This is。
自分の人生ではないみたいだ。思考実験。ある時点から、僕の人生が他人の人生に置き換わっている? 僕の人生は大きく三つの時期に分けることができる。充足期→世渡期→耽溺期。その移り変わりで、置き換わってしまった可能性が高いと考えるのが自然だろう。
充足期。あの頃、世界は僕の思うがままだった。僕は子供の時から妙に自分を客観視するきらいがあった。自分の能力の範疇を限りなく正確に把握することがなぜかできて、それゆえに極めて妥当な目標を立てることができた。そういった目標は全て達成してきた。能力自体は遺憾なく発揮することができたが、心はもちろん渇いていた。でも、振り返って見ればあの頃が一番幸せ(定義は人それぞれだけど)だった。一度、予定不調和な出来事で足下をすくわれて、随分悩んだ。(もっとも人生にはそういう変数がたくさんあるから、たった一回で済んだのはむしろ幸運だ)その過程で、僕は世渡を会得していった。
世渡期。諦念期と言い換えることもできる。一介の人間に過ぎないことの無力さを理性的に捉え、風の赴く方へ、大勢の流るる方へ身を預けて過ごした。そのような生き方は、功利的に考えても至極理に適っていた。自分はこのように生きていくんだと、ある意味では確信していた。
しかし、耽溺期。突如として(あるいは、気付けないくらい日進月歩に積み重なって)自分という存在に溺れるようになった。自分という生涯の代替不可能性を信じ始め、どうしようもないことに足掻くようになった。かつてできた客観的な把握が、かつてできた最大公約数的な生き方が、しどろもどろになってしまった。歩様は乱れ、呼吸も崩れる。それでも理性を騙しながら、突き進んでしまう。子供の頃、呆れるようにみていた大人に、僕は置き換わりつつある。
こうして振り返って見ても、そこには認めざるを得ない連続性がある。やるせないけれど、これが僕の人生なのだ。