フライパンがないのに目玉焼きになった一対の卵。
生卵が子宮の微熱で、じっくりと焼き上げられいく。そんな夢をみた。いや、夢ではなく朧気な記憶なのかも知れない。朧気な記憶が夢に寄与しているのかも知れない。朧気な記憶を礎に構築された幻影なのかも知れない。
嬰児の頃、私はなぜ卵を卵として認識出来たのだろうか? それは乳房かも知れないし、顔かもしれない。バクテリアの成れの果てかもしれないし、私を蝕む愛液かもしれない。卵の卵らしさ、クオリアは記憶として持ち越せるのだろうか? そして、なぜその映像を克明に記憶しているのだろうか?
あのこんがりとした焼き目や、熱が入って滑らかに硬くなった黄身を、僕はありありと知覚していた。それは奇蹟なのかもしれないし、悲劇なのかもしれない。僕は目玉焼きを見る度に、羊水に溺れた恐怖に苛まれるのだから。
それは、母の子宮ではなかった。君は宇宙の排泄物だ。出来がいいから記念碑にされた、不遇なインスタレーションだ。