あの夜のピアノ。
「昔取った杵柄だよ」
それにしても、彼が演奏するピアノは余りに甘美だった。
「ピアニストにでもなれそうなくらい」
弾く方はてんでありきたりなものだったが、私の耳はなぜか特別に肥えていた。(調律師の叔父に随分重宝されていたくらいだ)
「僕は、なれなかったんだよ」
彼は時々憂いを帯びることがあったが、その言葉を落とした時それは殊更だった。
またある時、私達の前にピアノが現れた。ピアノという存在は、お化け屋敷のお化けみたいに然るべき所に佇んでいるものだと私は思っていたが、それは間違いだった。ピアノは街中や小さなお店などの至る所に顔を出し、鍵盤に指を置かれることを待ち望んでいる。彼と入ったショット・バーにも、瀟洒なドイツ製のピアノが待ち惚けていた。
「また、弾いてよ」
彼は酔いが回っていたからか、この前より柔らかい表情で頬笑んだ。
「いいけど、どうせ下手くそだよ」
やはり、彼は店内の空気を一瞬で自分のものにした。マスターがリクエストした昔の映画の劇中歌(彼はひどく映画に凝っていた)も、そらで弾いて見せた。彼は間違いなく、世界中を見渡しても限りなく数少ないピアニストになる資質をもっていた。
「ねぇ」
しかし、彼は自分の過去の話をすることを極端に嫌っていた。
「よそうよ、昔のことなんだから」
彼とは暫く会っていない。私は結局、叔父の元で働くようになり(世界中には捨てて余るくらい調律を求めるピアノがあった)、演奏者とは違う形でピアノと対話をする日々を送っている。それはもしかして、彼が自分の意志でピアノを弾く時に、少なからず関わっていたいからなのかもしれない。