時間の織り成す生きがい
動画をよく観る。画面の向こう側にはさまざまな世界が広がり、瞬時にして目の前に現れる。しかしその大部分が直接自分に関係ないものばかりだ。せいぜい自分に役立つと言えば、英語の学習動画やDIYの解説動画くらいのものだ。それ以外はただの時間つぶしに過ぎない。指を動かし、次々と画面をスクロールする。その瞬間瞬間は満たされているように感じるが、後には何も残らない。まるで砂のように、手のひらから零れ落ちていく時間。
こんな風に思うことがある。人間はもっと生産的なことに時間を費やすべきではないか、と。何かを作り上げること、自分の手で何かを生み出すこと、それが本来の人間の姿ではないかと。しかし、すぐに別の考えが浮かぶ。生産的であることだけが全てではない。役に立たないものも、楽しみや喜びにつながるなら、それはそれで意味があるのではないか。
例えば、猫の動画を観る。何の役にも立たない。しかし、その小さな生き物が無邪気に遊ぶ姿を見ると、心が和む。それだけで、その瞬間が少しだけ輝く。そんな小さな喜びもまた、人生の一部だ。
人によって何が役立つか、何が楽しみかは異なる。ある人にとっては数学の問題を解くことが最高の喜びであり、ある人にとってはキャンバスに絵を描くことが至福の時だ。動画を観ることも、その人にとっての一つの楽しみであれば、それもまた一つの価値がある。
重要なのは、自分が何を求めているのかを見つめ直すことだろう。何が自分にとって本当に意味があるのかを見極め、それに時間を使うこと。そのためには、時には立ち止まり、考える時間も必要だ。流れる時間の中で、少しだけ立ち止まってみる。そして、自分が何を感じ、何を求めているのかを見つめ直す。その小さな瞬間こそが、本当に生産的な時間なのかもしれない。
今日もまた動画を観る。画面の向こう側に広がる世界を楽しみながら、自分にとっての意味を探し続ける。そして、砂のように零れ落ちる時間の中で、少しだけ立ち止まることを忘れないようにしている。