人魚が溺れる。
あなたは私に形あるものをくれなかった。一度だけ、事も無げにそれを伝えたことがある。彼はロダンの理想みたいに親指を顎に添えて(私はその表情が何よりも好きだった)、その後すぐに頬笑んで刹那の熟考を誤魔化した。
「物だけが残ってしまうことが、不安なんだ」
彼の考える優しさはとても歪だけど、誠実に磨かれたその不可能図形は美しかった。私はその図形の不確かさに、脳が溶け出してしまう感覚が好きだった。
「僕が不本意に……例えば急に死んでしまった時に、物だけが残ってしまうと、君は苦しんでしまうかもしれない。そういう可能性だけでも、僕は不安になる」
彼は泳ぎ方を忘れてしまった人魚に似ている。可能性の海の深さに、それに付随する恐怖と向き合ってしまったがために、形のない手に足首を掴まれている。彼の完膚なき忘却は、溺れていること自体に向けられていて、救いというものがない。
ー要するに、別れた後のことを考えているのね。
私は海の中、無言で彼を背後から抱き締める。見捨てることはできない。あるいは溺れる彼に巻き込まれ、私も息絶えてしまうかもしれない。かもしれない。私は可能性の海をかち割るモーセになりたい。