさが胸に残るのだろう。
「平均的」という言葉の背後にある曖昧なイメージ。そこには、かつての日本社会が持っていた幻想が根強く息づいている。その幻想に僕たちがしがみつくのは、もしかすると未来がますます予測不可能になっているからなのかもしれない。安部礼司の声を聞きながら、僕はそんなことをぼんやりと考える。