噛む。
彼女は僕の薬指を齧るのが好きだった。
「痛いよ」
大人の咬合力は強いから、甘噛みでも電気が走るくらいは痛い。そうでない場合は、声を押し殺すことも難しいほどだ。
「昨日、嫌なことでもあったの?」
僕は今度もひやりとさせられた。彼女は脈拍から病状を類察する手練の看護師みたいに、感情を噛み取ることができた。
「昨日は、革靴のソールが剥がれたよ」
彼女は満悦の表情を一瞬浮かべてから、同情を頬に翳らせた。
「ごめんなさい」
「どうして、君が謝るの?」
「……アメリカでは、そういうの」
僕は映画の一幕を想起した。同情のI'm sorry. 奥ゆかしさは日本の専売特許ではない、と僕は思った。
「でも、本当に君が謝るほどのことではないよ」
「でも、悲しいんでしょ?」
そう言うと、彼女はもう一度僕の薬指を齧った。相変わらず痛かった。
「痛いよ」
「でも、悲しいんでしょ?」
僕は確かに悲しかった。桜桃の味を噛み締めたくなる夜みたいに。