クジラ
クジラの知能について考えたことがあるか、と誰かに問われれば、僕はこう答えるしかない。そうだ、考えたことはある、と。しかし、答えにたどり着いたことはない、とも言わざるを得ないのだ。
海に浮かぶクジラは、その存在そのものが壮大だ。彼らは遥か太古からの旅人であり、時に僕らが想像もできないほどの深い闇を知っているだろう。そんな彼らに、知能があるのかどうか。それは、人間が時折持ち出す「知能」という定義がいかに不確かで、曖昧なものであるかを示しているように思える。僕たちは「知能」をどこか自分たちに都合よく定義し、枠組みに収めているに過ぎないのかもしれないのだから。
例えば、クジラが仲間と共に泳ぎ、コミュニケーションを取る姿を見ると、僕らはその行動を「知能が高い」と判断する。けれど、同じことは蜂や蟻にも言える。彼らもまた複雑な行動を取り、群れとしての意思疎通を行っている。それなのに、どうしてクジラは「知能が高い」と称され、蜂や蟻はそうでないのだろうか?それは、単に僕らがその巨大な姿や雄大な泳ぎに対して感じる神秘や畏怖によって「知能」を見出しているだけなのかもしれない。海の中を優雅に漂う巨大な姿が、僕たちの心に何かを訴えかけてくる。その印象が、僕らをそう信じさせているのだ。
僕は思う。知能という概念そのものが、ある意味で人間独自の幻想に過ぎないのではないか、と。生きるために必要な行動が知能だとすれば、僕たちもまた他の生き物と同じように生き延びるために知恵をつけているだけで、本質的には動物たちと大差ない存在だ。違いがあるとすれば、それは「知能」という言葉に人間が特権的な意味を付け加えていることだろう。クジラの歌声も、人間が「歌」と名付け、そこに意味を見出しているだけで、クジラにとってはただの音かもしれない。
さらに言えば、知能が高いから保護すべきという考えにも、僕は首を傾げざるを得ない。知能に優劣をつけ、その基準で保護の価値を判断することには違和感を感じるからだ。もし知能が低ければ保護するに値しないとしたら、それこそ命の価値を序列化することになるのではないか。僕は、命の中に優劣を持ち込むこと自体、どこか不遜で人間中心的な発想だと感じる。生きることに対して、僕たちはもっと謙虚であるべきではないのだろうか。
だから僕は、クジラを「知能が高いから保護すべき」と言うよりも、ただ「彼らが存在しているから保護すべき」と言いたいと思う。それは単純な言葉だが、その単純さの中にこそ、僕たちの中に根付くべき共存の意味があるように感じるのだ。